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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第五章 5

 その日はやたら寒かった。

 自室の布団の上でごろごろ転がっていたケファは、電話で突然ジェイに呼び出された。一旦通常業務のためドイツに戻ったものの、どうやら今回の件について正式な対応を本部より求められたため、急遽戻ってきたとのことだった。

 彼女は直接北極星(ポラリス)にあるケファの自室に行こうとしたようだが、一応相手は女性でもあるので、やんわりとそれを断った。そして付け加えるように、本部内にある懺悔室を待ち合わせ場所にしようと提案する。そこならば、おそらく誰からの邪魔も受けないし気を遣う必要もないだろう。そう思っての提案だった。

 ジェイはすぐに承諾し、一時間後に約束を取り付けるとすぐに電話を切った。

 そうと決まればいつまでも転がっている訳にはいかない。ゆっくりと身体を起こし、ハンガーにかけたままの白い聖職衣を取った。一度クリーニングに出したものの、やはり『契約の箱』の一件で生地を痛めてしまっている。よくよく見ると至るところが擦れて繊維がはみ出していた。

 これは諦めて新調すべきだろう。「これ高いんだよな」とは思ったが、長年貯金した給料で多少は賄えるだろうとすぐに考え直した。

 寝巻代わりにしていた薄手のインナーシャツを脱ぐと、聖職衣用の小奇麗なシャツに袖を通す。その際に姿身に映った己の背中が目に入り、思わずどきりとする。

 自分が今まで使用していた全釈義を三善に渡したので、今後あれ以上のリバウンドを起こすことはない。しかし、この聖痕だけは刺青のようにきれいに残ってしまった。後から調べてみたものの、先天性釈義の聖痕に関する資料はそもそも存在しなかったので、今後どうなるかすらも正直予想がつかない。運が悪ければ、このまま科学研行きだろう。

 ――それも、悪くないか。

 ぼんやりと、ケファは思った。


***


 待ち合わせ場所として指定した懺悔室にジェイが入ると、ケファは既に入室済みであり、不機嫌そうな様子で彼女を待ちかまえていた。眉間に皺を寄せつつ、身体を揺らしたり首を左右に傾けたりと、彼らしからぬ無駄な行動をとっている。つまりは相当暇だったらしい。

 思わずジェイは笑った。

「お待たせ、ケファ君」

「超待ったぞ」

「ひどいなあ。こっちは君の対応に追われて大変なんだけど」

「それはそれ、これはこれだ」

 ここまではっきりと言われてしまうと、かえってすがすがしい。

 ジェイは苦笑しつつ、白い外壁に埋め込まれた鉄格子越しにケファを見た。存外元気らしく、そのあり余った体力をどこに使ったらいいか分からない、といったところだろうか。それならばいい。元気でいてくれる方が、こちらにとっても都合がいいのである。

 もっと落ち込んで、最悪腐ってしまうかと思っていたが――それは思い違いだった。どんなに厳しい状況に陥っても立ち上がることのできる芯の強さ。それがこの男の最大の強みだ。

 別の言い方をすると、執念深い。

 その単語が妙にツボにはまってしまい、ジェイは思わずくすくすと笑ってしまったほどだ。

「えっ何、気持ち悪いんだけど」

「ごめんごめん、思い出し笑いみたいなものだから気にしないで」

 それじゃあ本題、とジェイは少し前のめりになって話を進めた。

「やっと辞令が降りたでしょう?」

「ああ」

 ケファは軽く返事し、困惑した様子で肩をすくめた。「予想はしていたけどな。まあ、『喪失者』になったんだから当然か」

 三善に全ての釈義を渡すということは、すなわち『喪失者』になることを意味する。

 元々入団当初からプロフェットとして活動していた彼は、おそらく急激な環境の変化に戸惑っているのだろう。三善が今後も元気に生活するためとはいえ、彼にとっても、エクレシアにとっても大打撃であることは事実。実際、人事部から通達された辞令によると彼は本部勤務から外され、ヴァチカンに異動となることが決定していた。

