第二章 1
翌朝、聖フランチェスコ学院の正門前に、ひとりの男が現れた。
やや褐色がかった肌に、黒く短い髪。その身に纏う黒の外套が風により翻ると、独特のアイボリーの瞳が僅かに細められる。その瞳は、遠くに見える聖堂から、高等部校舎、中等部校舎……と順に追ってゆき、最後に正門横の警備員室に辿り着いた。
昨夜ケファより「学院高等部に“七つの大罪”が現れた」と報告を受けたが、今のところ落ち着いてはいるようだ。曰く、彼と行動を共にしている三善が釈義を展開し、生徒・教師たちを保護したそうだ。この落ち着きは、彼の行動の賜物だろう。
それに、と彼は警備員室を遠巻きにじっと見つめる。なんとなくだが、あの警備員室を中心に釈義の残滓を感じるので、あの二人のどちらかが釈義の「守り」をここに残していったのだろう。ということは、“七つの大罪”はこの付近には近づけないはず。
彼――ホセ・カークランドは小さく息をつき、さも面倒だと言いたげに肩を竦めた。実のところ、彼は昨夜ドイツから戻ったばかりなのだ。プロフェットの現役を早くに引退した彼は、今は人事担当としてあちこち移動を繰り返している。ようやく本部に戻ってきたと思ったら、部下の「ちょっと面貸せ」コールもとい救援要請だ。
「泣きながら『助けてください』って言えば、どうにかしてあげますよ」
試しに電話の向こうの相手に、至極真面目な口調でこう言ってみた。すると向こうは地を這うような超低音ヴォイスで、
「ごちゃごちゃ言ってないで救援よこせ」
と返してきた。全くもって想定内の反論である。
あの子はからかい甲斐があって面白いですねぇ、と内心ニヤニヤしながら、ホセは警備員室に顔を覗かせた。
「すみません、入校手続きはこちらでよろしいでしょうか?」
警備員室には、二人の警備員がいる。どちらも男性で、少々厳つい印象を受けた。そんな彼らの鋭い目がホセを捉えると、何か言いたげな素振りで上から下まで観察してくる。おそらく、昨日怪しげな聖職者がやってきて、何かとんでもないことをやらかしたからだろう。それとも、“大罪”が現れたことで警戒されているのか。まあ、どちらにしろこの反応も想定内である。
ホセは彼らの目つきに臆することなく、手持ちの鞄から一枚の紙切れを取り出した。そしてそれを彼らに見せる。すると、訝しむ警備員達の表情が突然変わった。そう、疑念の表情から、畏怖の表情に。ちなみにこれも、彼からしてみれば想定範囲内。
数分後、所定の手続きをやたらすんなりと終え、ホセは校舎までのきつい上り坂をゆっくりと歩き始めた。
東十六夜市は、元々山を切り崩して作られた土地である。したがって、ほとんどの場所で――市内中心部は別だが――見事なまでの急斜面が待ちかまえている。特にこの学院に至っては山の頂上に建てられているようなものなので、市に存在するどの坂よりも急で、そして長い。この年齢にしては体力がある方だと自負しているホセだが、正直この上り坂は結構、否、かなりきつい。まるで体に鞭を打つかのような仕打ちである。普段コンスタントに穏やかな表情を浮かべている彼ですら、額に汗の粒をいくつも溜めており、余裕のなさは一目瞭然だった。
二股に分かれた道を、左へ。依頼があった高等部へはこちらの道を行くはずだ。
二〇〇メートルほどの上り坂をようやく昇り切る。情けないことに、唇から微かに喘鳴が洩れていた。認めたくはないが、年齢というものをちょっとはわきまえた方がいいのかもしれない。
校舎までは銀杏並木が続いている。今は若葉の爽やかな色彩がその目を楽しませてくれていた。ぼんやりと散歩気分で歩いていると、ふと彼は強い視線を感じた。
「……ん、」
顔を戻すと、遠くの方に小さく人影が見える。
どうやら、この学校の女子生徒らしい。肩までのやや短い髪は癖ひとつないストレート。制服である紺のブレザーと青系のチェックのプリーツ・スカートが、いかにも学生らしくて思わず微笑ましいと思ってしまう程だ。そんな彼女は、ホセがこちらに気がついたことを悟ると、すぐに背を向けて走り去ってしまった。
本来ならば、それだけのこと。気に留める理由などひとつもない。
しかし、どうしてだろう。ホセはそのまま足を止め、小さくなってゆく彼女の背中をじっと、その目線だけで追いかけた。彼女の姿はとうとう、校舎の影へと消えて行ってしまった。姿が見えなくなってからも、ホセはそのまましばらく立ち止まったままでいる。
さぁっ、と温んだ風が吹き抜けた。
「――気のせい、でしょうか……」
なんだかあの子、とても思いつめた表情をしていた気がするのですが――
***
高等部講義棟三階、美術室。
三善とケファはすっかり変わり果てた姿となったこの教室を仰ぎながら、地道に現状確認をしていた。
今朝、この教室から火が上がったと連絡を受けたのである。すぐにスプリンクラーが作動し、被害は天井がやや煤けた程度で済んだ。怪我人はなし。
消防車が撤退した後、三善は器用に水溜りを避けながら、窓辺に近づいた。窓のちょうど真下に水道があるからだ。水道の蛇口は三つあり、その全てが今も勢いよく水を噴射している。三善は手袋をはめた左手で、蛇口を締めた。
