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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第四章 1

 曇天の空を見つめながら息を吐いている男がいた。

 場所は高層ビル。ゆうに四〇階は越えるその場所はオフィススペースらしく、高級そうな革の椅子と大きな机が下座を向くようにして置かれている。その机の上も綺麗に整頓されており、持ち主の几帳面さをとてもよく表していた。

 ――いつかはそうなると思っていたが、まさかこんなにも早くに起こるとは思っていなかった。

 男はそんなことを考えながら、つい腕組みをしてしまう。微かに苛立ちを覚えているのは事実だった。しかし、苛立ちのそもそもの原因は自分自身の引き継ぎ不足によるものだ。誰かに、何かにぶつけていい感情ではない。だからこそ、彼はじっと空を見つめることで感情の昂ぶりを鎮めようとしていた。

 彼はそのまましばらく外の景色を眺めていたのだが、突然開いた扉の音に気付いてゆっくりと振り返った。

「ああ、秋子ちゃん。久しぶりだね」

 そう言って男は部屋に入ってきた女性に対してゆっくりと両手を広げた。「さあ、パパの胸に飛び込んでおいで!」

「セクハラで訴えますよ」

 女性――帯刀秋子たてわきあきこはその薄氷色の瞳をじっとりと彼に向け、呆れたように溜息をついた。胸のあたりまで伸びるふんわりとした茶色の巻き毛を直しながら、「それで?」と彼の次の言葉を要求する。

 男――帯刀壬生たてわきみぶは、秋子が知る限りでは最近まで妹の春風(はるか)が住んでいるスウェーデンにいたはずだった。それなのに、なぜ今彼は自分の仕事部屋でのんびりと景色なんか眺めているのだろうか。

 いつも気付かないうちに侵入され、こうして執務室で待機される始末。

 ここは一応セキュリティ会社だ。この男が多少変人であったとしても、なんとか耐えうるほどにはセキュリティ・システムを強化しなくてはなるまい。何か策を講じる必要があるな、と考えた秋子に、彼女の父は同色の瞳をゆっくりと向けた。

「うん、ちょっとお願いがあるんだ。秋子ちゃんにしかできないお仕事」

 彼は実に穏やかかつ軽い口調で言い放つ。「とある情報を書き換えて全世界公開してほしくてさ。君ならできるでしょ」

 まるで「醤油買ってこい」と子供にお使いを頼む親のような口調で、なにやらとんでもないことを言いやがった。

 思わず秋子は「はあ?」とかなりきつい口調で切り返す。

「またですか?」

「うん」

「いくら父さんの頼みとはいえ、ディーンの会社で変なことしないでください。彼もそこまでお人よしではありません」

「そうかもしれないね。だから君に言っているんじゃないか。実質、この会社を動かしているのは君だよ。帯刀秋子さん」

「表向きはディーンのものです」

 黒く短い髪を見るたび、そして独特の蒼い瞳を見るたびに秋子は思う。どうしてこんなにちゃらんぽらんで寄生虫のごとく兄弟たちにたかっているような父親が、世界を股に掛ける帯刀家を牽引できるのだろう。実権は既に末弟の雪にあるが、それでも彼が及ぼす影響は計り知れない。正直、この会社が大きな顔をしていられるのも彼の庇護下にあるからと言ってもよい。

 はっきり言ってしまえば、食えない狸親父。今こうして軽いノリで頼みごとをしてきているその間にも、彼の脳内では想像もつかない策略が練られているのだ。それをよく知る秋子は、ようやく観念した様子で肩を竦めた。

「それで? 何をどうすればいいの?」

「簡単に言うと、愛しい末弟の尻拭いだ」

「……雪がなにかしたの」

 そう、と壬生はひとつ頷き、窓辺にゆっくりと腰掛けた。

「あいつ、俺の忠告を無視して『契約の箱』に近づこうとしているみたいだ」

 その一言に、秋子はつい目を剥いてしまった。『契約の箱』と言えば、わざわざご丁寧に家訓に書かれるほどの注意事項――否、もはや警告と言っても差し支えないだろう――ではないか。正しくは正式な後継者である雪とその付き人である慶馬にのみ引き継がれた内容らしいが、帯刀家にとってその手の秘密はほとんど筒抜けと言ってよい。そんな訳で触りくらいは知っている秋子は、その単語ひとつで事の重大さを把握できたのだった。

 ようやく話を聞く気になった秋子は、壬生へと焦燥する眼差しを向けた。

「少し前から“七つの大罪”を生け捕りにしようとしたり、『白髪の聖女』について調べたりと、まあ大分グレーなことをやっているとは思っていたんだ。九月くらいに“嫉妬(Indivia)”と“A-P”の件で色々あったから懲りたと思ったんだけどねぇ。あの頑固さは誰に似たんだか」

 それは間違いなくあなたです、と秋子は心の中で毒づいた。

「『契約の箱』は絶対に誰にも気づかれないところに置いているから全く気にしていないんだけど。ただ、『白髪の聖女』の件はかなりまずいんだよな」

 思わず頭を抱える秋子をよそに、壬生は淡々と話を続ける。

「そこで、だ。秋子ちゃん、ちょっと『姫良真夜』の所在を今から言うところに書き換えておいてくれるかい」

 ――姫良真夜?

