第一話
人は死ねば消えてなくなる。 きっと、そんな当たり前のことをより深く知っているのは大人なのだろう。 当然、若い人間でそれを知っているのは極少数に限られてくる。 親しい人の死、それを見て、体験して、考えて。 そうすることでようやくそれは理解できることなのだ。 例えば、人が人の死を知る場面のひとつを上げてみよう。 もっとも多く、そして大多数を占めるのがネットやテレビ、そういうメディアから知らされる死だ。 著名な人物や果ては事件、事故。 そういった類の物に含まれる死は、俺たちの身近にあると言って良い。
だが、果たして人々はそんな死を覚えているだろうか? 答えはノー、すぐさまそれは人の記憶から消し去られる。 ここ数日で良い、ここ数日、メディアからの情報で知らされた人の死を全て覚えているだろうか? すぐさま答えられる人は、きっと居ない。
詰まるところ、それは死を実感するとは言えない。 自分自身から遠いところにある死は、言ってしまえば創作された物語の中の死となんら変わりはないのだ。
そう。 死というものは、身近で起き、経験することによって、初めて実感を得られるものなのである。
『来日中のハリウッドスター、ウィル・ルイスフォール氏が事故に巻き込まれる』
『アリゾナで航空機事故。 生存者は絶望的か……』
『先日のデパート火災、死亡五名、負傷者三十六名、行方不明者十二名に』
携帯でそんな不幸なニュースを眺めながら、俺は無感情に画面を見つめていた。 最近、こういった不幸な事故が増えているな、と思いながら。
「それじゃ、今日はこの辺りで。 みんな、気をつけて帰るのよー。 ここ一ヶ月ほど、交通事故も増えているからねー」
担任の教師が言い、静かだった教室に喧騒が広がっていく。 俺、柊心矢はそんな音を聞きながら、足早に家へと帰るべく、席を立った。 体は重く、鉛のように感じる。 俺はどこにでもいる平凡な高校生……という出だしは在り来りすぎるので、ここはこう表そう。
俺はごく普通の高校生が滅多にすることがない経験をし、普通だったらしない経験をし、今日を生きている。 そんなある種、珍しい人物だと。 自分をそう表現するのは如何にも中二病丸出しで嫌なものの、そう表現するのがもっとも分かりやすい。
高校二年生、十六歳の冬、俺は特にしたいことも、夢も、目標ですら持っていない。 意味がないと、そう思っているからである。 元々面倒臭がりな部分もあるのかもしれないが、俺にはそう思わせる決定的な出来事があったのだ。
教室から出ると、喧騒は廊下にまで広がっていた。 楽しげな会話が耳に入り、俺は心の中で舌打ちをする。 何が楽しいのか、何が愉快なのか、何が幸せなのか、お前らは一体、何故、そんなに楽しそうに暮らせている? あんなことがあったというのに、どうして笑っていられる? そう思いながら、俺は同級生たちの間を縫って進んでいく。 そんな俺を誰も見ず、誰も気にはしていない。 お前らだって、いつか……いつか、あいつと同じようになるというのに。
そうだ。 意味がないんだ。 死んでしまったら、意味なんてない。
一年前、俺には親友がいた。
「心矢、今日も部活か? 精が出るな」
「まーな、次の大会じゃ副将だし。 俺の試合は絶対負けないけど、団体戦だと他の奴の勝ち負けも関係するから勝てるか微妙っちゃ微妙なんだよな」
結城沙耶。 幼馴染と呼べるその親友は俺の席へとやって来て言う。 和服が似合いそうな黒髪を肩よりも少し伸ばし、窓枠に腰を掛けながら話しかけてくる姿は絵にもなりそうだ。 こいつは人と話すときに真っ直ぐと話し相手の目を見るような奴で、よく真面目だなと囁かれるているのを耳にする。 が、当人がその話を理解できているかは別の問題。 というのも、沙耶は大方、頭の中で殆ど噛み砕けていないのだ。 悪く言えば受け流していると言える。 こと俺との会話は噛み砕いているようにも見えるが。 むしろそうであって欲しいが。 要するに見た目だけ頭の良い馬鹿、ということである。 それは成績ではなく、人間関係においてだ。
そんな沙耶と俺は良くも悪くも腐れ縁で、幼稚園から小学校、中学校、高校までずっと一緒に過ごしている。 とは言っても、この田舎ではそこまで高校の数があるわけはないので、必然と呼べることもかもしれない。 同じように幼稚園からというのは居るには居るが、特別仲が良いのは沙耶だけ。
