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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第三章 2

 とても、寒かった。

 三善がゆっくりと瞼を開けると、そこは一面の白だった。驚いて、は、と息を洩らすと、それは静かに白く立ち上っていった。ひんやりとした空気と降り積もる雪の中、埋もれるようにして己の身体がそこにあった。

 雪原の中に仰向けの状態で身体が放り出されている。ゆっくりと身体を起こすと、褐色がかった掌に目が留まった。

 ――褐色?

 きょとんとして三善が両手を表・裏とそれぞれ返しながら見つめる。自分のものよりもやや骨ばった大きな手は、確かに少しだけ色が黒かった。それだけではない。今身に纏っている衣服も雪と同様完璧な白で、肩には緋色の肩帯ストラがかけられている。銀の十字が雪に濡れ艶めきながらも輝き、左手には黒い色をしたロザリオが巻かれている。

 すぐにこの衣服は司教のものだと三善は気がついた。しかし、何故今自分がそれを身に纏っているかなど全く分からない。今まで己は何をしていただろうか、と考えようとしているのだが、寒さのあまりに思考の大半が停止している。僅かに残った記憶によると、自分は今の今まで釈義を展開して、何かを『一掃』していたらしい。

 祝詞を上げるたび、辺りは灰にまみれ白く白く濁ってゆく。その濁りの中、唯一の色はおそらく血液だっただろう赤黒い花弁。気がつくと赤と白の中にただひとり佇んで、右手を握りしめているのだ。

 そして呟くように、憐れみを込めて言うのだ。

 ――Amen、と。

 風が身体に強く吹き付け、びりびりとした痛みが頬を襲う。手はすっかりかじかんでしまい、感覚は一切残っていなかった。

 うわごとのようにさむい、と一言呟くと、暖をとるべく両手を合わせ息を吐く。だが、息の水分が凍りつき、逆に手の温度を奪われてしまった。

「――ここ、は……」

 そのとき、三善の頭に何かが触れた。

 驚いた三善はすぐに釈義を展開し、その「右手」を“何か”に翳した。

「あ」

 そこに立っていたのは、どうやら司教らしい男だった。真っ白い色をした聖職衣は風に舞い、緋色の肩帯はそれに僅かな華を添える。白っぽい色をした短い髪には雪が積もり、深海のような青い光彩を放つ独特の瞳がこちらを見つめている。口から白い息が、まるで紫煙のように長く長く吐き出されていた。

「――お迎えにあがりました、司教ファーザー

 に、と笑った彼は、そのまま三善を抱きかかえ雪の中ざくざくと元来た道を戻り始めたのだった。

 全く身に覚えのない人物である。このまま拉致されてもいいのだろうか。三善は担がれた状態でしばらく考えていたが、男の次の一言で覚悟を決めたらしかった。

「ちょうど、おやつの準備ができたところだ」


***


 彼は近くのログハウスに入ると、三善を暖炉の前に放り投げた。反論しようと口を開くも、次の瞬間ぼろぼろのタオルを顔面に命中させてきたので、何も言うことができなかった。

「なんなの、もう……」

「お仕事ごくろうさん。大変だねぇ、お偉いさんは」

「え? 僕はお偉いさんなんかじゃないけど」

「僕? その一人称久しぶりに聞いたな」

 彼が怪訝そうな顔をしたので、三善はさらに混乱した。いつも通りに返事したはずなのに、なぜそんな顔をされなければならないのか。

 なにかがおかしい。

 頭を拭きながら、ちらりと窓に映った自分を見た。

「え……?」

 そこに映っていたのは、三善ではなかった。

 歪んだ貧相なガラスに映るのは、目を丸くし頭を拭く手を止めているアイボリーの瞳の男。三善は彼のことをとてもよく知っていた。

 ホセ・カークランドだ。

「なんだ、狐に化かされたような顔して」

 男が笑いながらステンレスのカップからティー・バッグを取り出した。

 三善は未だどきどきと脈打つ心臓を誤魔化しながら、曖昧に微笑んだ。そして男へ目を向ける。

「……いいえ。何でもありません。ところで、今日は何日ですか?」

「あ? ええと、十三日だ。十二月十三日、二〇〇四年の」

「ありがとうございます」

 その頃は、確か『聖戦』まっただ中のはずだ。ということは、ホセもそれに出征しているはず。ならば、この目の前で紅茶を呑気に淹れている男には心当たりがある。

 かつて『十二使徒』に任命された男がホセと行動を共にしていたという。ホセが過去に一度だけその男のことについて触れたことがあり、三善はそれをとてもよく覚えていた。その男は、今は大聖教にはいない。殉教したのだと教えられていた。

