第三章 3
「おっと!」
突如糸が切れたようにその場に崩れ落ちた三善の体を、ケファは慌てて抱きとめた。
「あぶねー……」
当の三善は深い眠りについており、この不安定な状況でも全く目覚める気配がない。しかし、釈義は継続して展開し続けているように見受けられた。身体が異様な熱を放出しているのも、もしかしたら扉の向こうで膨大なエネルギーを消費しているからかもしれない。
ケファは安堵の息をつき、三善の身体をそっと抱きかかえるようにして横たえさせた。
ここまでは『予想通り』だった。
あの日――三日前、横になったベッドの中で、ケファは今までの出来事を整理していた。
栄転し来日することになった時のこと。『十二使徒』の名を前任者から引き継ぐことになった時のこと。そして、三善と出会った時のこと。
泡沫のように浮かんでは消えていく記憶。なぜ今日はこんなにも色々と思い出すのだろう。記憶の波に身を委ねながらゆっくりと瞼を閉じると、もやがかる意識の中、ふとケファはあることに気がついた。
慌てて飛び起きると、枕元に積んでいた書類の中からいくつかを選び取り、上から下まで舐めるように読み込む。脳裏に過るのは、資料室で見つけたジェームズ・シェーファーと帯刀壬生の利用記録だ。
何度も何度も繰り返し資料に目を通し、そしてようやく一つの結論にたどり着いた。まるでパズルのピースが全てはまったときのように、彼の脳内では全てがきれいにつながっている。
しかし。だが、それが正しいとすると。
俄かに信じがたい結論に、ケファは再び頭を抱える羽目になった。そして考えに考えた結果、翌朝早くから三善の元を尋ねることにしたのである。
三善の部屋の戸を叩こうとした時、微かに三善の声がケファの耳に入る。
――『第十三番』書庫はどこ。
血の気が引く思いがした。
まさか三善がホセを相手にそんな手を使うとは思っていなかったし、自ら厄介ごとに首を突っ込むことも想定外だった。このまま好きに行動させた場合の末路は目に見えている。三善は聡いので放っておいても自分が予想している結果にはたどり着くだろうが、今強行突破されるとさすがに困る。
これ以上勝手はさせない。全部誘導してやる。
一度やる気になれば簡単だ。言える範囲で情報を開示しつつ、他はそれとなく濁しておく。三善はなにか引っかかっているような顔をしていたが、あまり深くは突っ込んでこなかった。そして、この場所を訪れるのに敢えて三日後を指定した。とにかく時間が欲しかったのである。その間に必要だと思われることは全部やった。この時だけは背中の痛みも気にならなかった。
最優先にすべきは、姫良三善を救うこと。
そんな思いで、ケファは今日という日を迎えたのである。
まずは三善をこの場所に連れてくること。なすべきことのひとつを達成し、ケファは密かに安心していた。
次に考える必要があるのは、今後のことだ。
数日前にジェイに言われた言葉が脳裏を過る。
――ねえ、本格的に療養する気はない? ボクと一緒においでよ。
それはつまり、三善の元を離れ国外に異動するということだ。
その時は返事を保留にしていたが、今なら言える。これは最大のチャンスだ。
今この時、エクレシアに姫良三善を置いておくこと自体が危険であった。うまいこと言いくるめて三善を連れて国外に出る。それが達成できれば、少なくとも今胸の内にある最悪の出来事は回避できるだろう。何も日本に居続ける必要はないのだ。もしも反対された場合は、拉致でもなんでもすればいい。自分で言うのもなんだが、三善が自分の言うことを聞かないはずがないのだ。
我ながら雑なことを考える、と思っていた、その時。
「おや、もしかしてお取り込み中?」
どこからか男の声がした。自分の知らない声だ。
驚いて顔を上げ、すぐに三善を抱えたまま立ちあがった。ケファの紫の瞳が声の主を捉えるまで、心臓がうるさいくらいに跳ねていた。
何だか嫌な予感がする。大体にして、今この場所に人が来るということ自体がおかしい。
「誰だ?」
鋭い口調で尋ねると、徐々に男の全貌が明らかになる。
白っぽい色をした短い髪の毛に、少しばかり色素の薄い肌。黒い色をした長いコートが翻ると、それと同色のスラックスが見えた。そして何より特徴的だったのは、深海のように深い色をした青。その中に銀の光彩が散りばめられた、奇妙な色だった。
「こんばんは。ブラザー・ケファ」
その男は優しくにこりと笑い、警戒心を解こうとしたのか両手を広げて見せた。当然それは逆効果で、ケファはいつでも釈義を展開できるように神経を尖らせる。
「……そんな怖い顔しなくても」
「不審人物に優しくする人間がどこにいる」
男は笑ったが、すぐに真剣な表情に変わった。こうして見るとなかなか筋の通った男だ。その姿勢がどことなくホセに似ているとは思ったが、それは敢えて口にしなかった。
「ああ、やっぱり『あの子』の言うことは当たるな……。透視能力でもあるのかな」
そんな彼をよそに、男は何やらぶつぶつと呟いている。
独り言にしては不思議なことを言う。ケファはその呟きについて思考を巡らせ、ややあってひとつの答えにたどり着いた。
「……まさか、お前は知っているのか」
その言葉に、男は目を大きく見開いた。彼にとっても、その発言は想定外だったらしい。
