第五章 1
それから数時間車に揺られ、たどり着いたのは本州第九区にある随分古い建物の前だった。
窓越しにぼんやりと外を眺めると、三善は朽ちた建物の頂上に辛うじて立つ大聖教の印に気が付き、それでようやくこの場所が教会なのだと知る。
「ここはいつ来てもぼろぼろなんだよな」
トマスはぽつりと呟いた。「そういう運命なのかね」
三善は自分で車を降りようとしたが、例によって身体に力が入らず身動きが取れなかった。少し休めば回復するかと思ったらそんなことはなく、むしろ徐々にだるさが増している。喀血は少し収まったが、それでもまだ胸のあたりに違和感があった。
「待ってろ」
見かねたトマスが一度運転席から降り、助手席の扉を開けた。そして三善の身体を軽々と持ち上げ、両手で抱きかかえる。
「お前、軽いな。ちゃんと飯は食っているのか」
「失礼な……食べてるよ」
微かに感じる腐臭に疑問を感じつつ、三善は諦めてされるがままになることにした。
車内でのやりとりやここにたどり着くまでの間に色々と考えたのだが、どうもこの男の目的が読めなかった。殺したいのならこんなに回りくどいことをする必要はないだろうし、なにより三善に対する語調はそれほどきつくない。敵意らしいものすらどこにも見受けられないのだ。しかし、そうなると三善だけを連れ出した理由がない。もっと穏便に事を済ませることだってできたはずだ。
「俺がどうしてお前を連れ出したと思う」
トマスがいきなり口を開いたかと思えば、まるで思考を読まれたかのような問いかけをしてきた。
三善の心臓が大きく跳ねる。
「お前が『姫良三善』であり、大司教からの大切な預かり物だからだ」
「うん……?」
そのフレーズはどこかで聞いた覚えがある。三善は逡巡し、三ヶ月前、あの箱庭で自分の師から聞いたものと非常によく似ていると気がついた。
トマスは朽ちかけたドアノブに手をかける。
「俺は大司教であるお前の親父さんから、いくつか頼まれごとをされている。だからお前のことは間違っても殺すつもりはないし、なるべく助けてやろうと思っている」
トマスの声が震えている。まるで絞り出すような声色だ。
三善はそのまま何も言わず、落ちないように彼の服をぎゅっと掴む。
「……そう」
中に足を踏み入れると、ところどころ壊れてはいるのだが、内陣だけは何故か綺麗に整っていた。後陣にはステンド・グラスが貼られ、赤、緑、橙などの光彩を放っている。外は曇っているので、きっと晴れている日ならばもっと美しく光り輝くのだろう。
三善は身廊の一番前にあるベンチに座らされ、そしてトマスはその前にしゃがみこむようにして彼と目線を合わせた。
深い青の瞳が、じっとこちらを見つめている。
不思議な色をしていると三善は思った。深海のように、ところどころ泡のような銀の虹彩が混ざっている。
「……見たところ、あいつに『喪神』されたんだな。そりゃあ動けなくもなるだろ」
聞きなれない単語が耳に入る。そうしん、そうしん……と三善は頭の中で何度かそれを反芻し、ようやくそれが「喪神」という字を書くのではないかと思い至った。
「それはなにを意味しているの?」
「あれ、もしかして知らない? 嘘だろ」
トマスはしまったという表情で一瞬口を噤んだ。しかし、一度その単語を聞いてしまった三善が引き下がるはずもない。その紅玉の瞳をじっとトマスの深海の瞳へ向けると、
「教えて」
思い切り凄んで見せた。
「……神を喪失すると書いて、『喪神』。プロフェットが扱う『釈義』とは真逆のベクトルを持つ術式のことだな。お前、ここ数か月の間にジェームズ・シェーファーに会わなかったか。多分、お前があれに喧嘩を売る前に、だ」
ジェームズ・シェーファーといえば枢機卿のことだが、喧嘩を売る以前はそれほど大きな接点はなかったはずである。三善は少し考えて、「そういえば」と続ける。
「何故か、枢機卿の部屋に行ったことならある……かな」
「その時に体調を崩したりしなかったか」
「かなり長い期間寝込んだ」
「それだ」
ああ、とトマスはその場で頭を抱え、これは一体どうしたものかとうなだれている。何か悪いことを言ったろうか、と三善はついつい戸惑ってしまうほどだ。
「多分、その時にお前と大司教の間にある“楔”が消されたんだろう。ホセの野郎か、黄色い坊ちゃんのどちらかから聞かなかったか。お前の身体は釈義により維持され、そのために大司教が“楔”を打ち込んだ。ふたりでひとつだ、って」
「……聞いた」
つまり、“楔”が喪失したことで身体を維持する機能が大幅に低下しており、今の身体のだるさはそれが原因だと言いたいのだろう。
そこまで理解したところで、ふと、三善は胸の内に違和感を覚えた。
「なんで枢機卿が“楔”のことを知っているの。なんで“楔”を消したの。つまり僕はあの人に――」
三善の言葉を遮るように、トマスが彼のふわふわの癖毛にぽんと手を置いた。驚いた三善は思わず閉口し、そっと瞼を持ち上げる。
「……いいか、よく聞いてほしい。今ならまだ間に合う。前回がそうだった」
