第五章 2
マリアは鋼鉄の翼をはためかせ、三善を乗せた車を追っていた。はるか上空で、長い髪がまるでヴェールのようになびいてゆく。突如吹き付けた強風に時折動きを止めつつも、そのルビーの瞳は、じっと、車の動向を監視していた。
マリアの位置情報は定期的にホセの元へと伝達されている。おそらく、既にホセは彼らがどこへ向かっているのか見当がついている頃だろう。
「――『八区を抜け、九区に突入』」
すぐに攻撃してはならない、とホセから命じられていたので、マリアは淡々とそれを守っていた。
本当は、自ら飛び込んでいきたかった。こんなに近くで、もうその居場所すら突きとめているのに。
マリアは無意識にそう思っていたが、はっとして、すぐにかぶりを振った。
そもそも、A-Pである自分が主観で物事を考えるということ自体おかしいのだ。
薄々感じてはいた。あの一件――“嫉妬”と対峙したとき以降、やはり自分はどこか壊れてしまっているのではないかと。勿論、主人に再会できたのは嬉しかったのだが、心のどこかで、また彼を傷つけてしまうのではないかと思っていた。
単純に「こわかった」。
それでも、今自分が追いかけている救世主そのひとは、「それではいけない」と身を持って教えてくれた。できる限り一緒にいようとしてくれた。そして、己と主人とを再び結び付けてくれた。
だからこそ思うのだ。主人が大切にしているあの人のことは、自分が守るべきなのだと。そして現状の最善策は、主人の言うとおり、今は手を出さないことだ。
車はそのまま古い建物の前に停車する。ややあって、運転席の扉が開いた。
マリアはその現場を目の当たりにし、堪えるように胸に手を置く。
今の自分の使命は、あの人の居場所を正確に伝えること。それだけだ。
***
ホセはおもむろに懐から携帯電話を取り出すと、その液晶画面に目を向けた。しばらくその画面を眺めたのち、運転手の名を呼ぶ。
「ケファ。次の交差点を左に曲がって、高速に入ってください。降りる場所は御厨町です」
ケファはその地名に何か思い当たる節があったのだろう。深くは追求せず、ただ一言、
「第九区、か」
ぽつりと呟いた。
車は高速道路のゲートを潜り、さらに加速してゆく。流れる景色が安定した頃、ため息交じりにケファが口を開いた。
「おそらく、あの場所なんだろうな」
「御厨町は『あのひと』が住んでいた場所ですものね」
ホセもそれに対し淡々と返答する。
先ほどマリアが携帯に送信してくれた情報によると、彼らは御厨町のはずれにある寂れた教会に降り立ったとのことだ。その場所をホセは非常によく知っていた。むしろ『十二使徒』ならば知らない者はいないだろう。ケファも第九区という時点で何かを察したらしく、ホセと同じ場所を連想しているようだ。
「なあ、ホセ」
アクセルを踏みつつ、ケファが声をかけた。
「俺たちは、これで正しかったのかな」
ホセは口を閉ざしたまま、ケファの言葉に耳を傾けている。続きを促しているのだとすぐに悟ったケファは、じっと前を見据えながらさらに口を開いた。
その声色ににじみ出るのは、微かな迷いと後悔だった。
「今まであいつのためと思ってやってきたけど、いよいよそれが真に正しい行為だったのか分からなくなってきた」
「……、あなたが真に何を考えているのか、私には分かりかねますが」
彼が投げかけた問いに、ホセは少し頭を悩ませたようだ。なるべく真摯に答えようと、慎重に言葉を選んでいる様子がその姿を見ずとも伝わってくる。
しばらく悩みに悩み、ホセはようやくひとつの答えにたどり着いたらしい。
「自分の立場や宗教、その他あらゆるしがらみを抜きにして言います。我々は、たぶん、正しくない」
「正しくない」
「ええ。そこで言う真偽とは何か、というところは省きます。たぶんあなたは聡いから、細かいことを言わなくても分かるでしょう。我々は……、違うな。私と、あなたは、ですね。私とあなたは、『釈義』という共通の概念により考え方をある程度『均一に』させられている。そういう生まれをしています。客観的に見て、思考パターンがかなり偏っているでしょう。これが大前提です」
「ああ。心得ている」
「あなたが今言っている『正しさ』というものは、別の言葉に置き換えると『正義』というやつです。もっと細かく言うと、メタ法価値論に該当します。しかしながら、その正しさを判定する基準は、私とあなたの中には『大聖教』という便利な呪文しか存在しない」
ホセは続けた。「だからこそ、正しくないと思う。我々は聖職者ですから、本来は科学的方法と法律的方法により正しさを慎重に吟味すべきです。しかしながら、ヒメ君という事象に関してはそこから一歩離れたところから検討するのがよいかと思います」
ケファは三秒ほど押し黙り、ホセが言わんとしていることが何かを十分に検討した。それから、半分笑いながら言ってやった。
「お前は随分と難しい言い方をする」
「あなたほどではありませんよ。……でもね、これだけは正しかったと言えます。二年前、偶然ヒメ君の存在を知り、地上へ連れ出したこと。彼の隣にあなたを据えたこと。私は胸を張って言えます。あなたを選んでよかった。それは本当に正しいことでした」
「……、」
「答えになりましたか」
ケファはしばらく口を閉ざし、――唐突にやたら長ったらしい息を吐いた。
「あー、お前はどうしてそういうことを平然と言うんだ。恥ずかしい奴」
「それもあなたほどではないですね。三日前の長々とした……」
「あーあーあー! それはもう忘れろ! いや、忘れなくていいからわざわざ言うな!」
運転中でなければ一発拳が飛ぶところだった。
横でくすくすと笑っているホセは「やっぱりあなたはからかいがいがありますね」とさらに怒られそうなことを口走っている。
