第三章 1
本部第十三番書庫。
帯刀から聞いたその場所に覚えがなかった三善は、机の引き出しから本部の間取り図を取り出した。それを広げ、書庫群のある場所に目を落とす。
本部にはいくつか資料室が存在するが、書庫は基本的に中央部の地下に置くことになっている。そのため、何らかの資料を用いた業務を行うのであれば、書庫に近い本部の資料室――この理由でケファは本部の資料室を使用することが多い――、もしくは司書に依頼し取り寄せるという方法をとるのだ。
書庫というからにはこの中に存在するのだろうと三善は考えたが、
「……十二番までしかないんだけど」
思わず独り言を呟いてしまうくらいには、三善の頭は呆然としていた。
間取り図上はどう考えても十二番書庫までしか存在しない。しかし、あの帯刀があると言うのだからあるのだ。つまり、なんらかの理由で隠されている可能性が高い。そしてその理由のひとつが、白髪の聖女なのではないか。
三善は宙を仰ぎながら思案し、ようやくひとつの結論に至った。
目標を達成するためには、手段を選んではいけないのだ、と。
***
「あれ、今日はこちらにいたんですか」
自室を出たところで、ホセに声をかけられた。
もともと北極星に籍を置く聖職者はそれほど多くなく、人通りは少ない。一応男性向けの宿舎であるからなのか、彼はマリアを連れておらず、ただひとりで廊下を歩いていた。
三善は淀んだ目をホセへ向ける。
――ごめん。
胸の内で小さく謝っておいた。そんな様子を見てホセは何を思ったのだろう。怪訝そうな表情で三善に近づいた。
「調子でも悪――っ」
ホセの言葉を遮り、三善は彼の腕を掴んだ。そしてそのまま自室に放り込み、錠を落とす。
完全に気を抜いていたホセは受け身すら取ることもできず、されるがままに引きずり込まれてしまっていた。
「ちょ、ヒメく……」
「ホセ」
慌てて口を開きかけたホセに、三善はぴしゃりと言い放つ。
「ちょっと眠ってくれる」
「は?」
目を剥いているホセの眼前には、三善の右手が広げられていた。
――数分後。
床に転がり、気を失っているホセを、三善は静かに見下ろしていた。
「ちょっとやりすぎちゃったかな……」
己の手をじっと見つめ、それから息をつく。
三善がやったことは極めて単純で、彼に対し『悪魔祓い』を仕掛けたという、ただそれだけだ。
昨日ノアからこれを教わった際、彼女が言っていたことを思い出す。
――悪魔祓いの能力は、使い方によっては対象の人物を催眠状態に陥らせることもできるわ。大量の聖気をぶつけることで相手を錯乱させるの。やりようによっては、自白剤みたいな使い方も可能よ。まあ、これは難しいからなかなか上手くいかないんだけど。
これを試しにやってみたところ、気持ちがいいくらいにうまくいってしまったのである。罪悪感が脳裏を過るが、今はこれをなかったことにした。ここで立ち止まってはいけない。そう思い込むことで、なんとか自分を納得させた。
彼の横に跪くと、三善はそっと囁く。
「――ホセ。ちょっと教えてほしいことがあるんだけど」
ぴくんとホセの瞼が震えた。しかし、彼は掠れた声を絞り出すのが精いっぱいのようだ。これで情報が得られるだろうか。不安になりながら、三善は言葉を続ける。
「第十三番書庫はどこ?」
ホセは無反応だった。
失敗したか。三善が小さく舌打ちした刹那、ホセの唇が微かに動いた。
「へい、か、じゅう……さん、かい」
へいかじゅうさんかい。――閉架十三階か。
三善は先ほど広げた間取り図へ目を向ける。そういえば、確かに本部の地下十三階の付近には何も書かれていない。建物の構造上地下への階層の方が深いはずなのに、だ。
「そこに僕は行ける?」
その問いには答えなかった。しかし、最低限の情報は得られた。
三善はふむ、と考え、ひとまずホセの頬を叩いてみる。
「ホセ、ちょっと」
のろのろと目をこじ開けたホセが三善の姿を捉えた。
「……、ヒメくん」
「いきなり倒れてどうしたの」
白々しい嘘である。
しかしホセはまだ夢心地でいるようで、ぼんやりとした表情で三善を見つめている。
「私は、いったい」
一度右手で顔を覆うと、ようやく目が覚めてきたらしい。じっと今までのことを思い返しているようで、不思議そうにぽつりと小さく呟いた。
「おかしいな、途中から記憶が……」
「突然倒れたから心配したよ。体調が悪いなら休んで行く?」
「ああ、いや、大丈夫です。少し疲れたのかもしれませんね」
最近ちゃんと寝ていないので、と苦笑交じりにホセは言う。体は資本だよ、と三善も真顔で返すものだから、ホセは疑う素振りもなく、ただ困ったように首を傾げた。
「ところで、こんなところに引き入れてどうしたんです?」
「ああ、えっと」
まさかすでに用は済んだと言えない三善である。「ちょっと部屋の鍵の調子がおかしくて」
「そうですか。修理を呼びましょうか?」
「そうだね、そうする」
手配が終わったらまた声をかけると約束し、ホセは三善の部屋を後にした。小さく手を振りながらそれを見送ると、三善はぐったりとその場に座り込んだ。
ひどく疲れてしまった。
慣れないことはするものではない。一応親代わりである人物にこんなことをするのはもうやめよう。微かに痛む胸元を左手で抑えると、喘鳴交じりに長く息を吐き出した。
その時だった。
座り込んだ三善の視界が、突如陰った。
「三善」
ケファだった。
三善は力なく顔を上げると、彼のアメジストにも似た澄んだ瞳を見やる。その目に微かに怒気が宿っていることに、三善はすぐに気が付いた。
さっと、血の気が引いた。
「あいつになんてことをしたんだ」
一番見られたくない相手に見られてしまっていたことに、三善は動揺し言葉を詰まらせる。いつから、と小さく尋ねると、ケファは短く「初めから」と答えた。
「そんな危ないことをせずとも、他にやり方はあったろう。お前らしくない」
怒鳴られることを想定としていた三善だったが、その予想に反してケファは始終穏やかな口調でいる。呆れられたのかとも思ったが、それとはどうも様子が違う。それに、と三善は思う。
――「はじめ」から見ていた?
