第一章 5
ケファが窓から飛び立ったのを肉眼で確認すると、三善は次の対価の装填のために、右手で銀食器をかき集め始めた。……まあ、銀食器もひと山あれば対価としては充分である。むしろ多すぎるくらいだ。
至極冷静。三善の現状況を一言で表すならば、間違いなくこうだろう。
「姫良神父! あれはいったい……!」
逆に、四辻を始めとする、その場にいた生徒・教師までもが突然の出来事に混乱していた。ガラス片による負傷者が出たことも彼らの不安を一層高めている。ただでさえ例の発火事件で精神が不安定になっているところに、まるで傷口に塩を塗るかのような事態。
混乱が混乱を呼んでいる――それは、非常にまずい。
うーん、と三善は数秒考えたのち、うろたえる四辻を見上げ、はっきりとした口調で言い放った。
「あなたには、まだやるべき仕事がありますよ。どうか彼らを落ち着かせて下さい。そうでなければ、二次災害が起こるかも分からない。お願いします、私の盾があるから、大人しくしていればこれ以上の怪我人は出ません。神と聖霊に誓って、保障致します」
四辻は目を瞠った。
この場にいる誰よりも若いはずの彼が、何故かこのとき一番頼りにできると直感したからである。その真摯な瞳が、四辻の頭を瞬時に冷やした。
その小さな背中に背負う『祈り』の力――今我々が縋りたいのは、まさしくこれなのだろう。
三善が再び口を開く。その口調はまるで、確信を得ているかのような強いものだった。
「『釈義』がある限り、我らエクレシアは負けない」
絶対に、と彼は言う。
その自信とは裏腹に、不安に負け泣き始める生徒も続出し始める。四辻が躊躇う間に、こんなにも恐怖と不安は伝染するのだ。三善の紅蓮の瞳は、揺るぎなく四辻を見つめ続ける。ここはあなたの学校なのだ、と諭されているかのようにも見えた。
「さあ、早く!」
三善の声に四辻はひとつ頷き、ようやく行動に出た。
***
夜色の空を引き裂くように、白き塩の翼を背負うケファが翔ける。講堂の窓を割られる前、確かに感じた“七つの大罪”の気配。それだけを頼りに、彼は目標物を宙から探す。
暗闇は慣れているとはいえ、捜索するにはあまりに不便だ。いっそのこと明かりでも、とケファは考えたが、その明りはすなわち敵に自分の居場所をみすみす教えることと同義だ。だからその案はすぐに却下し、月明かりだけを頼りに捜索することとなったのである。
ばさり、と羽ばたき、旋回。講堂上空からは、独特の残滓は残っていたものの、直接“七つの大罪”の居場所を特定できるほどではなかった。今はここにいない。もう逃げたか、と一度動きを止めると、遠くの方で何か黒い影が揺らいで見えた。
目を凝らしてよくよく見てみると、その影は重力に反して、宙にぴたりと静止した状態で佇んでいるようだ。場所は校庭の上あたり、昨夜燃えた納屋のすぐそばである。……何者かは分からないが、宙に静止できるとなると普通の人間ではないことは確かだ。
――否、人外でも、宙にその身を置くことができるのはごく限られている。
いよいよ“七つの大罪”が動き出したか。ケファはその薄気味悪さに小さく舌打ちし、胸元で十字を切った。これはもはや彼の習慣のようなもので、釈義を誰かに向けて発動する際には決まってこのようにしている。そして祈りを捧げる。
己と、後に天の眷属となるであろう何かに、神の御加護があるように、と。
翼が再び彼を夜闇へと誘う。同時に彼は対価を得るため、自らの親指を噛み切った。甘やかな痛みと、微かな鉄の臭い。舐めとると、口の中にはフワリと独特の味が広がってゆく。
「『装填開始』」
ケファが左耳のイヤー・カフを取った。そしてその十字架の飾りをつまみ上げ、まるで刃物を振るかのように高らかにかざした。
「『深層(significance)発動』!」
彼の声に呼応し、イヤー・カフが聖気を帯びた閃光を放つ。次の瞬間には大人ひとり程度の大きさの巨大十字――否、大剣へと形を変えていた。それを大きく振りかぶり、ケファは目の前に見えている謎の人影に容赦なく斬りかかった。
ざ、と空を切る音が耳を劈く。しかし、その両手に手ごたえは微塵も感じられない。
次の判断が頭を過る。だが、追いつかなかった。
鈍痛。
「っくは……ッ!」
脳天を何かに強打され、ケファの視界がぐらりと揺らいだ。吐き気とめまいが同時に襲いかかり、力の抜けた体はそのまま地面へと墜落するかと思われた。しかし彼は稀に見るほどの強靭な精神力の持ち主。すぐに大翼をはためかせ、塩のかけらと共に上空へと舞い戻る。
次第に鮮明になってゆく視界。彼の眼下には、例の影がはっきりと見えた。大きさからして、標準と比べるとやや背が高い男の影と思われる。だが、ようやく捉えたその影はケファの目の前で忽然と消えてしまった。
さすがのケファも目を剥いた。
「な……」
消えた影を追う間すらなかった。すぐに新しい衝撃が腹部に襲う。二発目の衝撃は手にしている剣で受け身をとり、無理やり薙ぎ払った。鋭く空を切る音がして、僅かだが刃先に手ごたえを感じる。