 男の名はトマス・レイモン。どういう訳か、三善は自分の知らない過去にやってきたようだった。

 とりあえず、しばらくはホセのふりをするのがいいだろう。

 三善の決意をよそにトマスは怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに朗らかな表情へと戻る。

「変な奴。とりあえず、食えばいい」

「ええ。いただきます」

 肩にタオルをかけたまま、適当にぶつ切りにされた切り株に腰掛ける。湯気を立ち昇らせている紅茶と、正体の分からない謎の固形物。三善はきょとんとしてその固形物を見つめ、一応尋ねてみた。

「……これは、食べてもいい材料でできているのですか?」

「携帯食料で悪かったな。この雪じゃあ、キャンプから何かとってくることもできやしない」

 『けいたいしょくりょう』とは一体なんだろう、とは思ったが、まあ文句は言わず口にすることにする。噛みついてみると、なんとも言えない食感と味が口いっぱいに広がった。なんだか粘土みたいだった。

 いつも自分はとてもおいしいものを食べているんだなあ、とぼんやり考えると、紅茶を一口。舌にざらりとした違和感があった。

「……もしかして、ティー・バッグを泳がせました?」

「あ? ああ」

「泳がせるなとあれほど言っているじゃないですか。人の話を聞いてないんですね、相変わらず」

「うるせえよ、これだからイギリス人は! 文句があるなら飲むんじゃねぇ」

「いいえ、別に文句はありません」

 まるで本人のようなコメントが自然に口を突いて出たことに、三善は内心よくやったとガッツポーズを決めている。伊達に長いこと近くにいた訳ではない。我ながら会心の出来だと満足げに微笑んだ。

 あまりおいしくない紅茶をすすりながら、目の前で不機嫌そうにしている男へ目を向ける。

 そういえば、目の前のこの人物はどんな理由で殉教したのだったか。不自然にならない程度に目を閉じ思考を巡らせるも、その答えは頭に浮かんではこなかった。

 そのとき、ことん、とトマスはカップを置いた。

「――お前が、俺を殺したんだろう」

 心臓が跳ねた。

 はじめはそのショッキングな内容に。次に、その一言が自分の疑問に対する答えであることに。まるで心を見透かされたのではないかと思うほどだ。

 三善は無表情のまま、彼をじっとねめつける。対して、彼は唇に笑みを湛え三善の黒く濡れた髪にそっと触れた。

 独特の花の香りがした。

「ああ、愛しい子。あなたがここにいるならば、今回はうまくいくかもしれない」

 不可解な言動に眉を顰めつつ、三善は鋭い口調で尋ねる。

「僕がホセ・カークランドではないと、いつから?」

 アイボリーの瞳がじっと、トマスの深い青を見つめる。じっと射抜くような目は確かにホセのものとよく似ていたが、微妙にそれとは異なっていた。

「初めから。ちなみに私もトマス・レイモンではありません。おあいこですね」

 優しく笑う男はゆっくりと三善から離れ、人差し指を唇の前に立てる。

「覚えていませんか? ここはエクレシア本部資料室閉架第十三階。あなたは鍵を開け、たったひとりで入ってきた」

 それで三善はようやく思い出した。そうだ、どうして思い出せなかったのだろう。自分は「あること」を調べるためにここへやってきたのだ。

 唐突に、三善は帯刀が言っていたことを思い出す。

 ――彼女は今も本部に隔離されている。彼女が存在する部屋は『釈義』により解放され、『釈義』を展開している間だけ彼女に会える。

「……随分な演出じゃないですか」

 三善が苦笑しながら言うと、目の前の男は一度だけゆっくりと、頷いたのだった。

「ならば、あなたが誰かを僕は知っている」

 三善は一瞬ためらったが、ゆっくりと、嚙みしめるように言った。

「『白髪の聖女』。いや……おかあ、さん」

 そう言った刹那、景色が突然溶け出した。どろどろに溶け出した絵の具のような世界に、三善は思わず息を飲んだ。あらゆる色という色が溶け合い、混ざり合い、そして最終的に霧散する。

