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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第五章 3

 三善がはっきりとそのように言った刹那、間髪いれずトマスは彼の首に下げていた銀十字に手をかけた。銀十字を繋ぎ止めていた革紐は勢いに任せぶち切られ、三善の目の前であっさりと床に叩きつけられたのだ。

 驚いたのは三善の方だった。一体目の前で何が起こったのかよく分からず、ただ明後日の方向に飛んで行ってしまった銀十字を呆然と見つめるだけだった。

 見上げるとトマスはひどく冷たい表情をしていた。深海のように深い青が日光に反射し、銀色に光って見える。それがなんだか、とても恐ろしく見えた。

「……お前の言い分は分かる。しかし、俺としてはどうしても見過ごす訳にはいかないんだ。分かってくれ」

 三善は銀十字を拾うべく立ちあがろうとした。しかし、身体に力が入らずに腰が抜け、がくんとベンチから落ちただけだった。

 必死に伸ばした右手をトマスが掴んだ。ぎし、と骨が軋む感触が残る。

「離せ!」

「『契約の箱』はあれだな、姫良三善」

 それを聞いて、三善はどきりとした。

 第十三書庫であの女性が言っていた通りの出来事が起こったからだ。反芻するように、彼女の言葉が脳内を駆け巡る。

 ――この部屋を出たら、きっとあなたは『契約の箱』の所在を聞かれるでしょう。その時はこう答えなさい。

 三善は唐突に理解した。

 つまり、もしかすると。この状況は、既に何回も――。

 三善はそのまま這いつくばるようにして左手を伸ばそうとした。今度はそちらも掴まれてしまい、全く身動きがとれなくなる。

「気が変わった。今のお前に『契約の箱』と契約はさせない。黙って俺についてきたら渡すことにする。悪く思わないでくれ」

 その言葉に三善は確信した。トマスは、今まで三善が首にかけていた銀十字に『契約の箱』が組み込まれていると勘違いしているのだ。何にせよ、トマスが勘違いしていることは非常に助かる。彼女が言う通り、自分はそのまま騙し通せばいいだけだ。

「返してよ……!」

 もがきながら必死に捨てられた銀十字をアピールする。こうしていれば少しくらいは時間が稼げるはずだ。三善の冷静な部分がそう告げている。

「それは僕の大切なものだ!」

 必死になって叫ぶと、突然掴まれた手が軽くなった。力を入れていたトマスの手が、ほんの少し緩んだのだ。

「……随分早いお迎えだな」

 朽ちてほとんど原形を留めていない木製の扉。その向こうに、ぼんやりと人影が見える。逆光でよく見えなかったが、三善はすぐに理解できた。

 二人の人影は徐々にこちらに近づいてくる。足音が随分遅く感じる。その足音ひとつひとつが重く、まるで楔を打ちつけているかのように聞こえていた。

「――さっきはどうも」

 聞きなれた男の声がする。「うちの子を引き取りにきました」

 紫の肩帯が見えた。背は高く、左耳に瞬くは銀のイヤー・カフ。

「さすがに今度は許しませんよ」

 次に緋色の肩帯が、風に流されてふんわりとなびくのが見えた。やや褐色がかった肌、特徴的な淡い光彩を放つ瞳。

 そしてそのふたりどちらも、真っ白な聖職衣に身を包んでいた。

「ケファ……ホセ……」

 ぽつりと三善は細い声で呟いた。声が震えていることに今更ながら気づく。それでようやく、今自分の目に涙が溜まっていることを知った。不覚にも、彼らが来たことで安堵している自分がいる。

「『釈義(exegesis)展開・装填(eisegesis)開始』」

「『HIC EST ENIM CALIX SAGUINIS MEI,NOVI ET AETERNI TESTAMENTI』」

 二人の声が同時に聞こえ、『釈義』が放つ独特の洗われた空気を肌で感じた。ぎゅ、と三善は瞳を閉じ、目に溜まった涙を強制的に流す。

 三善の頭の上で、トマスは笑みをこぼしていた。

「見ておけ、姫良三善。あの男は再び“憤怒”に駆られ、俺を殺しに来るから」

 そしてゆっくりと手を放す。立ちあがったトマスは小さく祝詞を上げると、その手に刀身の見えない不思議な太刀を出現させた。橙のプラズマを纏うそれは、明らかに“大罪”が操る能力のひとつ。“憤怒”の“太刀”だ。

