第十二話
言うべきか、言わざるべきか。 人は一生の間、その課題を何度か突き付けられる。 当人にとって伝えられて嬉しいことであれば、それは当然伝えるべきで。 そしてそれが不幸なことであれば、伝えるべきではない。 当たり前の話であるが、中々難しいことでもある。 そして今回は……決して伝えるべき内容ではない。
『柊様、どうかされましたか?』
『ん、ああ。 実は、少し話がしたくて』
俺が頭の中で秋月のことを考え過ぎていた所為か、その感情が伝わってなのか、秋月の声が聞こえてくる。 俺はできる限り冷静に返し、秋月の反応を窺った。
『何かあったのですか? わたくしはもちろん、柊様がお話をしたいと仰るのならば、いつ何時でも問題はありません。 ……それに、わたくしもたった今、柊様にお話をしなければいけないことができました』
事態は思ったよりも悪く進んでいる。 秋月の声を聞き、俺はそう思った。 ならば答えは一つしかあるまい。 俺が請け負った依頼だ、最後までその責任も果たさねばなるまい。
『そうか。 こっちはお前に伝えたいことがあるんだ。 大事なことを忘れていた』
丁寧な返しに、俺は簡単にそう返す。 秋月が傷付かず、誰も傷付かない方法はある。 鬼道伊助が既に死んでしまっているという事実は絶対に変わらない。 そして、その事実はきっと秋月の心を深く傷付けるはずだ。 このまま行けばそれは必然で、だからこそ俺にはそれを防ぐ義務がある。 伊助さんと会うという提案を身勝手にし、お節介なほどに協力し、ここまで連れて来てしまった俺の義務だ、責任だ。
だから、俺は秋月のことを嫌わねばならない。
「大丈夫でしょうか? 随分、焦っていた様子でしたが」
「ああ、まぁな。 そういや言い忘れてたことがあったって思って」
神社へ行くと、秋月も丁度山から降りてきたところだった。 顔に少し汚れが付いており、楽なものではなかったことが窺える。 現在時刻は午前十一時半、あの老人が来るまではまだ時間がある。 それまでに、秋月を納得させなければならない。
しかし意外にも、俺はあまり不安を感じていなかった。 それは俺と秋月が未だに会える方法を見つけていないから、というわけではない。 何故なら、秋月の手には何かが握られており、恐らくそれが秋月自身を少しの時間、生前の状態へ戻すことができる物だろうから。
でも、問題は何一つなかった。 俺がするのは最低のことで、最悪なことだ。 だがそれで秋月が前を向けるなら、この一件を終わらせることができるのなら、真実を知らずに済むのなら……それで良い。
「見つけたのか?」
「あ、そうです! 柊様、見てください」
秋月は手招きをする。 俺はそれに従って秋月の元まで行くと、秋月は俺と秋月が話をした縁側に腰をかけた。 俺も同様に腰をかける。 人一人分ほどのスペースを空けて。
「予想になってしまいますが、強い想い入れというのは、わたくしが伊助様に向けた強い想い……ということだと思ったのです。 もしも正解だとしたら、当然わたくしの着物では駄目でしょう」
秋月は言い、俺に着物を見せるように両手を広げる。 相も変わらず綺麗な着物だった。
「しかしわたくしが伊助様に想いを向けた物と言いましても、贈り物をしたわけでもされたわけでもありません。 途方に暮れそうにもなりましたが……ひとつ思い出したのです。 柊様の言葉を」
「俺の?」
秋月は胸に手を当てる。 そして、言った。
「人の想いは一方的なことの方が多い、というものです。 至極、その通りだと今のわたくしは思います」
……確か、秋月が俺の家に泊まった夜、そんな話をした気がする。 俺ですら言われるまで全く覚えていなくて、別に深い意味なんて込めたつもりもなかったが。 それに、ただの皮肉的な意味合いが多かった。 だったのに、こいつはそんな言葉まで覚えてるのかよ。
「結局、わたくしの想いも伊助様の想いも一方的なものだったのかもしれません。 わたくしは伊助様だけが幸せならば良いと思い、伊助様もきっと同じでした。 そんなわたくしが二人の幸せを望んでしまった故に、わたくしは殺されたのではと思いました」