「何をだい」
「全部、だ」
その一言が決定打になった。男は初め面食らった様子でいたが、唐突に大声で笑い始めた。
「ああ、失礼。やっぱあんた天才だ」
「笑われることは何も言っていないんだが」
「そう、そうだ。俺は知っている、ぜーんぶ、知っている。ああしかし、これは誤算だな」
そう言い放った男が、ようやく笑うのをやめた。
「本当はあんたと話をしようかと思っていたんだが、その必要がなくなっちまった。予定変更。そこの姫良三善をお預かりしたい。理由はわかるだろ、あんたに拒否権はない」
「駄目だ。素性の知れない奴に彼を渡すことはできない」
ケファはすぐにそれを拒んだ。
そもそも彼から発せられる微かな腐臭が、なんとなく嫌悪感を抱かせるのだ。とにかく、嫌な予感の要素で溢れた男に三善を渡すわけにはいかない。だから全力で首を横に振ったのだった。
「困ったな。せめてこっちの事情を聞いてくれないか」
「そっちの事情はともかく、こっちにも事情がある」
「ほう?」
「諦めろ。俺が動くのが最善だ。驕りだと罵られても構わない」
その言葉を言い切る前に、ケファの頬に何か冷たいものが掠めていった。一拍置いて傷口から血が流れていく。何が起こったのかよく分からなかったが、この男が何かをしたのだということはすぐに理解した。
「それはその通りなんだが、今のこの状況、あんたが考えているよりもずっと危険なんだ。よって却下だ」
彼が持っているのは青いプラズマを放つ奇妙な銃だ。おそらく頬を掠めていったのは、あれだろう。ケファはあの青い閃光を放つ銃に見覚えがあった。しかし、あれは確か――
「それは三善が浄化したはずだ」
「そう。これは“嫉妬”の弾丸、のコピー。本物よりは精度が劣るが、使えない訳じゃない」
そして彼は続けた。「ああ、まだ名乗ってなかったな。名前くらいならブラザー・ホセに聞いたことがあるだろ。彼の右腕だった、今はその名を抹消されている男の話」
ケファは瞳をじっと彼に向けたまま、しばらく口を閉ざしている。覚えはあるものの、それを口にするのがためらわれた。そのためらいをなんとか押しのけて、まるで絞り出すような声色でその名を呼ぶ。
「――『十二使徒』の、トマス・レイモン」
「そう。一応君の先輩だよ、ペテロ」
彼の手中にあった銃が青い閃光を放ち消え失せ、代わりに白い色をした長い杖を出現させる。それは『十二使徒』が継承してきた力を具現化させたものだ。
ケファも向こうに合わせ、無言で似たような白い杖を出現させた。主より譲り受けた天国の鍵。聖気を放つそれをまっすぐにトマスに向け、ケファは冷たい声色で言い放つ。
「立ち去れ。天国の門へ送られたくなければ」
「あいにく、なんどもそこに拒否されている身なので」
互いの杖が呼応するように発動する。ほとばしる釈義の光が白く爆ぜ、動かすたびに彗星のような残光を残して消えてゆく。その眩しさに、思わず目が眩むほどだ。
先に動いたのはトマスだ。大きく踏み出した一歩に反応し、ケファも三善を抱えたまま横に身を翻す。さすがに人を抱えた状態で動き回るのは無理がある。ほんの少し判断が遅れたら、今己の身体はあの光に灼かれていた。
三善を肩に担ぎ直し、ケファが杖を構えた。刹那、青白い気がトマスに向かい一直線に走っていった。
耳を劈く音。激しい風圧とガラスを擦るような奇怪な振動に顔をしかめつつ、ケファはそのままトマスに飛び蹴りをお見舞いした。鈍い感触。
しかし、着地したとき、そこに彼はいないとすぐに気がついた。一瞬の動揺。それをトマスは見逃さない。
彼は気配を消しケファの首元に手刀を落とした。
「君らしくないね、いつもは隙のひとつも見せやしないのに」
ぐらりと身体が傾き、三善もろともケファは足元に崩れ落ちた。視界が完全にブラック・アウトする。トマスの声がどんどん遠くなってゆく。動きたくても、それ以上身体が動くことはなかった。
「『今回』が初めてだよ、君が――……のは」
トマスが冷たい口調で吐き出したその言葉だけは、何となく耳に入ってきたが。
***
頬を叩かれる微かな刺激で、ケファは目が覚めた。まだ視界はぼんやりしていて、頭もぐらぐらする。吐き気も同時にこみあげてきたが、それは何とか我慢した。
「……ああよかった。意識はありますね」
その声はホセのものだった。彼はこちらを安心した様子で見下ろしており、視線がかち合うとほっと肩を撫で下ろす。そしてすぐに顔を別の方向に向け、誰かに何かを指示していた。覚醒しきっていない頭では、その内容は上手く理解できなかった。
年齢の割に整った顎元を見上げるようにしてぼんやりしていると、先程までの記憶が徐々によみがえってきた。
そうだ、三善は!
思わずケファが上体を上げると、見事に互いの顔面が衝突し、骨がぶつかるひどい音がした。苦しみ悶えるケファに顎を押さえ声にならない悲鳴をあげるホセ。この光景だけ見たらどれだけ平和なものだろう。
「起きるときは起きるって言って!」
既に丁寧語を使う気すら失せてしまったらしいホセが反論してきたので、こちらも負けじと噛みつく。
「三善は? 三善はどこだ?」
掴みかかりそうな勢いで必死に訴える彼に、ホセは困ったように眉を下げた。それを見て、ケファは愕然とする。
――最悪の出来事が起こった。