トマスが続けた。「お前はこれから『契約の箱』と契りをかわせ。その後、俺と一緒に来い。すぐに大聖教から離れるんだ」
「どうして」
「お前が贄になるからだ」
にえ? と三善は一度首を傾げたが、すぐにはっと目を瞠る。
「贄って、生贄のこと?」
トマスはゆっくりと頷いた。
信じられない、と三善はさすがにうろたえ、首を横に振った。頭を抱えつつ必死に状況を整理しようとするも、何が何だかよく分からない。一体どこから話を進めればそのようなことになるのだろう。それすらもさっぱり見当がつかない。
そんな三善の様子を目の当たりにしてか、トマスはゆっくりとした口調で三善に言い聞かせた。
「このまま何もせずとも、近い将来、お前は『契約の箱』の正式な管理者になるだろう。そしてその時、お前は大聖教に裏切られる。『契約の箱』を開匣させられてこの世は終わりだ。だから、お前はすぐにでも大聖教を離れた方がいいんだ。これはお前のためだ」
そう言われても困る……と三善は眉を下げた。明らかに狼狽している。
このままでは話にならないと判断したのだろう。トマスは長く息をつき、がっくりと肩を落とした。
「まあ、当然だよな。お前は生まれた時から大聖教にいて、その中でぬくぬくと育ってきたんだ。うろたえる気持ちは分からなくもない」
「ぬくぬくと育った覚えなんか、」
「論点はそこじゃないが、そういうところは少し気に入らないから敢えて言わせてもらう」
トマスはきっぱりと言い放つ。「ぬくぬくはしているだろうよ、御曹司。お前、自ら戦争に出たことある? その手で人を殺したことは? そもそも大聖教が『十字軍遠征』を企てた理由、知ってる? 大聖教が何人殺したか知ってるの。その手段は? ついでに言えば、後天性釈義の開発のためにどれだけの人が実験に使われて、どれだけの人を犠牲にしたかは? リバウンドを起こして再起不能にした人数は。全部答えられるのか、あんたは」
三善は口をつぐんだ。どれも、答えられるはずがなかった。その事実を突きつけられ、衝撃のあまり思わず呆然とした。
トマスは続ける。
「それで教皇になろうなんて、よく言えるな。自分の立場を驕るんじゃねえよ」
とはいえ、三善の場合はただの無知という訳でもなかろう。
それを何となくだが理解しているトマスは、それ以上責め立てるような話をしなかった。そもそも、こんな話をするためにわざわざ攫ったのではないのだ。真の目的は三善を大聖教から引き離すことだけだ。別に怯えさせようとかそういう理由ではない。
だが、三善は今のやり取りですっかり怯えてしまっていた。あからさまに怖がられると、意外に傷ついたりするものである。
「あーあー。悪かったって。別に責めようとした訳じゃないんだ。な?」
「嘘だ」
「嘘じゃねぇよ。そうでなければ、お前のために殺されることもなかった」
三善が顔を上げる。
トマスはその軽い口調とは裏腹に、至極真面目な表情でいた。
「お前が洗礼を受けた日に、俺たちは一度会っている。俺はあの日にお前を大聖教から連れ出そうとして、ホセ・カークランドに殺された。お前は覚えていないだろう。いくら死ににくい体とはいえ、俺にだって痛覚はあるんだ。それでも何度もやり直して、ようやく今ここにいる。どうしてだと思う」
三善はじっと口を閉ざし、彼の話に耳を傾けている。
「これ以上、『あの人』にやり直しをさせてはいけないからだ。それだけの思いで俺はここまで来た。これを執念と言わずなんと言う」
「それでも」
三善がようやく口を開いた。
「それでも、僕はこの場所から離れてはいけないと、そう思う。この場所が、……大聖教が、僕とおかあさんと、大司教を繋いでいる。だから、離れてはいけない。離れたら最後、永遠に会えなくなる。そんな気がする」
そして、やっと三善は顔を上げた。「僕はあなた方が、……何万回も、直線的時間の中で『やり直し』をしていることを知っている。だからこそ、過去に縛られてはいけないと思った。だって、真の幸福は常に前方にあるから」
トマスは目を瞠る。不思議なものだ。聖職衣に身を包みこちらを見上げる少年が、何故か大司教の御姿を彷彿とさせる凛としたものに見えたのだ。
そこでトマスはようやく理解した。
ああ、彼はきっと、何を言おうと大聖教から離れることはない。そうなるべくして生まれた子なのだろう。それをどうこうしようというのが、初めから間違っているのかもしれない――。
雲の隙間から太陽の光が漏れた。その僅かな光が色鮮やかな玻璃の天井に差しこみ、優美な光彩を放った。きらきらと瞬き、光の加減で波打つその輝きは、二人を包み込むように優しく降り注いだ。
「――殺されるかも、しれないんだぞ」
やっとのことでトマスは言う。
たくさんの光に包まれた三善の背に、白い翼が見えた気がした。
三善は彼の瞳から一度たりとも目をそらさなかった。その赤い瞳はステンド・グラスの色を吸収し、まるで静かに燃える炎のように揺らめき、ぶつかり、そして溶けあってゆく。
「『もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない』」
そして、はっきりと言ったのだった。