「そんなことは」
言いかけ、俺は口を閉じる。 今から俺がすることを考えろ、馬鹿野郎。 今更慰めなんてして、なんになる。
「ですが、柊様。 ひとつだけ教えて下さい、わたくしは未だに分からないことが一つだけあるのです」
秋月は息を整えて、俺の方に向き直る。 真っ直ぐと俺の目を見つめる瞳は、まるで宝石のようだった。 真摯に問うその声は、透き通るようだった。 問題に立ち向かうその姿は、俺にはない全てを持っているようだった。
「果たして――――――――わたくしの想いは間違っていたのでしょうか?」
秋月は続ける。 五十年……いや、百年以上も悩み続けるその問題と対峙する。 秋月と伊助さん、二人の関係の根本に対する問題に。 身分の違いがあり、生まれの違いがあり、埋めようがない溝は深く深く、二人の間にはあった。 それでも二人は寄り添おうとし、そして結果……秋月は、命を落としたのだ。 それからずっと、秋月はこの想いを抱いていたのだろう。 もしも伊助さんに恋をしなければ、死ぬことはなかったのではないか、と。 そして誰でも良い、誰かに聞きたいのだ。 その恋心は過ちだったのかと。
「わたくしの恋は、否定されなければならなかったのでしょうか? わたくしの気持ちは、汚れていたのでしょうか? わたくしはどうして、どうして殺されなければならなかったのでしょうか?」
その心は……秋月が奥底にしまい込んでいたものだ。 絶対に出さないよう、深く深くしまっていたものだ。 普通ならば当然感じるその疑問をこいつは、人を好きでいるために隠していた。 人を嫌いにならないように見せなかった。 それこそが秋月葵の優しさで、秋月葵の純粋さを表している。 どこまでも人を慈しみ、どこまでも人を愛している。 こいつは、人間という生き物が好きなんだ。 伊助さんとの出会いを目前にし、秋月は抑えきれない感情を俺にぶつけてくる。
「やめろ」
「……柊様」
マズイと思い、俺は秋月の言葉を止める。 これ以上こいつの想いを聞いてしまったら、俺の浅はかで愚かな考え方なんてものはすぐに変わってしまう。 今でも充分にマズイというのに、これ以上は聞くことはできない。
「……それで、見つけたのがそれか?」
俺が話を変えると、秋月は一度目を瞑って自身を落ち着かせていた。 そしてひと言、失礼しましたと言った彼女は、俺の質問に口を開く。
「ええ、そうです。 わたくしが山頂から持って来いと命じられた石です。 なんの変哲もないもので、これは未だにありました」
秋月が人生で一番想いを強く込めた物、それはそこら辺に落ちていても不思議ではない石だった。 秋月が持って帰ってくることができず、それさえ持ってくれば伊助さんと結ばれると信じて疑わなかった、ただの石だ。
……間違いない。 俺は眼で見て、それを確信した。 明らかに異常とも呼べる霊気の量がそこには見える。 百年分の想いが、そこにはしっかりと込められている。
だけど、俺は言わねばならない。 秋月の想いを踏みにじらなければならない。
「秋月、俺からの話だ。 伊助さんと会わないで欲しい」
「え……っと、柊様……?」
秋月は呆然とした表情で、ぽつりと言葉を漏らす。 何を言っているんだ、とでも言いだけな顔だった。 俺はそんな秋月の表情を見ながら、続ける。
「会わせることはできない、俺はもう協力できない、お前はあの人に会うべきじゃないんだ、秋月」
「それは……それは、わたくしはどうして、と聞いても宜しいですか。 柊様、わたくしがその理由を聞かず、納得すると思いますか」
秋月から初めて、ほんの少しの怒りが見えた。 あまりに一方的な俺の言い分に秋月がそう思うのは無理もないことだ。
「理由を聞いたら、お前は俺を軽蔑すると思う」
俺は秋月から視線を外し、両手の指を組み合わせ、言い放つ。 自虐的な言い方にも、突き放す言い方にも聞こえていたと思う。 しかし秋月はそれでも俺から視線を外そうとはしなかった。
