終章 1
最後の朝は美しい青空によって迎えられた。
この日ばかりはさすがに早起きをし身支度を早々に済ませた三善は、やや速足でケファの自室へと向かっていた。きっと彼はもう起きているのだろうから、この時間に押し掛けても怒られることはないだろう。それに、今日はできるだけ彼と一緒にいたかった。
部屋の戸を控えめにノックすると、ほんの少しの間の後、ゆっくりと開く。
「来ると思った」
ケファはいつもよりは多少崩した笑みを浮かべ、見上げてくる三善のふわふわした頭を撫でてやった。今日はこの後スーツを着るつもりなのだろうか、黒い色をしたスラックスに白のシャツというなんとも珍しい恰好をしていた。
「そこに突っ立ってないで来いよ。朝飯くらいは食わせてやる」
言われるがままに、三善は彼の部屋に入っていった。
しばらく部屋を開けるためか、最低限の家具くらいしかものがなかった。小物の搬出は数日前に済ませ、必要のないものは売り払っていたことをふと思い出す。簡素な部屋の隅に大きなキャリー・バッグが開けっぱなしの状態で放置されているのを発見すると、何となく、三善は胸を締め付けられるような気がした。
――ああ、僕は「さみしい」んだ。
自分でも自覚はしている。三善の記憶のはじまりである十三歳の頃から、当たり前のように側にいてくれた師が、遠く離れたドイツへと旅立とうとしている。変わらないものなんかないと知っているし、いつまでも同じものなんてないのも知っている。彼だって、自分同様前に進もうとしているのだ。それは認めないといけない。
だからこそ、自分は彼の誘いを断ったのだ。その意思を無駄にしてはいけない。
三善はしばらくキャリー・バッグをじっと見つめていると、背後からおい、と声をかけられた。
「頼むから食ってくれないか。片付かないだろ」
そう言って笑うケファを見たら、何だか泣きそうになった。
今日はふわふわのオムレツとサラダ、それからなぜかホットケーキが食卓に並んでいた。これはおやつではなかろうか、と一瞬思ったが、三善は嬉しく感じていた。勿論好物だからではない。彼が旅立つ前に一度食べておきたかったからでもない。
この短い間に、彼はあらゆる手で三善を励まそうとしているのだ。それを理解できるからこそ、三善は嬉しくもあったし、同時に気を遣われている自分を情けなくも思ったのだ。今目の前に座り黙々と食事する彼には、きっとすぐには手が届かない。越えることのできない壁がそこにはあった。おそらく、それは自分がこの先成長しようとも変わらない。
不思議だな、とぼんやり考えた。
「……なんでそう、うまくなさそうに食うの? お前は」
フォークを持つ手が止まり、しばらく硬直したままだった三善に気がついたのか、やや不服そうにケファが言う。
「そんなことないよ!」
「ならさっさと食ってくれ。普通にしてくれよ、頼むから」
まあ、こうして二人で並んで食事を摂ること自体が普通ではないのだが。
気を取り直し黙々と料理を口にしていた三善だったが、唐突に何か思いついたらしい。動かしていた手を止め、ゆっくりと声をかけた。
「あのね、ケファ」
「ん?」
「ホットケーキの分量、教えてくれない?」
この国にはミックス粉があるだろう、といつもなら言うのだろうが、ケファはもそもそと野菜を咀嚼しつつも頷いてくれた。椅子に無造作にかけていた上着のポケットからメモ帳を取り出すと、整った字で分量を書き出し、それを無言で渡す。
「ありがとう」
「作り方は分かるだろ? いつも横で見ていたもんな」
「うん」
受け取ったメモはポケットの中に収め、三善はふかふかのホットケーキにナイフをあてる。きれいな焼き目のそれをゆっくりと切ると、ふんわりとした甘い香りと湯気が立ち上った。一口サイズに切り、口に含む。
――どうしてだろう。
静かに咀嚼しながら、三善は思う。
味がよく、分からない。
***
ケファは初め断ったようだが、結局押し切られる形でホセに空港まで送ってもらうことになったらしい。三善も一緒に連れて行ってもらえることになり、運転手より先にふたりで後部座席に乗り込んだ。
外出手続を済ませ、少し遅れてホセが現れた。今日はもともと休暇を取っていたらしく、聖職衣でもスーツでもなく、黒いハイネックのセーターを着ていた。黒い上着は左手に携えたまま、やや小走りでこちらに向かってくる。
