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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第二章 2

 意外と拠点が遠方にあるということで、この日もまた近場のホテルに宿泊することになった帯刀一行である。

 自室のベッドで横になる帯刀は、その青い瞳を天井へと向け小さく息をついた。時刻は午前零時。しかし睡魔はなかなかやってきそうになかった。仕方なくベッド脇のランプを灯し考え事を始めた訳だが、まるで深い沼にずぶずぶと足を突っ込んでいくかのように思考が淀んでいくのを感じる。

 しかしながら、慶馬の『楔』についてそれなりの手立てがついたことが泥沼化する思考の中で唯一の希望だった。帯刀が何よりも気にかけていたのがこの件だったため、それが片付くというだけで気持ちが舞い上がりそうになる。

 それは一旦置いておくとして、今の帯刀には決めなくてはならないことが山のようにあった。

 まずはトマスと約束している『契約の箱』と『白髪の聖女』の所在に対する対価。本当はこれに対して慶馬の『楔』を宛がおうとしたのだが、思わぬところでそれが実現しそうになっている。ならば“七つの大罪”に要求できる事柄の中で一番利益のあることを引き合いに出さねばなるまい。

 それと、昼間の三善の電話のことだ。おそらく明日の早い時間に三善の元に携帯電話が届くだろうから、何を聞かれるかを予想しておく必要がある。ぼんやりと予想しているのは、“七つの大罪”についての何らかの情報だ。数か月前の“嫉妬”戦以降、三善は上の空でいることがいつも以上に増えた気がする。あの日のことを誰にも話したがらない三善の態度に対し、帯刀は日に日に疑いの思いが膨れ上がっていた。一体彼に何を吹き込まれたのか。それがもし、『契約の箱』や『白髪の聖女』のことだったならば。

 帯刀は額に手をやり、微かに唸り声を上げた。

 大体にして、不可解なことが多すぎるのだ。『聖戦』が起こる前はもう少し分かりやすかった気がするのに、あのあたりから事態がより深刻化している。そして、何度調査してもあのあたりの出来事は「事象が記憶に残りにくい」。単に記憶力の問題のような気がするので、こればかりははっきりとしたことは言えないのだが。

「そういえば」

 帯刀はふとトマスの言葉を思い出す。

 ――今、カークランドのhunが、天使も踏むを恐れるところに片足突っ込んでいる。

 あの後じっくり考えてみて、おそらくそれがケファ・ストルメントのことではないかと結論を出した訳だが、なぜそれをあの男が知っているのだろう。確かにケファならば、凡人には理解できない頭の作りをしているため、何かとんでもないことに気づきそうな気はするが。

 一体この世界では何が起こっているのだろう。

 帯刀はベッドから起き上がり、飲み物を買いに部屋を出た。

 自販機は二階にある。しんと静まり返る廊下を歩き、エレベーターのボタンを押す。数字を照らす橙色のランプが、最上階から徐々に降りてくる。チン、と情けない音を立て、扉が開いた。

「――えっ」

 乗り込もうとした刹那、帯刀は思わず変な声を漏らしてしまった。

 扉の向こうにいた人物もまた、驚き目を瞠っている。互いが互いに対し、「何故ここに」と思っていることが丸わかりだ。

「ブラザー・ケファ?」

 そこにいたのはケファだった。いつもの聖職衣ではなくラフな私服姿でおり、髪も降ろした状態でいる。彼にしては驚くほどに気を抜いた格好であることは明白だ。そう考えている帯刀もホテル備付けの浴衣姿なので、まったくもって人のことは何も言えないのだが。

「お、おう。久しぶり」

「久しぶり、妙なところで会ったな」

 帯刀はエレベーターに乗り込むと、二階のボタンを押す。

 この奇妙に絶妙な場のぎこちなさをどうにかしたい一心で、帯刀はケファにそっと問いかける。

「珍しいな、泊まり?」

 ケファは頷いた。

「ああ。明日の朝には本部に戻るけど」

 その反応から、おそらく“大罪”の対処のためにここまでやってきたはいいが、本部に戻るには距離があるため一泊することに決めた、という感じだろうか。プロフェットもなかなかに難儀な職業である。