 秋子は一度首を傾げた。それから長々と熟考するも、彼女の脳内にはどうやら該当項目が上がらなかったらしい。ひとり心当たりはあるが、それを指定される理由が分からない。

 なぜなら彼女は。

「彼女は既に死んでいるでしょう。それを公表してしまえば、こんなに面倒なことにはならないのでは」

「だめだ。彼女については、あたかも『存在している』と周りに思わせることが重要なんだ。少なくとも、あと五年はそうしなければならない」

 壬生はきっぱりと言い放つ。彼がそこまではっきりと物を言うときは本当に大変なことが起こっている場合のみだ。

 煙草吸ってもいい? と壬生が尋ねてきたので、秋子はそっけない態度でここは禁煙だと告げた。本当に面白くない親父である。きっと狸かなにかが化けているのだろう。いつかその化けの皮を剥がしてやりたいとふつふつ怒りがこみ上げてきたところで、ふと秋子は何かに気がついたらしく急に黙り込んだ。

 なんだろう。何か引っかかる感じがする。そもそもの原因が「雪の尻拭い」である、ということと話がつながっていない。つまり、彼はまだ秋子に対し全ての情報を出し切っていないということだ。

「あの子の尻拭いというのは? 美袋がいれば多少のことはどうにかなるでしょう」

 そこで、秋子はまずは手短に確認できそうなところから尋ねることにした。壬生はうん、と先ほどと全く変わりのない口調で続けた。

「ゆっきーがどうも真夜の真の居場所を口外したみたいだ。それが何故か“七つの大罪”に伝わって、ちょっと前にその場所で乱闘が起きた」

「は?」

「その結果、ひとりの神父が大罪に連れ去られたらしい。だから割と緊急の話なんだ、人命がかかっているからさ。それともうひとつ、その慶馬君も多分まずいことになる。これはあくまで予想だから何とも言えないけれど」

 緊急なら緊急だと早く言え。無駄な茶番を挟んでしまったではないか。

 それを耳にした秋子はすでに動いていた。デスク上の端末を起動させると、猛烈な速さでキーボードを叩いた。それからデスクの左側に設置してある電話の受話器を上げ、かなり冷静な口調で何かを伝えた。その間、たったの一分。静かに受話器を置いた彼女は、ゆっくりと息を吐き出すと壬生へ宣言した。

「とりあえず、付随情報は潰したわ」

「さすが」

「でも、主の情報は雪が操作すべき。自分の失態は自分で対処してこその帯刀家当主ですから」

「なるほど」

 壬生はにやりと笑った。「それはその通りだ。さすがに自分の友人と腹心に危険が迫っていると分かれば動かざるを得ないだろ」

 それから、と彼女は付け加えるようにして言った。

「春風にも連絡しておいて。あの子は雪のところへ行かせる」

「あ、それは大丈夫」

 壬生がさらりと返す。「あの子はすでに雪の消息を追っている。元々あの子は冬樹に頼まれて、ここ数日行方をくらました二人を探していたから」

 春風ははっきり言って弟を溺愛しすぎている。一応結婚して旦那もいるのに、だ。そのため、冬樹――慶馬の従弟である――が彼女にその依頼をしたところ、次の瞬間には飛行機の予約を終えていたと聞く。あの壬生ですら呆れてしまうフットワークの軽さである。

 それを聞いた秋子は、きょとんとして首を傾げた。

「そうなの? ちょっと前に雪から電話があったけど、そんな風には聞こえなかったわ」

「うん? どういうこと?」

 今度は壬生が怪訝な表情を浮かべる番だった。秋子はそれほど気にも留めず、数日前の電話について簡単に説明することにした。

「なんでも、『エクレシア本部に携帯を一台送れ』って。聞いたことがない神父の名を宛名に指名してきたから、不思議には思っていたのだけれど」

 壬生は思案顔で三秒ほど押し黙り、ややあってゆっくりと口を開く。

「……それ、もしかして姫良三善って言ってなかった?」

「そう、それそれ。そんな名前の神父だった」

 壬生は微かに眉間にしわを寄せた。そして、至極真面目な声色ではっきりと言い放った。

「なるほど、君も一部加担していたのか」

「えっ?」

「ゆっきーが『姫良真夜』の場所を洩らした相手が『姫良三善』。“大罪”に連れ去られたのも『姫良三善』。これらのやりとりは君が送った携帯で行われた」

 まあいい、と壬生は懐に手を入れる。

「たまには父親らしく、ちゃんと叱ってやるとするか。今、あの子はどこにいるんだろう。慶馬君と仲良くやっているだろうか」

 そのまま懐から携帯電話を取り出すと、壬生はアドレス帳を画面に展開し、ゆっくりと通話ボタンを押した。

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