確かなこと
「ごめんね」
不意に彼がこぼした言葉は、意外なものだった。
「え……?」
「俺、きっと怖かったんだ」
うつむいた表情から、確実な情報を読み取るのは難しい。それでも彼が何かに苦しんでいるのなら、その根源を取り除いてあげたかった。
「ユウが苦しむなら……ずっとこのまま、ただそばで生きて行く道もあるかもしれないって」
「……」
「でも、違ってた。それじゃあ君に不誠実だって、気付いたんだ」
ふっと笑った彼は、一層綺麗で。
(私はこの笑顔が、すごく好きだった)
心の内でそんな感情が芽生え、はっとする。唐突に自分が、この微笑みにずっと焦がれていたように思えたのだ。
「セイは“いつも”、自分で答えを見付られるよね……いつも頼もしくて、前を見据えてた」
何かが乗り移ったかのように、勝手に言葉が口を衝いて出る。でも恐ろしさは全然なくて、むしろ安堵のようなものを感じた。
「だから……私は、いつも……」
不意に、ズキリと走った激しい頭痛。とっさに目を閉じれば、何かが聞こえてきそな……見えてきそうな気がした。今朝ルイたちといたときのような、独特の感覚。
―――欲しい。私が焦がれる人と、繋がれるはずの“何か”を。たとえそれが、痛みを伴うものであっても。
『君が、好きだよ』
嬉しかった。生まれてきて良かったと、涙を零すほどに。
あれは、いつの出来事だった?
「……ユウ」
「ふ……っく……」
突如込み上げてきた、感情が濃縮されたような熱い涙。この中には、何が含まれているの? 頬を伝う滴は、きっと私よりも真実を知っている。
「わた、し……セイを……」
「ユウ……」
次の瞬間、私たちの距離はゼロになった。ぎゅっと抱き締めてくれた腕の感触に、直感的に理解する。私はこの温かさを、心底愛していたのだ。
「ごめんなさい……! わからないの……っ」
許しを請うのは、罪かもしれない。だけど私自身を許しがたくて、謝らずにはいられなかった。こんなにも愛おしいのに、その理由がいまだにわからないのだ。
「でも……でも。私、セイが……」
「ユウ、いいんだ。ゆっくりでいいんだよ」
あまりにも優しい体温に、すぐそばで聞こえる声に。溶けて消えてしまいそうなほど、恋慕の情が募っていく。
「……好き……」
私の中の“何か”はまだ、完全には覚醒していない。それでも強烈な感情は、溢れ出るようだった。ひとまず最も大切なことだけは取り戻せたと、叫び出したいほどに心が震える。ぼやけた視界の中、ゆっくりと迫ってくる端正な顔に瞼を伏せた。濡れた唇の重なる感触に、うっとりと身を任せる。存在を確かめ合うようなキスはあまりにも甘美で、思考がとろけていくようだ。
「ん……っ」
「は……、ユウ……」
私を切なく呼ぶ艶めいた声に、もう離れたくないと思う。思い返せば初めて名を呼ばれた時から、ずっとそうだった。
「セイ……」
「好きだ」
囁き合い、見つめ合えば、この世のすべてがどうでもいいことのように思えた。目の前の愛しい人よりも大切なものなんて、どこを探したってありはしない。
「ああ……離したくない」
首筋に顔を埋めたセイの柔らかな髪が、頬を撫でてくる。背中に回した腕に力を込めれば、その何倍も強い力で抱き締め返された。
(あったかい……)
枯れかけた花が、息絶える寸前で水を吸い上げたみたいに……生まれて初めて、正しく呼吸ができたような気分。セイへの想いが、一気にクリアになった。
「セイ……」
首筋から耳へ、耳から顎へ。なぞるように這わされていた唇が艶やかに開き、私の唇を甘噛みする。
「は……、んっ」
漏れ出す吐息すらも惜しむように、奪うように押し付けられた唇が、私のすべてを麻痺させた。いつの間にか指を絡ませ握りあっていた左手が、燃えるように熱くなる。
「ユウ……愛してる」
これまでは重過ぎると先入観を抱いていた言葉も、彼が紡ぐのなら話は別。甘く深い幸福感に陶酔し、また涙がこぼれ落ちた。セイは指先でそっと私の顔を上向けさせ、唇で拭ってくれる。
「……幸せ……」
「俺もだよ」
見つめ合ったまま、どちらからともなく微笑み合う。引き合い続けていた想いがようやく交差して、絡んで……溶け合ったみたいだ。
「でも……セイ、私」
「ルイのことだよね?」
「……うん」
できることならずっと、幸せに浸っていたい。けれどだんだん落ち着いてくると、今度は焦燥に駆られ始めた。今までの人生で何度となく私の感情を制御してきた、闇を纏う彼の顔が脳裏をよぎる。私を好きだと囁くルイの、あまりに切ない表情を思い出した。
「セイのことが好きだけど……、ルイとは、色々あって……」
「……うん」
「見捨てることは……できない」
過去に受けた深い傷は、当事者である私やルイはもちろん、他の家族をも巻き込んで今も疼いている。私の目の前で起きた悲劇は、決して消せない過去だ。あれが繰り返されるかもしれないと知っていて、自分の幸せだけを優先することはできない。
思いを告げた上にキスまで受け止めておいて……私は、本当にずるい。
「少しずつ、解決していこう」
けれどセイは、ひと言も私を責めなかった。私の頬にかかった髪を払いながら、静かに微笑む。
「このままじゃいけないって、ルイ自身もわかってるはずだ」
すべてを見透かすような言葉に救われ、私は目の前の胸に縋る。伝わってくる鼓動が、ひどく私を安心させてくれた。この鼓動が止まらない限りは、きっと……私も、頑張り続けることができる。