「む、大将じゃないのか? 心矢が大将じゃないというのは私が剣道部に殴り込みをしていい事案だよな? ちょっと腹ただしいぞ」
両手を拳にし、顔の前まで持って行き異議を唱える沙耶。 仕草のひとつひとつがどこか子供っぽくもあり、それもまた彼女の特徴で、黙っていればクールにも見られることは多々あるのだが、この性格がその邪魔をしている。 それに殴り込みとはこれ如何に。 むしろ俺が恥ずかしい事案じゃないか、それ。 一昔前のドラマでそんなのがあった気がする。 どうして私の子供が劇の主役じゃないのよ!? みたいなね。 見ているこっちが恥ずかしくなるアレだ。 お前は俺の保護者かなにかか。
「やめろよ馬鹿。 あのな、運動部ってのは第一に学年が上の方が偉いんだよ。 それでも高校一年生で副将に選ばれるってのは相当優遇されてるんだぞ」
俺は、自身の経験からそう言った。 小学校、中学校と剣道を続け、その上で知った上下関係というものを。 年上が偉いというのは世の理とも俺は考えている。 そして、そのことについては文句を言うつもりはない。 それは年上の言葉を絶対だと捉えているわけではなく、分からない奴には分からせれば良いとの考えからだ。 そうしている内に、親友と呼べる存在は沙耶だけになってしまったけどな。 悲しい。
「ふーん……ってことはやっぱすごいな! ふっふふ、さすが心矢! 私の誇りだな!」
肩をバシバシと叩きながら沙耶は言う。 時折女子っぽい仕草はあるものの、基本は男子のような仕草を沙耶は好む。 そうなった理由は、沙耶にとって親友と呼べるのは俺だけということが大いに関係している。 こいつの少々厄介な性格を考えれば、親交を深めようと思う奴は奇特な人物だ。 そんな奇特な人物である俺にとってもまた、やはり沙耶だけが親友である。
「お前に誇られても嬉しくねえよ……つうか痛い。 ま、そーいうわけだから俺は部活に行くぞ。 沙耶はどうすんの?」
これは沙耶の口癖みたいなものだ。 俺のことを誇りと言い、嬉しそうに笑うそれは。 俺自身はそういう部分に結構癒やされていたりもするのだが……懐柔されている、と言えなくもない。 もしくは洗脳か? 恐ろしい女だな。 まぁ、俺が「癒されてるよ、かっこはーと」なんてことを言えば、間違いなく沙耶は調子に乗るはず、だから俺がそれを目の前で言うことはない。
それに、俺自身もまた、結城沙耶という人物のことを誇りに思っている。 長い時間を共に過ごしたからこそ、その感情は芽生えているんだ。 恋とも信頼とも違う、言ってしまえばそれは憧れというものに一番良く似ていると、俺は思っている。 鬱陶しくも思うときこそあるものの、沙耶はいつも俺を引っ張ってくれていた。 自分で考え、自分で決め、自分で歩いて行くこいつに、俺は憧れているのだろう。
「んー、夕方まで待つのも疲れるしな、私は先に帰るよ。 というわけでまた明日だ。 部活、頑張れよ」
「おうよ」
いつも通りの別れだった。 部活に励む俺と、特に部活をやっていない沙耶は、いつも一緒に帰るわけではない。 沙耶はそれについては一切文句を言わず、それどころか俺の手伝いなんてこともしてくれることさえあるのだ。 俺は沙耶のそういう部分を誇りの一部だと思っている。
「あ、そうだ。 週末さ、心矢の誕生日だろ? 今日の帰りにケーキ買っておくから、部活終わって家に着くくらいにお邪魔するから覚悟しておけ」
「ん、そういやそうか。 つか、わざわざそんなことしなくて良いのに……」
それ以前に、覚悟しておけとはどういう言い方なんだと思考する。 殴られるの? 俺、なんか痛い目に遭うの? なんか覚悟しておかなきゃヤバイの? が、それは特に考えても答えを得られそうにないもので、無駄だと悟ってすぐにその思考は放棄した。
「駄目だ、ちゃんとお祝いしないと。 雪さんにももう話してあるんだからな」
頬を少し膨らませて、沙耶は言う。 雪というのは俺の母親で、沙耶と俺の母は大変仲が良い。 昔から家ぐるみでの付き合いのおかげで自然とそうなったのだが、厄介だとも感じている。 面倒臭がりの俺が、それを良しとしないのは考えずとも分かるしな。 女子の結託は面倒臭い、まぁ俺の母親は女子と呼べる年齢じゃねえけど。