「あいつ滑って転ばねえかな」
ケファがぽつりと言ったその時、凍っていた地面に足を滑らせ、ホセは後ろに反りかえっていた。転びはしなかったが。
「滑ったね」
「滑ったな」
二人で言う。そして笑う。転べばよかったのに、面白いからとケファは何気にひどいことを言っている。いつも通りのリアクションで、三善はほんの少しだけ安心した。
運転席が開き、不服そうな表情でホセが顔を覗かせる。
「ちょっとあなたたち。今笑い者にしましたね」
「凍っている道なんか走るからだ」
「ひとがせっかく待たせてはいけないだろうと気を遣っているのに……」
適当にあしらいつつシートに乗り込むと、扉を閉める。ゆっくりとシートベルトを締めると、車はのんびりと走りだす。まるで別れを存分に惜しもうとしているかのような、恐ろしいくらいの惰性運転だった。
車内では相変わらず、ケファとホセがしょうもない口喧嘩をしていたが、その横で三善はずっと黙り込んでいた。隣に座るケファをちらちらと見てはいたし、顔色も良いので酔った訳ではないようだ。しかし基本的にはぼんやりとした目線で窓の外を見つめ、誰の話も聞いていない。完全に上の空である。
ここしばらくホセと「目玉焼きにかける調味料」について大いにもめていたケファだったが、その三善の様子を案じてか、唐突に話を振ってみた。
「そういえばヒメは塩コショウ派だったな」
「え?」
やはり全く話を聞いていなかった。きょとんとして三善はケファの紫の瞳を見つめたが、彼のその強い視線に負け、とうとう諦めて白状した。
「ごめん、聞いてなかった。塩コショウがどうしたの」
「うわ、まじか。こんだけ騒いでたのに」
「いや、この件に関してはあなたが頑固なだけだと思いますけど」
「頑固言うな、頑固」
むっと露骨に不機嫌そうな顔をしたケファだったが、様子のおかしい三善を気遣ってか、すぐに元の表情に戻る。
今朝から三善はこんな調子だったので、ケファも少なからず調子が狂っているらしかった。そうでなければ、あまり建設的でない「目玉焼きにかける調味料」の話でもめる理由などないのである。
ケファの表情が曇ったのを、ホセは見逃さなかった。
***
空港に着き、三人はややのんびりとした足取りでロビーに入った。
空は朝から変わらず、見事なまでの快晴。ここまできれいに晴れてしまうと、清々しすぎて正直戸惑ってしまう。
大きな黒いキャリー・バッグを引きずるケファの後ろに、どんどん無表情と化してゆく三善とそれを困った様子で見つめるホセが続く。三善自身、それが自分のエゴであり相手を困らせていると自覚しているからこそ性質が悪い。なるべく心配させまいと努めてはいるようだが、かなり露骨に表情に出ている。
自分が出張に行くのとは訳が違うからなあ、とホセは思う。出張ならばほんの少し待てば必ず帰ってくる。しかしケファの場合はそれとは異なる。所属が根本的に変わるのだ。そうなるとこちらに帰ってくることはほとんどないだろうし、その背中に宿る聖痕の経過次第ではそもそも職場復帰すら難しいだろう。こちらが予想しているより長丁場になることも充分に考えられるのだ。もっとも、ケファは背中の聖痕については何一つ三善に話していないようなので、三善としては間違いなくそれは「想定外」だろうが。
最後まであのひとは、自分の教え子に嘘をつこうとしている。それが心配をかけまいとする『優しい嘘』であっても。
彼はその嘘が逆効果だと分かっていないのかもしれない。
「それじゃあ……俺は行くけど」
一度立ち止まり、振り返ったケファが後ろにいるふたりを見た。初めにホセを、それから三善に視線を移す。赤銅の瞳に映った三善は無表情だった。今にも泣きそうで、それを必死に堪えているのだろうと思っていたが、それよりも性質の悪い状況だということにようやく気がついたらしい。慌ててケファは三善のふわふわした灰色の髪を撫でた。いつもは嫌そうにするのだが、それすらどうでもいいのか俯いたままじっと床を見つめている。
「なんて顔してるんだ、三善」
三善はだって、と小さく呟いたが、すぐに頭を横に振り、まっすぐにその赤い瞳を彼に向けた。
「ケファ。早く、行きなよ」
本当は、行かないでと言いたかったに違いない。しかしそれを飲み込んで、そのように彼は言葉を選んできた。ケファを心配させまいとする、『優しい嘘』だった。