その事実に、三善は漠然とした違和感を覚えた。
「お前に時間がないことは分かる。だからこそ、ちゃんとした手順を踏んでおかないと取り返しのつかないことになる。聡いお前なら分かるだろ」
このとき、三善は理解した。今のケファの言動は、何かひとつのストーリーによって成り立っている。ケファはたまたま三善を見ていたのではない。確実に、確信を持って三善を追っていたのだとも取れる。
つまりそれは、
「ケファは、どこまで知っているの」
三善の問いに、ケファは答えなかった。代わりに彼は長く息を吐きながら携帯を取り出す。
「どこまで、か。九割くらいだな」
三善が追求しようとしたその時、ケファは携帯を耳にあてた。その口からついて出たのは彼の母国語である。電話の相手が誰なのか、初め三善は分からなかった。しかし話すケファの様子をしばらく観察するうちに何となく相手に察しがついた。そうしている間もケファは大真面目な顔で何やら長ったらしく語っており、最後に一言だけ、
「Je ne peux pas vivre sans toi.」
と囁いた。
そして終話する。
「三善、三日後だ」
「え?」
「三日後に総会があるだろ。その時にお偉いさんは揃って大聖堂に移動する。その時なら、お前が行きたい場所に行ける。だから少し待ちなさい」
全てを察しているような口ぶりに三善は戸惑いを隠せなかった。しかし、彼が言うならその通りなのだろう。
わかった、と三善は観念したように頷いた。
「ところで、今のホセだよね。何を話していたの?」
「……俺の自尊心と引き換えに交渉しただけだ」
その内容については深く語ろうとしなかったが、とんでもないものを代償にしたらしいということを三善は理解した。
***
三日後。
彼らは指定の場所へ向かうべく、本部の地下を練り歩いていた。
ホセの予想は概ね当たっており、大半の聖職者は大聖堂へ向かってしまったため、広い本部の中はいつもより人通りが少なく、がらんとしている。
――あのあと、三善はケファと何時間も納得がいくまで話した。
三善が『白髪の聖女』のことを気にしはじめるよりずっと前から、ケファは密かに調査を進めていたこと。いずれ三善も同じ答えにたどり着くだろうと踏んでいたら、ホセに対し強行突破を仕掛けたので慌てて牽制したこと。
――まさかあんなことをするとは思ってなかった。それ以上に、ホセがあんな手に引っかかる間抜けだということにも心底驚いた。
ケファは淡々とそんなことを言っていたが、三善は心のどこかで違和感を覚えていた。まだ、ケファは何かを隠しているような気がしてならない。しかし、いくら誘導してもケファはその違和感の正体を三善に伝えようとはしなかった。
それでも、互いの認識を合わせるには十分だ。
三善の生い立ちを知ること、そして今後の延命方法を考えるのであれば、白髪の聖女と接触することは避けて通れない道だということ。この見解だけは一致していたので、三善はほんの少し安心していた。
それにしても、と三善は思う。
ケファがなにかとんでもないことを考えていることだけは分かるのだが、それが何か見当もつかない。変なことに片足突っ込んでなければいいのだが。
そうしているうちに目的地にたどり着いた。
本部資料室閉架十三階。三善とケファは、眼前に広がるばかでかい扉を目の当たりにし思わずぽかんと口を開け放っていた。
鉄のような材質でできたその扉は非常に立派な造りをしており、いかにもこの奥に大事なものが眠っていると言わんばかりの代物である。軽くノックしてみると、その分厚さのせいか小さく反響した音が響くだけで、動く気配はない。
「開け方は知っているのか」
ケファの問いに、三善は首を縦に動かした。
帯刀いわく、『釈義』が鍵の役割を果たしているとのことだ。それならば合点がいく。『釈義』には個々が持つ独自の特性がある。これを鍵としているならば、それだけでどのような人物なのか証明できるということだ。
「……ケファ」
三善はゆっくりと呟くように言った。「いってきます」
「ああ。ここで待っている」
その一言だけで、安心して『釈義』を使うことができる。三善は微かに痛む胸の痛みをこらえ、そっと両手で扉に触れた。
「――『釈義(exegesis)展開』」
刹那、三善の思考はぷっつりと、途絶えた。