「……柊様、わたくしの顔を見てください。 わたくしの目を見てください。 そして、もう一度同じことを仰ってください」
「……」
一瞬視線を向けようとして、止めた。 見ることができなかった、秋月の真っ直ぐすぎる思いに立ち向かうのが、怖くなってしまった。
「何かを隠していますね、柊様」
「違う。 俺は別に、何も隠してなんていない」
「それこそ嘘です。 柊様はわたくしに軽蔑されるのが怖いのですか? わたくしに嘘を吐くのが怖いのですか? そのどちらも、わたくしは違うと思っております。 わたくしが知る柊心矢という方は、赤の他人であるわたくしに手を差し伸べ、とても無理な相談を真摯に聞き、そしてわたくしの想いを汲み取ってくれる、そんな御方ではないですか」
「それこそお前の思い込みだ、秋月。 俺は、お前が思っているほど出来た人間じゃねえ。 良いか、秋月。 俺が隠していることを聞かせてやる」
俺はようやく、秋月の方に顔を向ける。 心の準備はきっとできた、だから大丈夫だ。
「俺は嘘を吐いた。 お前がその石を使って伊助さんに会うことによって、起きることの話だ。 代償の話だよ」
「覚えております。 柊様は、代償はないと仰っておりましたね」
「そうだ。 けど、実際にはある。 他でもない俺がその代償になるんだよ。 それがどんなのか分からないが、使った当人ともっとも距離の近い人間が被害を受ける。 お前の場合、それは俺だ」
「……なるほど。 違和感はありましたが、そういうことだったのですね」
秋月は意外にも、それほど驚いた様子は見せなかった。 落ち着き、現在の状況を咀嚼しているようにも見える。 ただ、その内心は分からないが。 今、どれほど動揺しているかも分からない。
「最初は別にどうでも良いと思ってたよ。 でも、考えれば考えるほど俺は怖くなったんだ。 何が起きるか分からないし、第一」
なるようになれ、だ。 今更怯えてどうするんだ、言えば全部が終わるはず。 そうすれば、秋月がこれ以上傷を負うことはない。 こんな純粋でひたむきで眩しいほどの性格のこいつが、これ以上傷を負う理由なんてどこにもない。 だから、言え。
「お前のために、俺がそこまでする理由もないだろ? なんでお前のために俺がリスクを取らなきゃいけないのか、何も得なんてないし、良く良く考えたら分かったんだよ。 お前を助けることのメリットなんて何一つないって」
精々笑い、俺は言った。 秋月はそんな言葉を言い放った俺の顔を見て、表情をひとつも変えない。 ただただ、俺の顔を見つめている。 何を考えているのかが分からなくて怖い。 何を言われるのかが分からなくて怖い。 こいつに、秋月に嫌われるのは……やっぱり、怖かった。 でも、それでこいつが救われるなら、俺はそれで良い。 俺がいくら嫌われようと、俺がいくら軽蔑されようと、侮蔑されようと拒絶されようと蔑視されようと。 それは俺のところで終わり、それで結末、結果だ。 嫌われるのは俺だけで、それ以上広がっていくことはない。 あの老人が嫌われることも、秋月が自身を嫌うこともなく、傷を負うのは俺だけだ。 恐らく、それが最善なのだ。 俺は俺がどうなろうと興味はないしどうでも良く、だからそう終わらせてしまうのが、もっとも丸く収まる方法なんだ。
「それは、最低ではないですか」
秋月は声を漏らす。 依然として表情を変えず、俺の方を真っ直ぐと見て。
「一度受けると仰って、伊助様と会えと仰って、わたくしに嘘まで吐いて。 最初に言って頂ければ、わたくしは別の方法を探しておりました。 なのに柊様は嘘を吐き、結果としてこの石もわたくしの徒労に終わりました。 それは、とても酷いことではないですか。 出会いは、目前だというのに」
声は冷たかった。 そして、予想以上にその言葉たちは俺の心に食い込んだ。 締め付けられるような痛みで、俺はそれを顔に出さないように我慢する。 あくまでも、俺は悪を演じなければならない。 秋月に対して、最悪な人間でいなければならないんだ。
