第五話
言われて嬉しい言葉ではなかった。 身分の差は知っていたが、あからさまに言われて良い気分になる人間は居ない。 いくら秋月が綺麗な心を持っていたとしても、そう思うのは無理のないことである。 むしろ、そう言われたにも関わらず、あまり気にしないようにする振る舞いは評価されても良いとすら、俺は思う。
俺が秋月の立場だったのなら、絶対に悪い方向にしか物事は進まないだろうからな。 今この時代に生まれて良かったよ、俺は。
「口というのは災いを招く。 口に出せば言い逃れはできない。 けれど、人の言葉は様々なことができる」
その日の夜、秋月は布団の中で伊助さんに言われた言葉を繰り返す。 その言葉はとても気に入って、素直に美しい言葉だと思えた。 自分は特に学もなく、質の良い暮らしをしているわけでもなく、ただの村娘だったからこそ、伊助さんのことは遠い存在にも思えたらしい。 その時点では特別な感情というものはなく、ただただ雲の上の存在のような、自分と同じほどの年齢でも、自分が全く知らない世界を知っている人間がいるのだという、興味のようなものがあっただけ。 率直に、もっと知らないことを知りたいという興味があっただけ。
「なんか、ムカつくな。 その伊助さんの父親」
「柊様、ですから口は災いを招くと……」
「いや、けどさ。 なんかそういう……うーん、偉そうな奴ってムカつかないか? 確かに身分の差はあるかもしれないし、重ねた努力の差もあるかもしれないし、時代の違いってのもあるかもしれないよ。 でも、それ以前に同じ人間じゃねえか」
「……わたくし、今衝撃を受けました。 そのような考え方もあるのですね。 同じ人間、ですか」
秋月は口を開け、それを慌てて隠しつつ、そう言葉を漏らす。 思ったことを言っただけなのだが、秋月からしたら衝撃を受けることだったらしい。 なんか俺が馬鹿みたいになってきてないか? これ。
「わたくし、柊様とは五十年前にお会いしたかったです。 そうすれば、もしかすれば、何かが変わっていたのかもしれません」
秋月は胸の前で手を重ね、言う。 どこか切ない表情をしながら、そうする姿は儚い姿だった。 その言葉は淡い希望にも思え、たったそれだけのことに縋っているようにも見える。 秋月としては、きっとこの現状が辛くて堪らないものなのだろう。 来るはずのない自分を待ち続ける、伊助さんのことが辛いんだ。
「それは、無理な話だな。 俺とお前が会ったのは今日なんだから。 それに、俺はそんな大層な人間じゃないよ」
「……ですね。 たらればの話をしても仕方がないですね」
「けどまぁ、悪かった」
俺は言い、秋月から視線を外す。 秋月がそう望んで、それに答えられなかったのは俺の方だろう。 これは理不尽なことかもしれないけど、その時代に居なかった俺に責任があるのだと思う。 だからそう伝え、俺は話の続きを聞く。
「柊様?」
「ん?」
しかし、秋月は俺の顔を覗き込む。 とても不思議そうな顔をしていて、俺のことを心配しているような目付きにも思えた。
「……いえ、なんでもありません。 お話、途中でしたね。 それからわたくしは、休日であった土曜日に、秘密の場所に行ったのです」
「おお、自分だけの場所か? そういうのって良いよな、憧れる」
一応、俺にもあるにはあるが……結局は沙耶にバレるので、俺だけの場所というのはないな。 今で言うなら神城さんから借りている家くらいか。 けど、あそこは意味合いが違うよな。
「ええ、一人で居るといろいろなものから開放されるような……とにかく楽になれたんです。 大した苦労もしていないのに、少々おこがましいことですが」
「それについては心配要らない。 俺は常に楽を探しているからな、秋月がそれでおこがましいなら、俺は一体何になるんだって話だよ」
「ふふふ、面白い方ですね、柊様は」
……褒められているのかどうか微妙だな。 まいいや。
そして、秋月は次の土曜日、秘密の場所へと足を運んだ。 いつもそこで風に撫でられながら、一時間ほど過ごしていたらしい。 おはぎとお茶を持ち込み、そこで過ごすその時間は、秋月の唯一の楽しみだったとのことだ。
その場所こそが、この神社である。 今でこそ随分廃れてしまっているが、当時はそれなりに綺麗だったらしく、空気もとても気持ち良く、最高の場所だったとのこと。 人が訪れないという点だけが今と共通で、毎週土曜日の十二時から十三時はそこで過ごすのがお決まりで、秋月は存分にその時間を謳歌していた。
「はー、疲れたなぁ」
これは、秋月は恥ずかしそうに言うのだが、おはぎは必ず三個、食べていたらしい。 体型はむしろ痩せているくらいのものだが……案外食べる方なのかもしれないな。 とにかく、おはぎを食べてお茶を飲むその時間は、幸せだったとのことだ。
「……んー」
その日は陽気が気持ち良く、疲れが少し溜まっていた体は次第に力が抜けていく。 気付いたら、秋月は眠りに落ちていた。
それから少しの間、秋月は気持ち良く眠っていた。 が、突然体を揺すられたことによって、目が覚める。
「……」