「あてか、お前それって結構な遠回りに……っていねえし」
この辺りでケーキ屋と言えば、学校を基準に考えると、俺や沙耶の家から真逆にしかない。 それも結構な距離があり、今の時間から行けば、帰りは結構遅い時間になるのは間違いないだろう。 まぁ、それでも俺よりは早いくらいであって、日が沈む前には帰宅は可能である。
「はぁ……部活、行くか」
問題なしと結論づけ、特に気にするわけでもなく、俺は部室へと足を向けることにした。
そして、それが俺の見た沙耶の最後の姿だった。
「心矢、大変」
家に着き、玄関扉を開けるとすぐに母親が声をかけてきた。 見るからに血相を変えて、今からどこかへ出かける出で立ちで。 この時間から特に用もなく出かけるということは経験からしてまずあり得ない。 万が一あり得るのだとしたら……まさかまたしても夕飯の買い出しを忘れでもしたのだろうかとも思い、ため息を吐きそうにもなる。 そして最終的に俺は、確かにそりゃ大変だな、なんて呑気なことを思い、そのまま「そりゃ大変だ」と素っ気なく返し、家へ上がろうとする。
しかし、母は俺へこう言ったのだ。
「沙耶ちゃんが、事故に遭ったって連絡があって」
「……は? 沙耶が?」
病院に至るまでの経緯は、省こう。 重要なのはそこに至るまでの過程ではなく、結果である。 簡単に説明するとするならば、俺自身も大変動揺して良く覚えていないほどのこと。 そして、その出来事はそれから良いことに発展するわけもなく。
結城沙耶はその日、この世から消えてなくなった。
数日後に葬儀が開かれ、参列した俺は未だにそれが信じられなかった。 一番の親友で、一番良く知っている人物で、これからもなんだかんだ関わり合いながら生きていくんだろうな、なんてことを思う相手だった沙耶は、もう笑うことがない。 遺影は笑っていたけれど、俺の前で、俺に話しかけ、笑うことはもうないのだ。
そんな実感は当然なく、俺はただただ無気力になった。 学校でも密かに人気のあった沙耶の死は、学校全体を暗い雰囲気に包んだ。 より近い関係にあった同学年の生徒たちは、しばらくの間、魂が抜けてしまったかのように、まるで機械みたいになっていた。 それでも一番落ち込んでいたのは、俺自身だと思う。
「すいません、失礼します」
部活の顧問である教師に挨拶をし、職員室を後にする。 学校に行っても、沙耶の姿はない。 俺はそれならば意味がないと思ったものの、親が学校には行ってほしいというものだから、渋々学校には通っていた。 しかし、気力が一切沸かなかった。 部活はすぐに止めて、授業の内容も一切頭に入らない日々が続いていた。 そんな俺とは対照的に、学校の空気は段々と前のように戻って、悲しむ人は大勢居たが、沙耶の死は少しずつ、忘れ去られていくのが分かった。
人の記憶は頼りにならないとは良くいったもので、嫌なことや辛いこと、そういう類のことはどんどんと消え去っていく。 それと一緒なのである。 俺にとっては一生忘れられないことだとしても、俺よりも距離があった人間は皆、次第に忘れていく。 その事実が受け入れられず、同時に腹ただしくもなり、そしてそれは意味のないことだと思う繰り返し。 あの日、結城沙耶がこの世から消えた日、柊心矢が柊心矢である意味がなくなったのだ。 俺が俺でなくなる、それはイコール、俺もまた死んだと言えるだろう。
沙耶が死んだことによって、俺にとって生きる意味というのが、なくなっていたのだ。 だが、それでも俺は心の何処かで期待していたのかもしれない。 また、沙耶に会えるときが来るかもしれないと。 俺はそれに対してこう思う。 だってそうだろ? そうじゃなければ、俺が今現在もこうして一応は生きている理由が分からないからな、と。
馬鹿らしいことだと誰しもが思うだろう。 しかしそれでも、俺はそんなことに縋りながら死にながら生きているのだ。
「一年だな」
沙耶の墓の前で、俺は手を合わせて挨拶をしたあと、語りかける。 時が経つのは早いもので、あの日から既に一年が経過していた。 周囲の人間は、誰しも結城沙耶の死について触れようとしない。 それは敢えて触れないのか、それともただ忘れ去ってしまっただけなのか。 恐らくそれは、後者だろう。 だが、俺にとっては昨日のことのように思い出される出来事である。
