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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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終章 2

 その場所を訪れるのに、どれだけの勇気が必要だったろう。

 帯刀は降りしきる雪の中、静かに美袋家の玄関前に佇んでいた。傘も差さず、ただじっと心の準備ができるのを待っている。頭に雪が積もっているのはよく分かるのだが、それすらもどうでもいいと思っている。むしろ、この雪の中に埋もれてしまいたかった。埋もれて消えてしまいたかった。

 あの後、慶馬は失声症と診断された。片腕をどろどろの液体にされたショックが後からやってきたということだろう。むしろ慶馬だからその程度で済んだのかもしれない。“憤怒”自身があの時言っていたが、そんな光景を見せつけられれば「普通はショック死する」。それほどまでに、あの一件は本当に危険だったのだと改めて考えさせられた。

 正しく療養すればいつかは元通り話せるようになる。そのように医者に言われたこともあり、彼らは今帯刀家の離れで過ごしている。

 このことについては、まだ美袋家にきちんと報告できていない。慶馬の手術にあたり春風がある程度頭出しをしてはいるのだが、やはりここは自ら状況報告せねばなるまい。そう思い帯刀は何度か自宅を抜け出しているのだが――結論から言うと、失敗している。

 慶馬が帯刀から離れてくれないのである。

 そもそも彼が実家ではなく帯刀家の離れに居候しているのは、彼が「本家と顔を合わせるのが怖い」と言っている――一度帯刀が説得したところ、携帯メールでその旨を送信してきたことがあった――ためである。ならば本人を置いて帯刀だけでも、と家を出たところ、ただならぬ気配を察したのだろう。気づくと慶馬が近くにいて、帯刀の袖を引きつつひたすらに首を横に振るのだった。

 だから今日は彼が寝ている間にこっそり家を出て、帯刀はひとり美袋家にやってきたのだった。

 しかし、彼は一体どの面下げて彼らに会えばいいのか分からずに、もう一時間近く玄関前に立ち尽くしていた。白い息がぼうっと視界を濁し、思考する力を低下させるようだ。

 どれだけそうしていただろうか。

 ほどよく意識が朦朧としてきたその時、ふと自分を覆うように影ができた。驚いて振り返ると、その青い瞳に映ったのは。

 右手で傘を差し、こちらをじっと見つめる慶馬だった。

 ――かぜ、ひきますよ。

 彼は唇をそのように動かした。その黒い瞳には感情らしいものが何一つ見えない。ただひとつだけ感じるのは、帯刀が何も言わず自分の傍を離れたことに対する不安だ。

「お前……なしてこっただところに」

 ――さがした。

 吐き出した白い息がほどよく互いの表情を隠している。心のどこかでそれが救いだと思った。今の表情をできることならば、彼に悟られたくはない。こういうところで勘の鋭い慶馬だからこそ、あまり期待はできないけれど。

 帯刀はしばらく黙りこんでいたが、ゆっくりと慶馬の冷え切った右手に触れ、傘を奪い取った。そしてそれを丁寧に畳む。

「慶馬、止めてくれるなよ」

 慶馬はかなり不安そうな表情を浮かべていたが、今回はいつものように拒否したりはしなかった。その代わり、帯刀の頭に積もった雪の塊を払いのけてやる。

 もう観念すべき時が来たのだと、慶馬はようやく理解したのかもしれない。

 二人の間に、それ以上の言葉など必要なかった。例えみっともない姿をさらそうと、――今やるべきことをやるまでだ。帯刀は両手で自分の頬を叩き、玄関の戸を開けた。


***


「雪くん? そんな寒そうな恰好で……」

 突如現れた帯刀の姿に美袋家の一同は目を剥き、そして続けて入ってきた慶馬に思わず言葉を詰まらせた。

 それでも彼らは二人を暖かい部屋へ招き入れてくれ、淹れたばかりの煎茶まで出してくれた。しかし帯刀は礼を述べたきりそれらに一切手をつけず、うつむいてしまった。

 彼らはできる限りいつも通り接しようと努めてくれてはいるが、その中に垣間見えてしまった。責め立てるような冷たいまなざし。この『青い瞳』を持たずとも、彼らの真意は痛いくらいによく分かる。