目を開けると、一度見たことがある顔の人が覗き込んでいた。 どこかで、見た顔。 どこだったか、それを思い出すために、眠りから覚めたばかりの頭を回転させる。
「……鬼道様、鬼道様?」
ああ、そうだ。 この人は鬼道の家の……鬼道、伊助。 そう思い出し、次に秋月は勢い良く体を起こした。 一体何が起きているのか、どうしてここにいるのか、それをいち早く理解したく、頭を上げる。 だが、そうすれば当然……覗き込んでいた人物の顔にぶつかるわけで。
鈍い音が響き、額に痛みが走った。 ますます混乱し、秋月は立ち上がって周囲を確認する。 まず目に入ったのは、神社だ。 自分が良く知る、自分だけの場所。 そして次に目に入ったのは、お茶とおはぎ。 二番目に視界に映るのがそれとは、もしかして秋月は食い意地が張っているのか。 そんなツッコミはしなかったけど、とにかく次第に秋月は状況を理解していった。
で、理解した結果、自分が鬼道伊助に頭突きをお見舞いしたという事実が判明したのだ。
「あ、え、お」
言葉にならない声を出し、一気に体中にある血が冷える感覚を受ける。 謝る、謝る、謝る、どうやって、償う、そうだ。
「死んで償いますっ! ですので、どうかわたくしの家族はお許しくださいっ!!」
「あいたた……えぇ? 秋月さん、大丈夫? まだ寝ぼけてる?」
さすがの伊助さんも、少し引いていた。 悪い癖だと秋月自身は思っているものの、どうにもある一定のラインを超える出来事が起きると、妙なことを口走ってしまうらしい。
「き、鬼道様! 血、血が……」
「ん、おお、結構激しい頭突きだったからなぁ。 ま、こんなのちり紙でも突っ込んでおけば大丈夫大丈夫」
言い、伊助さんは本当にちり紙を鼻へと突っ込んだ。 その光景が信じられず、秋月は一気に現実へ引き戻された。 秋月が知っている鬼道家の者だったら、今頃殴り飛ばされていてもおかしくはないし、ましてや鼻血に対してそんな適当な処置もしないだろう。 だからこそ、この異常な状況に目を疑う他なかった。
「お、おお、怒っておられないのですか。 わ、わたくしは、とんだ無礼を」
「怒る? あっはっは! 俺が? どうして? 寝ている君を起こして、それで起きた事故なんだから、悪いのは俺だろ? 秋月さんが謝る必要もないし、俺が怒る理由なんてもっとない。 だろ?」
全然違うと思った。 鬼道家の人と、この人は何もかもが違う。 こういう人も居るんだということが新鮮で、増々興味が湧いてしまった。
「少し話そう。 俺、久し振りに帰ってきて全然分からないことだらけなんだ。 それに、秋月さんって面白いし」
「面白い……」
別に、面白いことをした覚えはない。 けれど、話すことに嫌悪感なんてものはなかった。 秋月自身もまた、鬼道伊助という人に俄然興味が湧いたのだから。
それが二人の馴れ初めで、お互いに興味を持った二人が恋に落ちるのも、時間の問題だった。
秋月からすると、鬼道伊助は自由人という感じで、最近まで姿を見なかったのも旅に出ていたかららしく、家のことはあまり好きではないとも言っていたらしい。 意外にも大雑把な人で、とても親しみやすく、優しい人だったとのこと。
反対に伊助さんからしたら、秋月は自分の知らぬ世界の人間で、自分が知らない小さなことも知っていて、旅をしても知ることができない、要するに雑学ではあるが、そういう類のものを沢山知っており、それに興味を示したらしい。
……ま、要するに相思相愛だったというわけだ。 俺は若干興奮しながら話す秋月の話を聞いて、そう感じたね。
「ですが、長くは続きませんでした。 それに叶う恋でもありませんでした」
それもそのはず。 秋月と伊助さんには、埋めようがない身分の差があった。 伊助さんは「二人で遠くに逃げよう」とも提案していたが、秋月は母親、父親、兄妹を捨てることなんてできずに、謝ることしかできなかった。
しかし、それで二人の仲が裂けたわけではない。 いつか絶対に分かってもらえると信じ、秘密の場所での出会いは続く。 毎週土曜日の十二時から十三時、毎回秋月が場所の関係もあり五分遅れで、伊助さんがそれを待っているという感じだったらしい。
最初に、遅れた秋月が言う。 お待たせして申し訳ありませんと。
それに対し、伊助さんは言う。 君のことならいつまでも待てると。
それを言われた秋月は顔を赤くし、恥ずかしさから顔を逸らすという、そんな聞いてる俺が恥ずかしくなってくる話をしてくれた。 それだけしっかり、話をしてくれた。
だからこそだろうか。 少し足を踏み入れすぎてしまったかもしれない。 俺は最後まで話を聞いて、最後まで理解して、それで強く想ってしまったのだ。 秋月のために、なんとかしてやりたいと。
さて、そろそろ長い昔話も終わりが見えてきたところだ。 現状からして、この物語が綺麗な終わり方をするなんてことは、誰も思っていないだろう。 だから言ってしまおうか。 この話には救いはなく、悲劇は悲劇でしかないと。 結末は最悪で、救いはないと。
俺の口から、そんな最悪な結末を語らせてもらおうか。




