ひとかけらの
「顔が真っ青だ……冷や汗もかいてるね。どうする? ルイ」
「医務室はどこの館だっけ」
いつの間にか大学に着いていた車を降り、准くんが後部座席側に回ってきて、ルイと会話をしている。私の体調を気遣っての会話なのは重々理解していたものの、心のざわめきが止まらない。
「ユウ、とりあえず降りよう」
先に降りたルイが、私に手を伸ばした。柔らかな陽を浴び、私に真っ直ぐに伸びる綺麗な手。
“この手を取ったら――”
どこからか、そんな警告が聞こえた気がした。
「どうしたの?」
いつまでもその手を眺めていた私に、ルイが眉をひそめる。
「ねぇ……ルイ?」
ほんの数分の間に私の精神は衰弱し、絞り出した声は掠れていた。
「なに?」
「前にも、こんな事が……」
「え……?」
石積みの屋敷沿いの、並木道。車……では、なかったかもしれないけれど。遠い道のりを越えた場所に……そう、ルイの姿があって。
「前にも……こうして、迎えに来てくれたことが無かった……?」
「……」
「あの時私は……青い服を……」
そうだ。目の覚めるような青い服は、特別に用意された上等なものだった。それも伝えようとするものの、私の言葉は途切れてしまう。隙間が出来ないほど、強く抱き締められたから。痛みすら感じる抱擁に、霧がかかったようにぼんやりしていた私の脳が、少しずつ稼働を再開させる。
「……ルイ?」
何も言わずに、今も尚私を抱き締め続けるルイ。妙な不安感を覚え、戸惑いながらそっと胸を押し、体を離そうと試みる。
「あの……」
「何も考えないで」
「ルイ……?」
「お願いだよ、ユウ」
その顔を見て、思わず言葉を失った。悲痛に歪んだ、苦しげな瞳。その瞳に見えたのは、明らかな“怯え”だったから。
「“今”だけを見てほしい」
イマ ダケヲ ミテ ホシイ
その言葉が、なぜか記号のように聞こえる。その言葉が連なって表す本当の意味は、一体何? ルイは、何に怯えてるっていうの?
「疲れてるんだよ、ユウちゃん」
私とルイの会話に割り入って、准くんがミネラルウォーターのペットボトルを手渡してくる。
「そういえば昔みんなで、美術館に行ったな。ちょうどこんな並木道沿いだった気もする……青い服を着てたかどうかまでは、覚えてないけど」
そう言った准くんの言葉に、違和感を覚えながらもうなずく。向こうに立つ藍くんが過去に見たことが無い様な、無機質な表情を浮かべていたことも……後ろでルイがほっとした顔を見せていたことにも、気付くことはできなかった。
*
「次は、別々の講義室だね」
不思議な体験をしたとはいえ、その後はいつもと変わらない時間を過ごした。3人は他学科とはいえ同学部だから、基本的には誰かしらと教室が被っている。だから全員と別の教室になるのは、一週間の中でも次の講義だけだった。
「終わったら、すぐに迎えに行くよ」
「わかった」
名残り惜しそうなルイが、私を教室まで送ろうと隣を歩いている。その時、私の携帯のバイブが揺れた。
**/05/11 10:32
from:嵐
sub:超急ぎ!
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悪いユウ!
お前のバッグに俺の電子辞書入ってねぇ?
昨日間違えて入れたっぽい。
今図書館前なんだけど、届けて!
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「…………」
「どうしたの?」
自分のバッグの中を掻き回してみると、確かに嵐の電子辞書のケースがあった。バッグの置き場が並んでいるとはいえ、私のバッグに物を入れてしまうなんて……自分の弟ながらおっちょこちょいだ。私は苦笑して、ルイに内容を見せる。最近ではこうしてプライベートなやり取りまで、ルイに伝える癖ができていた。
「ごめん、ルイ。嵐にこれ届けてくる」
「送るよ」
「ありがとう。でも次の教室の近くだし、ひとりで大丈夫」
私が微笑むと、ルイはどこか不安そうながらも頷く。さすがに弟への一瞬の受け渡しに、深い意味などないと確信したのだろう。
「わかった。じゃあ、また後で」
「うん」
私はそう応えると、大学の図書館へと向かう。最近では大学内で隣に誰もいないのが、酷く不自然に感じるようになってしまった。3号館のカフェテリア前を通り過ぎ、鮮やかな花々が植え込まれた小道を抜ける。他の館から少し離れた図書館は風情のある煉瓦作りで、その外壁を伝う蔦が古い洋館を思い起こさせた。
私が大学内で、1、2位を争うくらいお気に入りの場所。正面玄関の時計台の下に、弟は凭れ掛かって待っていた。
「嵐!」
「おー、ユウ。悪いな」
「本当に。次はちゃんと確認してね」
電子辞書を手渡すと、嵐はニヤリと笑う。
「ユウ。今から何も聞かずに、図書館の屋上向かえ」
「はぁ? もう講義始まるんですけど……」
「サボれ。緊急指令!」
「えっ?」
「いいから! ここでサボらないとお前、一生後悔すんぞ」
「なに言って……」
「じゃ、俺は行くから」
「ちょっと!」
慌てる私に取り合うことなく、嵐は涼しい顔で歩き出す。
「屋上だからな。絶対行けよ! 行かなきゃお仕置きだから!」
「貴方……お姉ちゃんに向かってお仕置きって」
呆れてため息をつくものの、嵐は本当に行ってしまう。私は腕時計を見て、ちょっと躊躇した。次の講義、必修なのに……
でも嵐は、ただの悪戯でこんなことを言うような子じゃない。このまま立ち去ったらモヤモヤしそうだし、ちらっとでも屋上を覗いた方が良さそうだ。私は図書館の方へ足を進めた。
館内に入ると行き届いた空調が、一気に肌を冷やしていく。午前の空き授業がある上級生がまばらに座っているだけの、ガランとした図書館。その最奥にある幅広の螺旋階段をトントンと上り、最上階を目指した。だんだんと脚が疲労を覚え始めた頃、ようやく階段は終わりを見せる。若干息を切らしながら自販機や喫煙所の前を通り過ぎ、屋上へと繋がる重い鉄扉を押した。