 慶馬の姿を見て以降、それは明白なものとなった。自分たちの当主が、このような姿で現れるなど想定外だったのだろう。いくら事前に話を聞き、覚悟していたとしても、だ。

 少なくとも、帯刀はそう思っていた。

 目を伏せ畳の隙間に目をやったとき、後ろから慶馬が右手で肩を抱いてくれた。相変わらず無言だったが、きっと励まそうとしているのだろう。冷えて赤くなった手が視界の隅で震えている。彼もきっと、自分の家の者がまとう僅かな感情の変化を感じ取り、純粋に怖いと感じたのだろう。それでも、自分ではなくこちらを優先してくるとは一体どういうことだ。

 励まされるのはそっちだ。俺じゃない。

 きつい口調でそう言ってやりたかった。

「慶馬が帰ってきたって?」

 襖が開いて、部屋に入ってきたのは慶馬の従兄である冬樹だった。美袋家の現当主は慶馬だが、彼もまた優秀であるため、慶馬が自分の右腕としてよく使っていた人物である。慶馬が不在の間、この家を仕切るのも彼の役目。その当主がようやく戻ってきたというのに、この状況はなんだろう。どうして、彼の左腕がごっそりと行方不明になっているのだろう。

 冬樹は慶馬自身に問い詰めようとした。だが、それを帯刀が遮った。

「申し訳ないが、彼は今、話せない。俺が代弁する」

 帯刀は今までの出来事を事細かに冬樹に説明した。

 “七つの大罪”と直接取引に乗り出したこと。彼らの本拠地に潜入したこと。その際慶馬が“七つの大罪”と直接対峙し、“憤怒”第一階層の“太刀”に斬られてしまったこと。

 さすがに『契約の箱』や時間遡行に関する事項は言えなかったが、それ以外のことはほとんどそのまま、ありのままを語ったのである。

 初めは静かに聞いていた冬樹だったが、話が進むにつれ表情が険しくなってゆく。帯刀も慶馬もそれに気づいてはいたが、敢えて無視し、淡々と事実のみを告げてゆく。慶馬はじっと押し黙っている。帯刀の声だけがその部屋に響き渡り、それ以外の音は降り積もる雪が全て吸収してしまった。

 覚悟はできている。

 ひとしきり話した後、帯刀は冬樹にまっすぐ瞳を向けた。青空を連想させる淡い色は決して揺らぐことなく、褐色の冬樹の瞳を射抜く。

「――冬樹。これらはすべて俺に非がある。そもそも、慶馬は初めから俺を止めようとしていた」

 慶馬が帯刀の袖口を引いた。首を横に振りながらそれは違う、と必死に伝えようとしているが、帯刀はそれすらも見なかったことにした。そうすることが、彼にとっての最善なのだ。そう強く思い込んだ。

「思う存分罵るがいい。家中の者を全てかき集めて、惨いやり方で俺を諫めて欲しい。殺してくれても構わない」

 そして帯刀は、冬樹の前で深く土下座した。その行動に他の二人も驚きのあまり目を剥いたし、どうやら部屋の外で立ち聞きしていたらしい他の者もぽかんと呆けてしまっていた。

 その方が、都合がいい。できるだけ多くの者に、この姿をさらしたい。帯刀はその体勢のまま、絞り出すような声色で言った。

「悪かった。お前たちの主を、守れなかった……!」

 辛かった。心の中でずっと慶馬を守ってやることができなかったことがしこりのように残り、誰にも打ち明けることができなかったのだ。ようやくこの気持ちを誰かに吐き出せた、そしてきっと彼らは自分を許さないだろう。それを強く強く望んでいた帯刀だから、今、彼は一番幸せだと思っていた。