その態度にケファはさらに吠えるかと思いきや、どうやらその感情は腹の奥底にしまい込むことにしたらしい。
真面目な顔に戻り、彼の名を呼ぶ。
「ホセ。ついでだからもうひとつ」
「ええ。なんです?」
「お前は、初めから知っていたんだよな。『あのひと』――『姫良真夜』の実子が三善だってことを」
ホセはしばらく黙りこみ、困ったように目を細めた。どうやら言葉に窮しているらしい。まあ……、と、妙な前置きを据えつつ、彼はのろのろと口を開く。
「そうですね。正確には、あの子の存在に気づいたのは偶然で、そういう特殊な生まれだということはかなり後付けで知りました」
ホセはどこまで話そうかと暫し逡巡し、それからゆっくりと口を開いた。
「そして、あの子が『釈義』を持たずして生まれた子供だということも、です。まあ、生命なんてものは不思議なものですから、『教皇』の子だからといって必ず先天性釈義が備わっているなんてことはないでしょうね。しかしながら、彼が“七つの大罪”、それも第一階層のみが成し得る“解析”“逆解析”の能力を持って生まれたというのは大いなる誤算でした。かろうじて教皇が扱う“秘蹟”の能力もありますが、そんな中でも“七つの大罪”の能力はかなり目立ちます。――今まで彼が異端審問官に目を付けられなかったのは幸運でしかありません。否、そのようにして生まれたからこそ、彼の中に『教皇』の意識を無理やり入れるしかなかった。そういうことなんだと思いますよ」
「『教皇』が中にいる以上、異端審問官は三善を裁きにかけることはできない、か」
「ええ。そんなことをしたら異端審問官の沽券に関わりますからね」
そこまで言うと、ホセはようやく決心したようで、ケファにはっきりと言った。
「実は、今まであなたに黙っていたことがあります」
ケファは真正面をじっと見つめながら、次のシガレットを咥える。これで三本目である。しかし彼はただ咥えたいだけだったのでそのまま火をつけずにいた。落ち着くための材料が欲しくてそうしていたら、無言でホセがそれに火をつけた。
「A-Pプロジェクトのことなんですが……、あれ、実はダミーみたいなものなんです」
さすがにケファは驚いて、思わずシガレットを取り落としそうになった。慌ててそれを咥え直すと、「はあ?」という奇声と共に助手席に顔を向けた。一体このおっさんは何を言い出すんだと今にもまくし立てようとしていたが、当の本人に冷静な口調で「よそ見しないでください」と言われてしまった。それでようやく正面に向き直り、運転を再開したのだった。
「あなたはA-Pプロジェクトの発案者が誰かを知っていますか?」
「どういうことだ」
「本格的に計画を立て、動いたのはエクレシア科学研です。しかし、それよりも前に原案を作成したひとがいました」
いつになく真剣な声色でホセは続けた。「教皇、そのひとです」
教皇がその原案を打ち出したのは後天性釈義が完成するほんの少し前、つまり約三十五年前だそうだ。当時は「人工的にプロフェットを造る」という観点ではなく、もっともっと単純なところに核心があった。
「――自分は神ではなく、だから万能ではない、と。だからこそ代理を造ろうと考えたようです。例えば神から遣わされた、かの救世主のように」
ケファは何となく彼が言わんとしていることを理解したらしく、微かに唸り声を上げていた。
車はこんな時でも走らせなければならない。目的地を目指し、淡々と速度を上げてゆく。振りまわされそうな感覚がしたが、世の中不思議なもので、彼がこの速度で車を走らせているときは一度も事故を起こしたことがない。
その速さに身を委ね、彼らは対話を続ける。
「しかし、私にも分からないことがあります。その教皇の言い分が正しいものだとすると、ヒメくんが存在する理由がなくなる。そういうのはあくまで自然の摂理というやつなので一概には言えませんが、教皇がわざわざ相手に姫良真夜を選んでまで後継者を作る理由がない。代理を作るだけなら、教義に反するようなことをせずとも技術的には可能だからです」
もっとも、それを考え始めた三十五年前の技術では不可能だったのだと思いますが、とホセは付け加える。
「今はややこしくなるから、教義のことは抜きにして考えるが……、単純に、『間に合わないから』ということではなく?」
「間に合わないって、何にです?」
ケファははっとし、思わず口を噤んだ。
要するに口を滑らせたのだということはすぐに理解できたが、ホセは敢えて口を挟まないことに決めた。このケファ・ストルメントの思考は常に一般人の先を行く。どうせ今その話を無理やり聞き出したとして、理解できないだろうとホセは思ったのだ。
「……、あなたが何を考えているかは詮索しないことにします。とにかく、A-Pプロジェクトの真の目的はプロフェットの量産ではなく、教皇の手足の量産と考えてもらえればいいです。そんな経緯があるからこそ、私は思います。ヒメ君は、たぶん、今の『教皇の器』としての役割とは別の使命が与えられているのでしょう。少なくとも、今までの教皇の行動からはそう読み取れます」
そして、ホセは言った。
「私は今も迷っています。あの子をこのまま大聖教に置いておいてもいいのか。それがあの子の足枷にならないか」
ケファは唇から白い煙をふかし、シガレットの灰を空き缶の中に押し込んだ。じゅ、と火の消える音がして、それからしばらくの間車内は沈黙に包まれた。
彼らの目線の端に見える看板が、第九区への距離を告げている。あと十分もすれば御厨に到着するだろう。
ケファはぽつりと呟いた。
「――ならば俺が今からしようとしていることは、あいつを大聖教に縛り付けるための呪いとなる訳だ」
「え?」
「いや、こっちの話」
そう言った彼の瞳は、心なしか悲しげに揺れ動いていた。