「柊様のことは、嫌いです」
最後にそう、冷たく言い放つ。 そして、秋月は数秒の間を置いて、笑った。
「と、わたくしが冷たく突き放すのが柊様の狙いでしょうか?」
秋月はそう言ったあと、片手を自身の胸へと置き、俺に言い聞かせるように続ける。
「無粋ながらもそう邪推してしまいますね。 柊様、あなたはわたくしのことを一片氷心と表してくれましたが、その逆もまた然りなのですよ。 わたくしとて、柊様のことは存じていると自負しております」
「……秋月」
思わず、俺は息を飲んだ。 怒らず、焦りも動揺もせず、落ち着き払った声で秋月は言う。
「柊様がわたくしのことを素直だと仰っているように、わたくしも柊様のことは慈愛に溢れた人物だと思っております」
「……俺はそんな奴じゃねぇ。 お前のそれは、間違ってる」
「それはとても不思議です。 わたくしがそう申し上げているというのに、柊様はそれを否定なさるんですか? 柊様が「素直だ」と評してくれるわたくしの言葉を否定するということは、つまりそれはわたくしが素直だということさえ、否定することになるではないですか」
何も、言い返すことができなかった。 秋月の言うそれは、もっともな話だった。 こいつは俺が見ているよりも余程、人のことを見ている。 そして、俺よりも余程、人を愛している。 秋月を騙すということの難しさは、想定の遥か上だった。 俺にはとてもじゃないが、こいつを騙し切ることなんて出来やしない。 だから俺は次の手もなく、ただただ黙って秋月の言葉を受け入れる。
「ですが」
秋月は右手を伸ばし、気まずくなって視線を逸らした俺の顔に触れる。 暖かく、柔らかい手だった。 そんな手で俺の顔に優しく触れ、秋月は続ける。
「柊様がそこまでして隠すことなのでしたら、それはきっと間違いではないと思います。 なので、わたくしは柊様の意思を尊重致します。 ここまで来れたのも柊様のおかげで、ここ最近とても楽しい思いをさせて頂き、わたくしは感謝はせど恨みなど絶対に致しませんよ。 なので柊様、どうかそんな悲しそうな顔はしないでください」
「……お前は、どんだけお人好しなんだよ」
「はて、わたくしはそうは思っておりませんが」
秋月はまた笑う。 その笑顔に、俺は何度と助けられるのだろうか? こいつの優しさは、暖かさは、こいつにしか持てないものなのだろう。 俺は秋月の持つ優しさには、一生追いつくことはできないだろう。 そう思わされる言葉だった。
「では、これも不要になってしまいましたね。 少々素行が悪いと思いますが……この方が、分かりやすいので」
秋月は言うと、傍らに置いてあった石を投げる。 かなりの年月を過ごした石は、地面へと当たると簡単に砕け、割れた。 同時、石が持っていた大量の霊気はあっという間に霧散し、消えた。
「本当に、良かったのか」
「良くも悪くも、元通りになっただけではないですか。 それに、少々口が悪いですが……話し相手もできましたので」
「悪かったな、口が悪くて」
俺は言い、笑った。
だが、俺も秋月もとある勘違いをしていたのだ。 俺たちが見つけた方法というのは、あくまでも仮のものでしかない。 そうやれば、もしかしたらという、たらればの話なのだ。 だから本来、ぱっと見て破壊と言われるそれも、逆のことが起こり得る。 詳細な方法を知らないのだから、その物を壊すということこそが、成功させる方法だったとしたら。
「……あなたは、まさか」
声がした。 そして――――――――表と裏が、繋がった。
真正面、神社の階段の方からだ。 そこに立っているのは毎週土曜日に訪れる老人で、俺はこの人が伊助さんではないことを知っている。 だが、今この人は明らかに俺たちの方を見て声をかけた。
「伊助、様?」
「秋月さん、ですか? 秋月葵さん、ですか?」
それは妙な光景だ。
だって、そうだろ? 一体これは、どういうことだ? この老人はどうして、ここに居るのが秋月葵だと知っている?