「今回も水辺、か……」
ケファが呟く。「ヒメ、蛇口は別に壊れている訳じゃないんだろう?」
「うん。ちゃんと締まったよ」
特段水漏れを引き起こしている訳でもなさそうなので、たまたま故障、ということではないだろう。三善も困った様子で首を傾げており、割れた石膏像の欠片を拾い集めるケファですらすっかり参ってしまった様子だ。
「今日って臨時休校だよね? どうしてこんなところから火が出たんだろ」
「知るか。ったく、昨日の今日でまだ上手く動けねぇのに、容赦ないなぁ」
まだ鈍く痛む腹を押さえながら、ケファはぼやいた。
三善は再び水溜りを避けながら、ぴょこぴょこと跳ねるようにしゃがみこむケファの横までやってきた。そして、天井の四隅を順に仰ぐ。黒焦げの天井。本当に、これ以上の被害が出なくてよかった。
「せめて、火の状態でも見られればなぁ」
ぽつりとケファが呟いたときだった。
「お困りのようですね。迷えるプロフェットのみなさん」
恐ろしく気の抜けた声が、二人の背後から聞こえてきた。
この声はとてもよく知っている。
ぱっと振り返った三善は嬉しそうに表情を明るくし、逆にケファは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。彼に対する評価が実にはっきりと分かる反応である。
「ホセ!」
扉に寄り掛かるようにして立っていたのは、ホセであった。その手には立派な革のボストン・バッグ、そして少し大きめの書類ケース。
「お久しぶりです。元気そうでなにより」
挨拶もそこそこに三善は彼に駆け寄ると、がばりと勢いよく正面から飛びつく。さすがのホセもこれを受け止めるのには少々苦労したようで、思わず後ろによろけていた。ケファはそれを見て鼻で笑う。
「今、笑いましたね」
こういうところだけは目ざといホセ、いつもの嫌味混じりのコメントをケファに向かって投げかけた。だが、彼はそれをさらりと無視する。
「随分早かったな。てっきり、警備員室で足止めかと思っていたが……」
「警備員室? 正門の?」
「そう」
それなら、とホセは鞄から一枚の紙を取り出し、それをケファの顔面に突き付けた。反射的にそれを受け取ると、その紙に記された文字の羅列に目を落とす。
「『教皇庁特務機関発行、釈義調査令状』……?」
「日本語だとそういう無粋な訳になるんですよね」
教皇庁特務機関――大雑把に言うと、エクレシア本部お墨付きの調査令状。一般に警察機関が用いる捜査令状と性質が似ており、これが発行された以上問答無用で立ち入り調査ができるという便利な書状である。
尚、この書状は司祭以上の聖職者のみが利用できるものとなっている。先程ホセは警備員室でこれを見せつけてきたので、やたらスムーズに入校手続きが終わったという訳だ。
「教皇庁特務機関って、要するに検邪聖省だろ。あいつら、こういう仕事もしてるのか」
「くすねてきた、が正解ですけどね」
ホセはにこりと微笑み、三善にボストン・バッグを渡した。中には、新しい聖職衣と肩帯が二人分入っている。いずれも、プロフェット用のツートーン・カラーのものだ。
「しかし、釈義調査令状ときたか……やっぱお前も、そう思う?」
多分、と曖昧にホセが頷いた。
三善はこの二人のやりとりを、実に不思議そうな表情で見ていた。随所に盛り込まれた用語が理解できず、ひとりで置いてきぼりになったというのが正解か。きょろきょろと大人二人の顔を交互に見比べ、……彼らの言わんとすることを少しでも多く読み取ろうと務める。
そこでようやく彼らが三善の困った顔に気がついて、目線を落とした。
「ああ、悪い悪い。仲間はずれはよくないなー、うん」
ケファが三善のふわふわとした頭を撫でるも、彼の機嫌は逆なでされる一方だった。嫌そうにその手を振り払うと、真紅の瞳が赤銅の光彩を睨めつける。
「ヒメ君には、こっち」
ホセが書類ケースの中から、二束の資料を取り出した。一方を三善に、もう一方をケファに渡すと、「いいですか」と彼は念押しする口調で言う。
「今回、私とあなたたちの任務は似て非なるものです。あなた方は、どうかプロフェットらしく“七つの大罪”の動向を探ってください。当初の依頼通り」
「ホセは違うの?」
三善が尋ねたので、彼は首を縦に動かした。
「私は、……ええと。今回は他の部署の代理で来ているので。残念ながら別行動です」
とにかく、と彼ははっきりと言い放った。
「その資料は、以前こちらで事件が起こった際、教会の科学研で作成した解析結果です。今回、私が直接手出しできるのはそこまで。よければ映像資料もありますが、観ます?」
「観る。つーか最初から出せよ、それを」
ケファのそんな暴言はあっさりと無視された。
何枚か資料をめくり、ふむ、と三善は考えた。さすがに科学研で作成したものだけあり、専門用語ばかりで非常に読みづらい。結論はどこだ、と速読しながら探していると、その横で大方読み切ったらしいケファが長い息をついていた。資料を返し、なるほどね、と呟く。
「“聖火”か。そりゃあただの水で消火できない訳だ」