「『深層(significance)発動』!」

 先に動いたのはホセだった。

 彼の祝詞が唱えられた刹那、ぐんにゃりと鈍色のものが揺らいで見える。次の瞬間、その右手にはマリアが扱うような背丈ほどもある(ランス)が握られていた。

 猛然と突いた刹那、ガラスを擦る奇怪な音がした。トマスがその“太刀”で槍を跳ね返したのである。それに伴い抉れた傷が槍に深々と残ったが、本来の“太刀”の特性である『液状化現象』は起こらなかった。

 トマスは驚き目を瞠るも、すぐにその理由を理解できたらしい。

「逆振動を起こして液状化を打ち消したか。さすが、“憤怒”の“太刀”を一度攻略した男は違うな」

 だが、とトマスは嗤う。「その程度の力じゃこちらには傷一つつけられないだろ」

 トマスの太刀がホセを袈裟切りにする。それを間一髪でかわし、ホセは次の祝詞を紡ぎ出す。

「『深層(significance)発動』!」

 噴き出した聖火がトマスの身体を覆い、丸ごと燃やそうとした。が、彼は瞬時に無効化の祝詞を上げ、聖火の猛威をかき消した。しかし、その炎が現れた刹那の動揺をホセは決して見逃しはしない。

 素早く彼の背後に回り込み、(ランス)で突いた。空を切る鋭い音が響き、直後雷鳴に似た轟音が脳天を直撃する。トマスが“傲慢”の“鎧”で弾いたのだ。

 三善はそれを呆然とした表情で見ていた。どうすることもできず、ただ、その壮絶な争いを見守るしかできずにいる。

 その時、三善の身体がふわりと持ち上げられた。ケファが三善を抱きかかえたのだ。

「悪い。遅くなった」

 いつもの彼だ。にこりと笑ったのを見て三善はなぜか力が抜け、表情が崩れた。再び泣きだしそうになるも、それは気合いで我慢する。

「怪我してないか」

「大丈夫。だけど、もう限界みたい。身体がまるで動かない」

 ケファの目が、三善の聖職衣に向けられる。袖口が赤黒く染まっていることに気がついた。それに、三善の呼吸に微かな喘息音が混ざっている。

 ケファが思案顔で三善の瞳を見つめ、それから、ゆっくりと瞼を閉じる。

「……、お前は生きたいと、そう思うか。こんな世界でも、こんな時間軸でも、生きたいと思うか」

 そして唐突に、そのような問いを投げかけた。その声は微かに震えている。

 三善ははじめ彼が何を言っているのかが分からなかった。しかし、次第に靄がかる思考がクリアになってゆくのを感じていた。

 ここ最近ケファから感じていた妙な違和感は「これ」なのだと、三善はこの時ようやく気が付いた。

 三善はのろのろと口を開く。

「ケファは、分かっていたんだね」

 ケファは答えなかった。

「……思うよ。生きたいと、そう思うよ」

 そのやりとりに気づかないトマスではない。執拗なホセの攻撃をやりすごしながら、彼ら二人に目を向けた。

 何だか、過去に何度も目にした濃い聖気の気配がするのだ。何度も何度もやり直しをする中で遭遇してきた、そして、今回は血眼になって探し求めた、あの気配だ。

 そこでようやく、トマスは自分が勘違いしていたことに気がついた。

「ああ、やっちまった。あっちかよ本物は」

 やはり最後まで帯刀たちの話を聞いておくんだった、と少々後悔した。そういうことなら初めからケファにだけ狙いを定めるべきだったのである。とんだ無駄足だ。

 そう考えている間もホセはすさまじい殺気と共に(ランス)で突いてくる。この徹底さは半ば病気みたいなものである。正直辟易している部分もあるのだが、今回ははっきり言って自業自得のようなものだ。