 気づくと三善は図書館の中にいた。本部の図書館と非常によく似た間取りのその部屋は、等間隔に並ぶダウン・ライトにより柔らかく照らされている。

 三善が思わず己の手を見つめると、それはいつもの乳白色をした手だった。

「……久しぶり。やっと会えた」

 目の前にいるのは、自分と背格好が似た女性だった。白く長い髪は胸元でゆるやかに巻かれ、同色のシンプルなドレスに身を包んでいる。瞳はどこかで見たことがある、紅蓮の炎を連想する深い赤。モノクロコピーの写真で見た時よりもずっと、自分の姿と印象が似ていると三善は思った。

「ひとりにしてごめんなさい。でも、こうするしかなかったから」

「おかあ、さん」

 絞り出すような声色で、三善はその名を口にする。微かに目を細め、締め付けられる胸を落ち着けようと呼吸を整える。

「あなたは――ずっとひとりで、ここにいたの」

 三善の問いに対し、彼女はただ静かに微笑むだけで何も答えようとはしなかった。眩しげに目を細めた彼女は、その事実を噛みしめるように、ゆっくりと唇を動かす。

「ここは図書館」

 三善は怪訝そうな表情を浮かべ、「何?」と尋ねた。

「何千、何万と繰り返された歴史をあなたに伝える場所。それだけのために存在する場所。私はそのためにあなたを待っていた」

「ただ、それだけのために?」

 彼女は頷く。

 それを否定したくて、三善は首を横に振った。

「あり得ない」

「この場所にあり得ないなんてことはない。あなたの存在がある限り、それは誰にも否定されることがない。定義といってもいいのでしょうね」

「定義……」

「そう、定義」

 そこまで言った彼女は、はっとして天井を仰いだ。三善もつられて同じ方向へ目をやるも、彼の目には何も映らない。しかし、彼女が明らかに焦っていることは見て取れた。

「時間がないわ。よく聞いてちょうだい。私はあなたに伝えるべきことがある」

「『契約の箱』のこと?」

 三善の一言に彼女は一度目を大きく見開き、それから小さく頷いた。

「その様子だと、あなたの手にまだそれは渡っていないのね」

「みんなが、血眼になって探している」

「見つかりっこないわ。あの『釈義』は今回、誰にも触れられない場所にあるから」

「どういうこと?」

 彼女は突然三善の腕を掴んだ。そして、射るような鋭いまなざしを三善へ向ける。

「これは大事な話よ。あの『釈義』には別名がある。今は、あなたもよく知っている人が持っているの。でも、その人にもたせたままでは駄目。あなたが受け取る必要がある」

「だから……!」

「見せてあげる」

 その瞬間、三善の視界はブラックアウトした。


***


 白い建物と白い瓦礫、それから白い灰の中にホセは立っていた。

 三善は今も彼という視点でそれを見ているが、先程のように身体の自由は全く利かなかった。まるで一本の映画を見ているような感覚で、どこかぼんやりとしていた。しかし、感じるもの、例えば太陽の熱さや肌に感じる砂っぽさ、唇の渇きなど、そういう五感に通じるものはほぼそのままだった。

 視線をゆっくり落とすと、今ホセが手にしているのは細い剣だった。白い聖職衣から覗く褐色の右手にそれは握られている。きらりと刃が光に反射して、あ、きれいだなと純粋にそう思ったのだった。

「どうして」

 口が動いた。声は震え、次の言葉を紡ぐのにさえ窮しているようだった。しかし、握った剣はしっかりと握られている。汗で少し、湿ったような感覚が残っている。

「どうして、よりによって“七つの大罪”に寝返ったのですか。ブラザー・トマス」

 そして彼はようやく真正面を向いたのだった。ホセの眼前には、先程まで一緒に紅茶を啜っていた男・トマスが立っていた。肩帯は外し、血で汚れた元々は白かったであろう聖職衣を身に纏っている。

 トマスは無表情で、じっとホセのアイボリーを見つめていた。しかし、それもすぐにやめてしまった。一度瞳を閉じ、胸の前で十字を切る。その行為は、彼がよく戦う前に行っていたものだった。

