少年とツツジ
「少年とツツジ」
吉塚は自身の出生について考えていた。平凡な家庭に産まれたらどうだったか、或いは農家の産まれも良かったのかも知れない。欲を言えば洋風屋敷に住む様なそんな人生に、当たり前に産まれていればどうだったろうか。ツツジの蜜を舐めながら、ひたすらに平行世界にいる、幾人かの自分を妄想していた。
吉塚は幼い頃からSFが好きだった。初めて読んだのは「漫画少年」に掲載されていた”地底帝国の逆襲”という短編だった。吉塚は友達と生傷を増やしながら健やかに遊ぶよりも、妄想世界の住人でいる方が心地良い事を知っていた。吉塚に「漫画少年」を与えた叔母は、その事に文句を言わなかった。寧ろ実子の方を手間暇かけて教育したいのだから都合が良かったのだろう。
吉塚の父親はパラオからラバウルに歩兵第229連隊を運んだ信濃丸の船員だった。ラバウルまで死にものぐるいでたどり着いた後にマラリアを発症し、手当の甲斐なく土と帰った。その報せを受けた母親は隣村の男と二人で行方をくらませた。その時の光景を吉塚は今でも覚えていた。畦道の中程にしゃがんだ母親は、手招いて吉塚を呼び、黙って水田の方を指差す。
隣にしゃがみ込み水面に顔を近づけて微少な世界を覗き込むと、うねうねと大量の黒胡麻の化け物が群れを成していた。微細に尾を振るその様が、幼い吉塚には深刻な恐怖を与えたらしく「あ!」っと声を上げて尻餅をついてしまった。吉塚に恐怖を与えた主犯者たる母親は、小さめだが肉厚な唇の端をニワっと上げ「ギャールゴは噛まんよ」と優しく微笑み、その場から黙って去っていった。吉塚の母親に対する記憶を以上が最後になる。
残された吉塚は母方の叔母に引き取られ、多感な時期を活字の海に溺れて過ごした。特に吉塚の心根をくすぐったのはSF物であった。空を船が飛び、惑星より来訪する宇宙人を電子銃で撃ち倒せば、海底二万マイルの航路に戻り、月の裏側にある実験施設へ舞い戻る。汗を吸い尽くしたカビ臭い布団の中で、夢の中までもいざ参らんとせんばかりに、幻想世界の物語を愛し、また愛されようとしていた。
吉塚はあの日、母親がいなくなった畦道にしゃがみ込み、じっと思考していた。平行世界にいる自分はツツジの味を知っているのだろうか。風になびく黄金色の稲穂の美しさ、無情に流れる雲の速さ、母親に捨てられた畦道の切なさ、それらをまた違う形で味わう事があるのだろうか。
吉塚は道中で摘んだツツジをちゅうちゅうと吸いながら流れる雲を見上げた。