 あの場所はケファの前勤務先にあたるため大して心配はしていない。しかし。

「一応付け加えさせてもらうけれど。これは君の今後を考えて、よくよく考えた上で出した結論なんだよ。それは分かってほしい。考えてもみなよ、君くらいの年齢の司祭がヴァチカン勤務って、結構珍しいんだよ」

「知っているよ、それくらい。前にいた時もそうだったし。あのクソ狸が枢機卿を相手に奮闘したっていう話も聞いている。……いろんな人に助けられて、今、俺はここにいる。ここに立っていられるのも、自分の功績なんかじゃない。感謝しなくちゃな、本当に」

 どうしてだろう。そう言って笑った彼が、ジェイが今まで見てきた中で一番いい表情をしていると思った。

 彼の言うとおり、ケファの本来の役職からすると自己の功績というより「誰かに立たされている」というのが正しいところなのだろう。それを理解し高邁な精神をもって臨む彼が、ああ、やはりきれい(・・・)なのだと実感する。

 こんな彼だからこそ、姫良三善の指導役を任されたのだろう。

「それじゃあ、今後について一応説明するね」

 まずはドイツの研究所(ラボ)に行き、背中に残っている聖痕の治療をすること。聖痕が発覚して以降彼は殆ど治療らしい治療を行っていなかったので、おそらく完治するまでに相当な時間を要するだろう。『釈義』がもう身体に残っていないので、これ以上悪化することはならないだろうが。

 そして、その後ヴァチカンに行き正式に『喪失者』の認定を受けること。それらが完了しない限り、彼が職場に復帰することは許さないとも言っていた。

「それにしても、よく自分から『釈義』を手放す気になったよね。ボクと出会った頃は“絶対に手放さない”っていう、惨いくらいの気迫があったのにさ」

 ぴたりとケファの表情が硬くなる。何やら言葉を慎重に選んでいる様子で、彼には珍しくのろのろとした様子で口を開いた。

「結論から言うとそうせざるを得なかったというだけなんだが……、うん。あいつが今まで通り元気でいてくれるなら、それが一番幸せなんだと思って」

 その穏やかな表情を見て、ジェイは心底安心した。よかった、と小さく呟いて、それから笑った。

「まあ、君はとても優秀だからね。プロフェットでなくとも、他に道はいくらでもある。例えば、エクソシストなんてどうだろう。意外と需要あるよ。君、司教見習いだろう? 権能も十分だ」

「……」

 突然ケファが黙りこんだ。きょとんとしてジェイが格子越しに彼を見つめると、なぜかケファはその紫色の瞳を明後日の方に向け、何かをごまかしにかかっていた。今までの話の流れからすると、おそらく。

 ジェイはすぐに理解して、わざとらしい大きなため息をついた。

「ああ、なるほど。君は『悪魔祓い』が苦手なんだっけ。修行が足りないんじゃないの」

「うっさいな! 嫌いなんだよ!」

「言い訳はやめなよ! 本当、君ってば結構残念な人だよね!」

 いきなり残念な人扱いされ、むしろそちらの方がひどく傷ついたケファだった。


***


 結局その後ジェイにこっぴどく叱られ、疲れ切った表情でケファは懺悔室を後にした。

 背中の痛みは、最近ではそこまでひどくない。おかげで少しだけ気分がいいのだが、通常の職務はほとんどやらせてもらえず、何かをしようとすると一同から「部屋に戻れ」と完全に拒否されてしまう。それだけが不満だった。

 したがって、これから自室に戻り布団の上で転がるくらいしかすることがない。今まで常に働きっぱなしで休みをろくにもらえたことのないケファ、こんなに暇なのは人生で初めてのことだった。