 神と聖霊と、そして今から天に召される新たな天使たちに対して。

 黙祷を。

 先に動いたのはホセだった。禁断の第一釈義『灰化』を起動させながら間合いを取り、その右手で彼に掴みかかる。

 しかしトマスは畏れる様子は微塵も見せず、逆にホセの右腕を掴んでにっこりと笑った。彼もまた、釈義『無効化』を起動しているのだ。

「っ」

 ホセの回し蹴りがトマスの腹部に命中する。鈍い衝撃の後、手にしていた剣をふりかぶった。

「『深層(significance)発動』!」

 刹那、トマスが放った金の閃光が爆ぜる。

 強い光に目がくらんだホセは、一瞬隙を見せた。当然その隙を見逃すはずがない。トマスはホセを引きよせ、その両手で彼を強く抱きしめたのだった。

「刺せよ」

 耳元でそう囁く声がする。喘ぐ息が耳にかかり、少しだけうるさかった。

「刺せよ、カークランド。そうすれば満足だろうが」

「――刺しますよ。でもその前に訊かなければならないことがある」

 ホセの右腕は剣を握ったまま、切っ先をトマスの背中へと向ける。つ、と刃を滑らせると、生地に引っかかる感触があった。

「あなたが管理していた『契約の箱』――どこにやったんですか」

 は、と息を吐き出した。まだ息が上がっている。互いの身体が釈義の巡りに包まれて異様な熱を放出する中、やっとのことでそう問いただしたのだった。汗が額から頬、そして顎まで流れると、ぽたりと落ちた。そしてそれは彼の首筋に落ちた。

「『契約の箱』を“七つの大罪”に持たせたところで、あれを操ることのできる者は現状『白髪の聖女』しかいないはずです。彼女は今、本部に監禁されて――」

「だからさ」

 トマスはそ、とホセの聖職衣に触れた。そしてゆっくりと手を入れ、ポケットに何か堅いものを入れた。

「これはお前が持って行け。俺はそれを使える者が現れた段階で、そいつごとかっさらってやる。せいぜい頑張るんだな、ブラザー」

「あなたはもう、兄弟ではないでしょう」

 ぐ、と刃を握る力が強まった。いけない、と三善は咄嗟に思う。しかし自分はなにもできない。ただ見ているしかできないのだ。

「さようなら」

 そして、右手に何か異様な感触と、生温かい飛沫が体中にしみて行ったのだった。

 赤い雨は全てを濡らし、生臭さと僅かな体温を残してゆく。ず、ず、ず、ず。ゆっくりと無表情でそれを抜いてゆく。

 抱きしめていたトマスの腕の力が弱まり、だらりと白い地面に横たわった。まだ息はあるらしい。焦点の合わない深い海の色をした瞳が、一瞬ホセを向いた。口元には、に、と気味の悪い笑みが浮かんでいる。

 刹那、どうしようもなく彼が憎らしくなった。どうしていつもこう、彼は損な役ばかり押しつけてくるのか。そんなにわたしを悪者にしたいのか。憎しみのあまりホセは一気に突き立てていた剣を引き抜いた。

 噴き出した血液。

 そして虫の息である彼の上に跨り首を絞める。オーバー・キルだということは分かっていた。だが、そうしたかった。なぜか手は止まらない。力は強くなる。

 しかし、あの男は苦しいはずなのに嗤って。

 そして言ったのだ。


『また会おう、戦友』


***


 暗闇の中で、人影を見た。

 三善はぼんやりとした視界の中、その人影を目線だけで追った。

「……本当に、よろしいのですか?」

 男の声だ。全く知らない声。これは誰だろう、と考えたとき、もうひとりが何かを言った。

「今はこうするしかないだろう」

 別の男の声がする。幾分か若い、凛凛しい声色だった。三善はどこかで、この声を聞いたことがあるような気がしていた。

「――承知いたしました。『契約の箱』は、本来の持ち主に渡しましょう」

 そこでようやく、視界がはっきりしてきた。

 暗い暗い、見たことがない教会の中。内陣に二人の男が立っていた。ひとりは背が高く、白い聖職衣を身に纏っている。あいにく、顔までは見えなかった。そしてもう一人は、黒い髪をした東洋人であることは理解できた。

「『契約の箱』はすなわち、聖ペテロの恩恵賜し釈義。適合する子供をふたり、私は知っている」

 東洋人の男が言った。そしてふと、振り返る。

 男の瞳は、どこか既視感のある青い色をしていた。


「まずは岩の子に授けましょう」

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