「部活、辞めちまったよって言ってなかったっけか、そういや。 顧問がさ、お前ほどの才能を失うのは心苦しいって結構しつこかったんだ。 でも仕方ないよな」
俺はその昔、神童と呼ばれていた。 かつてないほど剣道の才に恵まれ、同時に自身が向上するためならなんでもした。 自負するほどに物草な俺が真剣に立ち向かうたったひとつのことが、それであった。 雑誌にも掲載されたことがあるほどで、練習試合、大会、その全ての試合において、俺はただの一度も負けたことがない。 しかし、とてもじゃないが剣道を続けられる精神状態ではなかった。 勿体無いとは思わない、意味がなくなったのだから、続けるのが馬鹿らしいくらいだ。
「弱音吐いていると怒られそうだし、今日は帰るわ。 またな、沙耶」
沙耶はずっと、剣道をしている俺を応援してくれていた。 そんな俺も、今となっては教師に煙たがられる存在になってしまっている。 授業をサボり、学校自体をサボり、一人で夜遅くまで遊んで補導され、典型的な不良と呼ばれるものになってしまった。 何かをしていないと何もする気が起きないから良いんだと自分に言い聞かせながら。
「馬鹿が」
「……沙耶?」
声が聞こえた気がして、俺は振り返る。 が、当然そこには誰もいない。 夕日によって赤く染まった墓が存在するだけだ。 冬の冷たい風が、俺の頬を撫でた。
目を覆うほどの黒い前髪を掻き上げ、ため息を吐く。 終いには幻聴か、そろそろ俺も頭おかしくなっちまったかも。 と思いつつ。
俺はきっと、今では何もかもが嫌いなのかもしれない。 学校も、剣道も、家も、人間も。 事務的なものを除けば、あの日から殆ど人と話した記憶はない。 家族とですら、話さなくなってしまっていた現状では、そう思うのも無理はないこと。
「……かえろ」
息を短く吐き、帰路に就く。 帰って寝て、起きてまた学校に行って、また帰って寝て。 それを繰り返すだけの日々は、退屈でしかない。 だが、退屈だと文句を言っても何かが変わるわけではない。 そんなことは、俺自身もよく知っている。
辺りはすっかり暗くなり、太陽が山の向こうに沈んでからしばらくの時間が経っていた。 いつも通りの帰り道、トンネルを抜け、道路の脇を歩いて行く。 時折車が来たら止まって、また歩き出す。 道が狭いせいで、人が歩いていると車もゆっくり通り抜けるしかないここはわりと危ない道で、教師には度々「気をつけて」と用心するように言い聞かされる道だ。
再び車が通過していく。 俺は立ち止まり、景色を眺める。 下は真っ暗で、落ちたらきっとひとたまりもないだろう。 沙耶が事故に遭った場所は全然違うところだが、一人で死んでいくっていうのはきっと怖いのではないだろうか。
そう思うと、途端に悲しい気持ちになった。 沙耶は最期、何を想っていたのか。 俺の誕生日がその週末でなければ、あの日あいつはケーキを買いに行くこともなかったのに。 そうすれば、あいつが事故に遭うことも。 考えたとしても既に決まっている結末は誰にも変えられない。 だが、俺は思ってしまう。 考えてしまう。
――――――――ああ、そうだ。 あの事故は俺が原因だ。 無理矢理にでも止められた、一緒に買いに行くことだって、俺が言えば出来たはずなんだ。 けど、心の中で「まぁ大丈夫だろ」なんて思って、俺は放っておいた。 そして、沙耶は死んだ。 俺のせいで、死んだんだ。 あの日の選択の全てが間違っていたんだ。 やり直せるものならばやり直したい、あの日の最初から……いや、そこまでは言わない。 俺が沙耶と教室で話していたあの瞬間からで良い。 もう一度だけ、俺はチャンスが欲しい。
いくら強く想ったとしても、何かが起きるわけもない。 タイムスリップなんて夢物語で、現実は厳しく、いつだって残酷だ。
そう。 残酷なのだ、現実は。
「……あ?」
得体の知れない気持ち悪さを感じながら、俺は顔を上げる。 何やら不審な音が聞こえたせいで。
その音の方向に顔を向けると、トンネルの奥から車のエンジン音が聞こえてきた。 音からして、相当なスピードか?