 この暇を何か別のことに費やしたいとは思うのだが、あいにく持ち合わせた趣味は健康上の都合でほとんどジェイに止められている。本当にすることがない。

 また惰眠をむさぼるか、と考えていた時、背後から突然誰かに話しかけられた。

「これから部屋に戻るんですか?」

 ホセだった。

「ああ、うん。暇すぎて困ってるんだが、何かやることはないか」

「あいにく、あなたに任せられることは何もありませんね」

「そうか」

 しばらく一緒に歩いてもいいかと問われたので、ケファはそれを了承した。

 ゆっくりとした足取りで廊下を歩き、ふと外に目を移す。雪が降っていた。どうりで静かだと思った、と呟くと、隣でホセが小さく笑う。

「……ケファ。異動の件は、ヒメ君に伝えましたか?」

「ああ」

 ケファは短く答え、それから長く息をついた。

「ホセ、俺、あいつに振られたわ」

「はっ?」

 いきなり何を言い出すのだ。ホセが目を剥いていると、ケファはぽつぽつと事情を説明し始めた。

 なんでも、自分がヴァチカンに異動になることを三善に伝えたとき、ケファは「思うところがあり」このように提案してみたのだそうだ。

 ――お前、俺と一緒に来るつもりはないか。

 以前『第十三書庫』の件で「三善は国外に連れていくのがよい」と考えていたこともあり、思い切ってそのように伝えてみることにしたのだ。そしてこの時点で、ケファは確信していた。おそらく三善は自分についてくるだろう、と。何せ彼の記憶の中には、自分のいない生活などインプットされていないのだ。無理強いをせずとも、二つ返事で頷いてくれるはず。

 そう思っていたところ。

「断られた、と」

 ホセの一言が意外と胸に突き刺さる。「ケファ、あなた結構作戦が雑ですよね」

「お前に言われたくない」

 まあ、とケファは首筋を掻きつつ、あの日の三善の様子を思い返す。確かに、少しだけ揺らいだような素振りはあったのだ。しかし、彼は首を縦に振らず、こう言った。

 ――僕のことは大丈夫。だから、ケファは安心していいよ。

 三善も本当は、ケファの提案の意図を汲んでいたのではないか。そして、それでもなお日本から離れまいとしている。

 もしかしたら、『契約の箱』と己の釈義を渡してしまったことで、妙な責任感が働いているのではなかろうか。

 本当は拉致まがいのことをしてでも連れていくつもりだった。しかし、いざ三善にあんな顔で、あんなことを言われたら、こちらの決意まで揺らいでしまう。

 そして結局、ケファは彼の意志に負けたのだ。

 ――ホセは隣を歩くケファの横顔に目を移した。元気そうではあるが、その表情にはどこか迷いが感じられる。当然だろう。今までずっと三善と行動を共にしており、これからというときにまさか自分が離れなくてはならなくなったなんて。

 ホセは思う。

 あれこれ言い訳めいたことを言っているが、本当に三善と離れたくないのはケファ自身ではないのか。

「今お前が何を考えているか、当ててやろうか」

 唐突にケファが言った。「俺が三善のことを心配し過ぎて、本当は離れたくないんじゃないかとか、そういう妄想を繰り広げているんだろう」

「正解です。違いますか?」

「悔しいけど間違いない。だけど、……いつまでも一緒にいたら、あいつのためにならないかな、と。ここは俺が引かないとさぁ。いつまでも甘やかす訳にはいかないだろ。あいつも十六歳になったんだ、もう一人で考えて動けるだろ」

 それでも、とホセが何か言おうとしたが、すぐさまケファはそれを制止した。

「あいつのこと、頼んだからな。もしあいつに何かあったら絶対に許さない」

 雪が静かに他の音を打ち消してゆく。凛とした空気が、汚れきったこの街を覆い尽くして真っ白に染め上げてゆく。どんどん、同じ色に。おなじいろにかわってゆく。

 その色は三善が全身にまとったあの清浄なる白い炎と紛うほどで、ああ、きれいだと思った。

 この白い雪はきっと、あの少年の独り立ちを祝福し、そして同時に激励しているのだろう。そう感じるからこそ、今ならようやく言えるのだ。


 もう自分は一緒にいなくても、大丈夫。お前ならきっとやっていける。

 だからしばらくさよならだ、三善――と。

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