赤い火花が飛び散り、腕の骨が軋む嫌な感触が残る。妙な受け身をとったせいで、変なところに重い痛みが走る。

 しばらく守りに徹底していたトマスだったが、痺れを切らしたのかいきなり行動に出た。“太刀”をホセの槍に勢いよくぶち当て、その矛先を無理やり変更させた。その隙に彼の鳩尾に一発蹴りをお見舞いし、身を翻すと同時にケファへ向け“嫉妬”の“弾丸”を撃ち込む。爆音に似た音が衝撃となり、撃った手が跳ねかえる。青の雷管が飛んだ。

 気がついた時には、もう遅かった。

 さすがの三善も、もうだめだと思った。身体には力も入らず、『釈義』を展開することすら叶わない。“逆解析(リバース)”により“傲慢”の“鎧”を起動することもできない。

 一体どうしてこんなことになったのだろう。三善は刹那に後悔した。


 そのとき、彼は確かに聞いたのだ。

 耳元で囁く己の師の祝詞を。


「『Eli,Eli,Lema Sabachthani』」


 三善の目の前で“弾丸”が消滅した。

 それと同時にとてつもない違和感が身体を支配してゆく。ありとあらゆるものに対しなにかを“上書き”してゆくような、実に奇妙な感覚である。

 赤い瞳をこじ開けると、ケファの苦しげな表情がそこにある。なにか痛みを堪えているようで、額に脂汗を浮かべている。

「ケファ」

 彼は答えなかった。

 その時、遠くの方で声がした。三善がのろのろと目線を動かすと、トマスが何かを叫んでいる。彼らもこの不思議な違和感による影響を受けており、手にしていた“太刀”も槍も、全て溶かしてしまっていた。

 しばらくしてトマスの叫びがようやく耳に飛び込んできた。

「莫迦、『契約の箱』を展開するな! あいつらの思惑通りに動いてどうする!」

 その声に、横にいたホセははっとして問い質す。

「『契約の箱』ですって?」

「お前何も知らないであの坊ちゃんを追いかけてきたのかよ。あれが展開したら――」

 そう言っている間にも、神威をまとう聖気は膨れ上がる。身体に存在する穴と言う穴から侵食し、全てを飲み込んでしまうような。全てを上書きしてゆく脅威は留まることを知らない。

 三善は意を決し、ケファの肩帯を強く引いた。

「やめろ!」

 トマスの制止する声も、既に三善の耳には入らない。

 掴んだ刹那、三善の身体が真っ白な炎に包まれた。

 ごお、と勢いよくあっという間に全身を覆われ、さすがの三善の表情に戸惑いの色が浮かぶ。だが、その炎は不思議と熱くはない。むしろ心地良いほどのぬくもりがあった。

 脳裏にぼんやりと掠めていったのは、第十三書庫で出会ったあの白い髪の女性だ。この柔らかな炎が彼女の姿を彷彿させてゆく。炎が放つ熱を心地良いと感じたのは、そのせいかもしれない。

 最後にあの女性が言った言葉が、とてつもなく大きなものに感じる。

 ――あの人をさがして。あなたがあの人に会えば全て終わる。

 三善は一度瞳を閉じ、彼女に思いを馳せた。彼女がこの『契約の箱』に巡り合わせてくれたのだ。そして、少し前までこの体に在った『あの人』ともいつか巡り合える。そんな気がした。

 今にも崩れてしまいそうなくらいに脆くなった気持ちが、再び堰を切ったように溢れてくる。

 今胸の中にしこりのように残るのは、不安だけだ。

「――三善」

 その左手に何かが触れた。そして、ぎゅっと包み込むように強く握られる。大きな手は間違いない、ケファのものである。

 三善が顔を上げると、自分と同様に白い炎に包まれたケファがゆっくりと目を細めたところだった。何かを考えているようである。

「もっと早くに気づけばよかった。そうしたら、お前に教皇になれだなんて言わなくて済んだのに。ごめんな」

 三善はゆっくりと首を縦に振った。そうか、と呟いたケファの目は、どことなく哀しそうに見えた。曇った表情の向こうにある気持ちが汲み取れず、途端に胸に抱えていた不安が倍増する。