「雪。顔を上げなさい」

 冬樹がようやく声をかけた。帯刀の背後に居る慶馬の様子と総合して、どうやら彼なりの答えを出したようだ。声が僅かに震えている。それが分かるくらい、彼は今、猛烈に動揺していた。

「お願いだから、もう、やめてくれないか。雪」

 頭を下げ続ける帯刀の頭に、何か温かいものが乗せられる。それが冬樹の手であると、すぐには気づかなかった。

「ああ、慶馬。正直お前が羨ましいよ。妬ましいくらいだ」

 今度は肩に、別の感触が伝わる。こちらは慶馬だろう、頭を上げろと言っているのが嫌でも分かる。

 それでようやく、恐る恐る帯刀は頭を上げた。冬樹は特別笑ったり怒ったりはせず、冷たい鉄仮面を被ったようにただ無表情で帯刀を見下ろしていた。

「雪。俺たち美袋の一族は、代々帯刀一族が持つ『瞳』を守るために存在してきた。もう何十年と続く守人だ。いつの世も俺たちは身を呈してお前たちのことを守ってきた。我々はそれに誇りを持ってきたんだ」

 小さく息を洩らした冬樹が、突然戸の方に首を向け、外に居るだろう他の仲間を呼んだ。

「そうだよな? お前ら」

 がたんと襖が揺れた。帯刀がゆっくりと目を向けると、襖はゆっくりと開いて、立ち聞きしていた連中がようやく姿を現した。ばれていたのか、と多少照れくさそうにしていたが、すぐに冬樹の催促を受け、皆首を縦に動かす。

「俺が知る限り、俺たちにあっさりと頭を下げる当主はお前以外にいなかった。壬生様ですら、それだけはやらなかった。どうかその理由を考えてほしい」

 さて、と困り果てた様子で冬樹は肩を竦めた。今まで正座していたのだが、足に限界が来たらしい。彼は膝を崩し、彼は豪快に胡坐をかいた。別に雪を見下している訳ではない、そもそも美袋の連中はこれが普通なのである。

「慶馬、困ったな。雪はこう見えて頑固者だから、何か罰を与えないと引き下がってくれねぇぞ」

 このように頭を下げてきた当主は今までにいなかった。だからこそ、彼らは怒るに怒れないのである。自分たちをそれだけ大事にしてくれているのだということは分かる。だがしかし、胸の内に燻ぶるこの気持ちはそれだけでは収まらない。この気持ちをどう吐き出せばよいのか、そのはけ口を見いだせなくなるのである。

 だから今までの当主は頭を下げたりはしなかったのだ。そこまで見越してこその当主。まだまだこの少年は甘いのだ。

 冬樹は懐からそっと合口を取り出した。そしてそれを畳の上に置き、帯刀へ声をかけた。

「前の当主なら指を詰めろと言ったかもしれないが、そんなことをされてもかえって困るしな。立派な犯罪行為になってしまう」

 だから、と彼ははっきりと言った。

「雪。後ろのそれ(・・)、切っちまいな。俺たちはそれを所望する」

 帯刀の右手が柄を、左手が鞘を握った。目の前でゆっくりとそれを引き抜き始める。本当にゆっくりとした手つきで、まるでその中から現れる銀色の光をその目にしっかりと焼きつけているかのようだった。恐ろしくゆっくりとした動きは、この場にいる誰もが釘付けになるほど美しい。帯刀が本来持つ凛とした仕草がそのようにさせるのだ。

 ようやく鞘を抜き取り、優美な乱刃の全貌が姿を現した。青の瞳がじっと、その模様を見つめている。その銀越しに、自分の背後に居る慶馬の表情が見えた。彼は困惑した様子で帯刀を見ていた。