「なんだ、走り屋か? つか、ここでスピード出すとか馬鹿かよ……」
人事のように言う。 が、数秒後にはそれは人事ではなくなった。
運転手と目が合ったのだ。 いや、正確に言えば合っていない。 俺は、運転手の状況を確認したのだ。
「……おいおいおい、おい馬鹿野郎ッ!!」
運転手は、瞼を閉じていた。 頭を垂れ、一目で寝ていると判断できる。 それと一緒に、何か黒い影? のようなものが、その運転手に覆いかぶさっている気がした。 が、そんな不審な点は今後起こるであろうことを予測した脳が消し去る。 これから何が起こるかを理解しようと、体の温度が上がる。 同時に寒気、明らかに嫌な感覚。 どうする、大声を出す? それとも起きることを願う? それよりも、このまま真っ直ぐガードレールに当たったとして、無事に済むのか? 運転手はどうなる?
真っ直ぐとその車は俺へと向かってくる。 このままではぶつかる。 誰にだ? 他でもない、自分自身にだ。 直撃すれば……どうなる?
その瞬間まで、俺は自身のことを客観的に見ていた。 迫り来る死というものに、そうせざるを得なかった。 そして結果としてそれが、俺自身を死に追いやる。
「っ……!?」
とてつもない衝撃が俺の体を襲う。 まともに当たり、爆発音にも似た音が耳から流れ込んでくる。 そして車ごと俺の体は崖下へと投げ出された。
その瞬間はスローモーションで、大破した車と、衝撃によって血まみれの体。 千切れた腕、妙な方向へと曲がった足。 それはゆっくりゆっくりと、崖の下へ落ちていく。 こりゃ、死んだな。 間違いなく、死んだ。 直感で理解し、俺は目を閉じた。
不思議なことに、俺は安心感のようなものを覚えていた。 脳が咄嗟にそうなるように仕向けたのかもしれないが、きっとこれはそうではない。
彼女のところへ行ける、安心感だ。
どのくらいの時間が経っただろうか? やがて俺はゆっくりと目を開ける。
「あ、れ……俺、生きてる……のか?」
体を起こすと、そこは当然の如く崖下。 木に覆われ、しかしとてもじゃないが落ちて生きていられる人間はいなさそうな高さだ。 俺はそんな状況を必死に頭に叩きこみ、俺ってすげえ頑丈だったりするのかな? なんて馬鹿なことを思いつつ、辺りの景色を見回した。
「……車。 やっぱり落ちたのか」
落ちたことは間違いない。 大破しながら燃えている車も存在し、視点を上に移せば、無残な形となったガードレールもかすかに目に入る。 だが、それ以前に体のどこも痛みを感じない。 先ほど、俺がゆっくり流れる景色で見た限りでは腕が千切れていたというのに、だ。 もちろん、今現在、俺の腕はしっかりと体に付いている。 千切れるどころか、折れてすらいない。 当然足も同様で、かすり傷ひとつすらついていない。
「まさか……とは思ったが。 こういう奇跡もあるものだな……心矢」
「あ?」
不意に名前を呼ばれる。 聞き慣れた声だった。 俺はゆっくり、振り返る。 森の中、そこに、良く知った奴が立っていた。 今度は幻聴でも、幻覚でもない。 俺の目の前には、確かに彼女が居たのだ。 一年前、突如としてこの世から去った彼女が。
「さ……や……?」
「やっと会えたな。 ふふ、心矢。 死後の世界へようこそ」
こうして、俺と沙耶の奇妙な物語は始まった。