当然彼がそれに気がつかない訳がない。自分でも気がつかないうちに、この少年は成長していたらしい。伸びる速度が非常に緩やかだと自分が思い込んでいただけで、本当はこの三年で随分沢山のことを学んだようだ。それを理解し、嬉しく感じたが同時に寂しくもあった。
自分が彼と同じ年齢だった頃、どうしてもできなかったことがある。心のどこかで、この少年には同じ思いをさせまいと思っていた。……やはり、同じ道を辿ってしまったみたいだが。
こういうときは、わがままのひとつでも言え。言っていいんだよ。
しばらくその真っ赤な瞳を見つめ押し黙っていたケファだったが、突然彼は行動に出た。両手を伸ばすと、呆然とする三善を引き寄せる。そのまま強く抱きしめると、彼の後頭部をわしゃわしゃと存外乱暴に撫で回す。
「ちょ、やめ」
「最後くらい笑え。ばか」
耳に息がかかるほど顔が近い。さすがの三善もびっくりしたらしく、大きな目を見開きしばしばと激しく瞬きしていた。
「会おうと思えばいつでも会えるっつうの。それなのに何、なんでそんなにしみったれるんだ。そういう顔しろなんて、俺は一度も教えたことねぇぞ」
「うん。……うん」
三善の腕がケファの背中に回り、ぎゅ、と軽く掴んだ。その温もりは知っている、いつものあたたかさ。自分が知る限りずっと変わることのなかった独特の体温。やわらかい匂い。今までこの背中をずっと追いかけていた。そしてこれからも追いかけたい。できるだろうか、側にいなくてもできるだろうか。
同じものをずっと見ていたかった。同じものを同じように見て、同じように思うはずがないけれど、せめて考えくらいは共有したい。言葉の擦れ合う音。ああ、これだ。このひとと言葉を交わすたびに感じる、擦れた音。これが好きだったんだ。
そう思ったら、突然じわりと涙が溜まり始めた。ここで泣いたらいけない、分かっているのに止めることができない。ぎゅっと瞼を閉じると、頬をなにか温かいものが伝ってゆく。
このひとはそういえば、涙の止め方までは教えてくれなかった。
「あーもう、めんどくせぇな。泣くな三善、頼むから」
「うー……」
背中をさすってくれたが、それも逆効果となってしまった。
結局そのまま大泣きしてしまい、最終的に泣きはらした顔を彼に見せる羽目になった。嗚咽がどんどん小さくなり、呼吸が穏やかになるのを確認してからゆっくりと、離れる。ようやく二人は互いに向かい合い、その後、ようやくいつも通り笑うことができた。
「やっぱり笑ってる方がいい。断然いい」
ケファは自分の左耳に手を伸ばし、今まで身につけていたイヤー・カフを外した。そしてそれを三善の左耳、軟骨にあたる部分に付けてやる。ケファが付けていたのと同じ場所だ。銀の光が耳元で瞬いて、ゆっくりと十字が揺れた。ケファの耳には、今までその下に隠されていた小さな守護石がついたピアスだけが残っている。
「お前が司教になるまで、それ、貸してやる。絶対返せよ」
うん、と三善が頷いた。十字が揺れる感触がくすぐったい。不思議な気分だった。
「競争だね。どっちが先に司教になるか」
「負けねえよ、俺は」
そして一度、互いの拳をぶつけ合う。
「男同士の約束だ」
「うん」
そろそろ搭乗時刻である。ケファはホセと軽く抱擁し、三善を頼むと一言告げた。分かってますよ、とホセも笑う。それ以上、彼らは何も言わなかった。
「――三善」
キャリー・バッグに手をかけながら、ケファはぽつりと呟いた。
「本当に、一緒に来なくていいんだな」
今なら間に合う。一緒に連れて行ける。
そう言いたげに、ケファは三善に問いかけた。
三善は暫しの逡巡ののち、はっきりとした口調でこのように答える。
「ケファが司教になったら迎えに来て」
「……そっか。じゃあ、お前が先に司教になったら、お前が俺を迎えに来い」
キャリー・バッグを引きずりながら、ゆっくりとケファは歩き始めた。どんどんふたりから離れてゆく。背中がどんどん小さくなる。ちいさくなる。
三善は彼の姿が見えなくなっても、しばらくそこを離れようとしなかった。赤い瞳がずっと、彼が向かった搭乗口を見つめている。まるで記憶にしっかりと焼きつけておくかのように。
どれくらい見つめていただろうか。ホセが三善の肩を叩いた。
「そろそろ帰りましょうか」
「……うん」
振り返った三善の左耳に付けられたイヤー・カフが、太陽の光を享受して白く発光する。