 そんな顔をされても、もう引き下がりはしない。

 帯刀は後ろで一つに束ねた己の髪を掴んだ。そしてその根元、結び目のあたりに握った合口の刃を当てる。ゆっくりと、それを引いて――

 ぶつ、という存外大きな音がした。この音は一生忘れることがないだろう。帯刀の左手には、長い茶色の髪が一束握られている。はらりと何本かが畳の上に落ちた。顔にかかる同色の毛髪が、さらりと流れてゆく。彼の瞳が左手に握ったそれをしばらくじっと見つめ、それからゆっくりと瞼を閉じた。


***


 再び雪の中、傘も差さず帯刀は歩き出した。その後ろを慶馬が黙々とついてゆく。

「帰ったら、叔母上に整えてもらおう」

 と言ったきり、帯刀は慶馬と一切言葉を交わそうとはしなかった。今声をかけるべきではないと慶馬も思ったのか、それ以上何も言わなかった。

 ただ凍れる白い息を静かに吐き出し、淡々と歩くだけ。雪がそれ以外の感覚すら奪ってしまった。それ以上を、求めてはいけないとでも言うかのように。

 ふと、帯刀が足を止めた。

 驚いて慶馬も立ち止まる。しばらくぴたりと、凍りついたかのように動かなくなった帯刀。その身体に細かな雪が積もってゆく。このまま真っ白に染まって、消えてしまうのかと思った。それだけ今の彼は、慶馬にとって脆弱なものに思えたのだ。

 ――ゆき。

 ようやく、慶馬がその名を呼んだ(・・・)。返事はない。

 その代わりに、彼の身体がくるりと一回転し、深い雪の中に仰向けに倒れ込んだ。ふわふわの雪が彼の身体を包み込んだ。そしてそのまま、空から降ってくる絵の具を全身で受け止めようと両手を伸ばす。

「慶馬。もう少しお前の体調がよくなったら、アメリカに行こうと思う」

 帯刀は少しだけ明るい声色で言った。「特殊な義肢を造る場所があるそうだ」

 慶馬はきょとんとして首を傾げている。彼が一体何を言い出したのか、まるで分からないといった風だ。

「神経から発する僅かな電流を拾って動く義肢。筋電義肢というらしい。それを付けに行くんだ」

 もっとも、その分野はまだそれほどメジャーでない研究だ。治験となる可能性も否定できない。それでも再び彼に自由を与えられるなら、それに望みをかけたいと思った。

 ぼんやりとした視界に、慶馬の顔が見えた。輪郭がよく分からない。

 帯刀がまっすぐに伸ばした右手に、慶馬の右手が触れた。どちらも冷え切っており、感覚すらない。

 それでも、そこに在ると理解した。それだけでいい。それで安心できる。

 ――いらない。

 慶馬の唇が微かに動いた。すかさず帯刀は口を開く。

「俺が付けて欲しいんだ。だめか」

 困ったように慶馬が眉を下げた。

 はは、と乾いた笑いを浮かべると、すぐに帯刀は左手をより伸ばし、彼の右手を包みこむ。その間も、雪はどんどん互いの身体を侵食してゆく。全てが真っ白になってゆく。

 白く白く埋もれていって、その色に溶けて混ざりあって。その白の一部になって消えてしまおう。

 けれどその前に、どうか。

「一緒に行こう」

 手を取ってくれた彼に、これだけは伝えておきたかった。




 ――そのとき、帯刀の携帯が着信を訴えて震えた。む、と帯刀は右手を上着のポケットに突っ込み、かじかんだ手で二つ折りの携帯を開く。メールが一本受信されている。このアドレスには覚えがあった。とある条件を満たしたときだけに発報されるアラートメールだ。

 滅多に受信しないそのメールを開くと、帯刀ははっと目を丸くした。

「――っ」

 勢いよく起き上がり、それから、とある番号に電話をかける。早く繋がれ、お願いだから気づけ、と必死に祈りながら。


 数回のコールののち、電話はつながった。

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