チィン、と独特の赤い火花が走った。それを視界の端の方で捉えて、ケファは思わず目を瞠った。あの火花――見覚えのある反応だ。間違いなく、あれは。
気づいてしまったからには、もう遅い。明らかに動揺してしまっている自分がいる。
再び態勢を整え、剣を再び振りかぶった。今度は容赦なく、『殺す』ための動きへと変わっていた。影に触れると同時に感じた肉を斬る重たい感触。先程よりも派手に赤のプラズマが飛び散り、夜闇の中に華を咲かせていた。その光が、一瞬だけ影の本性を露にする。
「――っ」
ケファの目は、『影』の紅い瞳を捉えた。ほんの僅かに見えただけなのに、まるで吸い込まれてしまいそうなほどに強い印象を植え付けられたその瞳。それがさらに、ケファの思考を確信へと導いてゆく。
しかし。
本当にこの影が『それ』だとすると――
心の中でもう一人の自分が悲鳴を上げている。警鐘のようにうるさく、しきりに逃げることを推奨する本能。だが、ここで引き下がる訳にはいかない。分かっているのに、身体が意に反して躊躇している。
ひとつの結論に達したケファは、既に理解していた。
今この場所で、『それ』に勝つのは不可能である、と。
少しでもそう思ってしまった自分が憎らしかった。その思考を断ち切るべく、ケファは力任せに剣を振るった。しかしそれは虚空を切るだけで、先程までの手ごたえは全くと言っていいほど感じられなかった。まして、『影』が放つ気配すらも完全に消え失せているではないか。
紫の瞳は自然と影を追い求める。
「いない、だと……?」
ケファはゆっくりと辺りを見回した。しかし宙はおろか、地上にさえそれらしい人影はなかった。あれほど独特だと感じていた気配の残滓すらも消え失せてしまっている。
涼しい乾いた夜の風が彼の頬を撫ぜてゆく。体の熱が徐々に冷えてゆき、冷静さを失いかけた思考も徐々に元の状態へと戻ってゆく。
そして訪れた夜の静けさ。しんとした空。先程から痛々しいほどに感じていた空気のざわめきすら聞こえない。恐ろしいほどに、『全て』が元通りになっていた。
『影』を逃がしてしまったことを悔いるべきか、それとも倒される前に撤退してくれたことを喜ぶべきか。どちらにせよ、彼の心に残ったのは己を呵責する思いだけだ。
「……っ、くそっ!」
***
塩の翼の対価が切れたのでゆっくりと地上へと降り立ったケファは、悔しさのあまり頭をぐしゃぐしゃとかき回していた。身体に白い灰がまとわりつく。口の中にもそれらが入り込み、ざらりとした粉っぽい感触が舌に残る。彼はこの感触があまり好きではない。そんな些細な出来事が、彼の苛立ちをより一層高めているのもまた事実だ。
脳裏によみがえる、先程の戦闘。否、戦闘と言えるほど大層なものではなかった。むしろ、「軽くあしらわれた」と感じる部分の方が大きい。
それよりも、紅い火花を目にした瞬間に感じたあの感情は一体なんだ。焦りか? 不安か? それとも、後悔か? どれも違う。きっとあれは、恐怖、だ。なぜ、斬る判断が鈍ったのか――その理由は明白だった。
なぜなら、あれは。あの人影の正体は。
「ケファ!」
背後から呼ばれ、ケファははっとして振り向く。
三善だった。外が静かになったので、講堂に張った釈義を解除してやって来たようだった。その息切れしている様子から見ると、走ってきたか、体力を予想以上に消耗してきたか――。
いずれにせよ、彼を早く休ませなければなるまい。彼の身体の“仕組み”は、通常の人間のそれとは大分異なっているのだ。
三善でなくとも、一日にあれだけ釈義を展開すれば完全なオーバー・ワークだろう。こんなことを考えているケファ自身、身体のダメージは相当である。正直、今こうやって立っていられることの方が不思議でならない。
満身創痍、という表現が浮かんだケファだったが、すぐにそれを打ち消した。
三善に弱い部分は決して見せられないのである。それは師としての自分のあるべき姿だと考えていたし、彼に出会う前の自分もそうだったのだから、今さら変えることなどできない。
ただ自分は、模範を見せるだけ。それが勤めなのだ。
いずれ彼も自分の元を離れてゆくのだから。ヴァチカン支部で教鞭を執っていた頃、何人もの生徒が巣立っていったように。
三善はそう考えるケファをよそに、喘鳴混じりの声で話し始めた。
「こっちはどうにか、大丈夫だった。負傷者もそんなに出ていない。そっちは?」
「……最悪だよ」
ケファは釈義完了の祝詞を唱え、手にしていた剣を小さなイヤー・カフに戻す。それを左耳の軟骨部にはめると、小さく息を吐き出した。
その赤銅の瞳が、全てを物語っている。あの『影』が、この男の闘志に火を点けた。嫌でも分かるくらい、彼は今殺気立っていたのだ。
いつになく不機嫌なケファを目のあたりにし、怯える三善。そんな彼の耳元で、ケファはそっと囁いた。その苛立ちからは想像もつかないくらいの、優しい声色で。はっきりと。
「どうやら、この学校に“傲慢”の第一階層がうろついているらしい」