「聖ペテロの釈義が、『契約の箱』なんだね」

 ケファは小さく頷いた。

「使い方、知ってるか」

 三善は首を横に振る。

「そう言うと思った」

 苦笑しながら、再びケファは三善の手を強く握る。より一層、ふたりを覆う白い炎が激しく燃え広がる。

「どうすればいい?」

 尋ねると、彼は簡単だと言った。

「これと同じ量の釈義でねじ伏せればいい」

 それは無理だ、と三善はすぐに否定した。今自分は釈義を展開できないのだ。ねじ伏せるどころか、逆に飲み込まれるのが目に見えて分かる。そして訪れるのは『開匣』する瞬間――『終末の日』。最悪な出来事しか起こりえない。

 ケファは、だから、と付け加えた。

「『第一使徒が命じる』――」

 三善が耳にしたのは、そのフレーズから始まる祝詞だった。思わずはっとしてやめさせようとするも、ケファは首を横に振っただけで、やめようとはしない。

 たまらず三善は怒鳴りつけた。

「やめてよ、ケファ!」

 それを全て唱え終わったとき、何かが終わってしまう気がした。だから三善は動かない身体を必死になって動かし、せめて祝詞を途切れさせようとした。

 しかし、ケファはそんな三善を徹底して無視し続けている。祝詞が途切れるどころか、その口からは決定的な言葉がとめどなく紡ぎ出されてゆく。

「『主より与えられし聖ペテロの恩恵を給いし釈義。そして汝が洗礼者、ケファ・ストルメントの釈義。その全権限を洗礼者・姫良三善に移譲し、以後その恩恵を永久に放棄する』」

「なにを言っているんだ! そんなことしたら『喪失者』になっちゃうよ!」

「『この少年に、神の最上の加護を給わんことを。――Amen.』」

「あなた自身の釈義まで手放す必要なんかない!」

 三善はまた泣いていた。泣くしかできなかった。止めようにも彼は完全に三善を無視していたし、強制的に止めさせようにも身体が言うことをきいてくれない。


 そして。


 今、自分の目の前で。

 尊敬していた自分の師が、『喪失者』になることを選択した。


「ケファのばか! なんで、なんでそんな――」

 泣きじゃくりながら見上げた彼の顔は、穏やかだった。こんなに穏やかな表情を、三善は初めて見た。

「なんでって、俺はどのみち『釈義』を使えなくなる。必要ないんだ」

「必要ないって――」

「俺の『正義』は」

 ぴしゃりと、わめく三善の声を遮った。「……俺が信じる『正義』は、楽しそうに動き回るお前が、変わらずに存在し続けること。その方がお前らしいし、俺はそれを見ているだけで充分幸せだ。そのために手段は選びたくない」

 そう言って、彼は笑った。

「こんなときに言うのはおかしい気もするけど、誕生日おめでとう、三善。これが、俺が見せてやれる最期の『釈義』だ」

 彼はいずれこうなることすら既に予測していたのかもしれない。

 それでもこの人は、生きて次の教皇になれと。全力で追いついてこいと、そう言った。

 もう、それ以上彼を責めることができなかった。

 ならば、もう後戻りはできない。

 三善は泣きはらした目を腕でごしごしと擦ると、決意を秘めた瞳で己の師を見つめる。

 彼は満足そうにしていた。

「『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。これより聖ペテロの恩恵を給いし釈義、および、ケファ・ストルメントの釈義を、神と子と聖霊の御名において継承する』」

 身体の中に、何かが入り込んでくる感覚。先程とは異なる、粘性を帯びた異様なまでの熱さ。釈義の巡りにも似ているが、しかしそれとも違う。喉が渇き、張り付いた唾液の感触が痛い。


「『これは汝が洗礼者・姫良三善との永遠の契約である』」

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