 三階に到着した。エレベーターは停止し、「それじゃあ」とケファが降りていった。

 帯刀はその背中を見送りつつ、扉を閉じるボタンを押す。

「――」

 が、帯刀はすぐに扉を開くボタンを連打し、一度閉じかけた扉をこじ開けようとする。

 帯刀の勘が、「彼を見逃してはいけない」と言っていた。野次馬根性丸出しのような気もするが、こういうときの自分の勘は大体当たる。最終的に信じるべきは自分自身と日頃考えている帯刀、ひとまずケファが今プライベートの時間であるということを忘却することにした。

 一度閉まりかけた扉がようやく開いた。帯刀は急ぎ足でフロアに出たが、既にそこにはケファの姿はない。ただしんと静まり返る夜闇がそこにあるだけだ。暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる非常灯が、青白く廊下を照らす。

「……っ」

 思わず髪をかきむしると、帯刀は小さく息をついた。

 ――今彼を捕まえたところで、一体なにを言おうと言うのだ。どのみち彼の性格上、突っ込んだことを聞けば口を噤むに決まっている。

 我ながらばかげたことをしたと思い直し踵を返すと、少し離れたところから扉が開く音がした。帯刀ははっとし、思わずエレベーターホールの死角に身を隠した。

 ぼそぼそとした男女の声が聞こえてくる。

「……それじゃあ、ジェイ。今日もありがとうございました。次は三日後くらいにしておきますか」

「うん、それくらいでいいよ。それより彼、大丈夫かな」

 どちらも聞き覚えのある声だ。ホセ・カークランドと科学研所属のジェイ・ティアシェ。彼女とは別件で話したことがあるため、帯刀とは顔見知りである。反射的に身を隠しておいて正解だった。帯刀は聞き耳を立てながら、じっと息を殺す。

「体はね、まあ、じっくり数年かけて治せば影響はないんだけど。あの子の釈義は先天性でしょう? 今まで当たり前だと思っていた能力が使えなくなることで、多少なりとも精神的なダメージがあると思うんだ。彼が見ている子……ええと、姫良三善だっけ。その子のために釈義を失いたくないと今は言っているけれど、彼が『喪失者ルーウィン』になるのは時間の問題。傷が浅いうちに、きちんと手を打っておいた方がいい」

「……そうですね。なるべくフォローはします」

「それがいいと思うよ。君たち、仲良しでしょ」

「それは否定します。私個人としては可能な限り仲良くしておきたいのですが」

 帯刀はその会話の内容から、ようやくひとつの結論に達した。

 何故こんなところに彼らがいるのか。ケファやホセだけでなく、よりによってジェイまでいるというその理由に帯刀は心当たりがあった。彼らはプロフェットの職務を全うしている訳ではなかった。むしろ、ひとつの事実を必死になって隠蔽しようとしている。

 扉が閉まる音がして、廊下がしんと静寂に包まれる。帯刀はそっと立ち上がり、ゆっくりと息を吐き出した。

「ブラザー・ケファが『喪失者』……そうか」


***


 その後帯刀は予定通り二階の自販機でソーダを購入し、ボトルを片手に部屋に戻った。エレベーターを降りたところで、こちらもまたそこそこ気の抜けた格好をしている慶馬に出くわす。

 慶馬はエレベーターから帯刀が現れるとは思っていなかったようで、微かに驚いた表情を浮かべつつそっと掠れた声で尋ねた。

「眠れないのですか?」

 帯刀は小さく頷く。今はとてもじゃないが眠りにつけそうになかった。先ほどの事実がまだ脳裏を過り、そのたびに脳細胞が覚醒していく。今夜はほとんど眠れやしないだろう。

「慶馬も眠れない?」

「ええ、まあ」

 気まずそうに慶馬は目を逸らした。そういえばこの男、慣れない布団ではあまり熟睡できない性質である。心臓に毛が生えているかと思いきや、妙なところで繊細である。

 帯刀は少し考えて、声のトーンをさらに落として言う。

「慶馬、少し話さないか」

「はい」

 帯刀は自室に慶馬を招き入れ、静かに戸を閉めた。慶馬がベッド脇の椅子に腰掛けたので、それと向かい合うようにして帯刀はベッドに座る。

 ソーダの栓を開けながら、帯刀は言った。

「悪いな、長く運転させて」

「いえ、あれは不可抗力なので」

 慶馬はさっぱりとした口調で返す。「それよりも俺は雪を一人で行かせることのほうが嫌ですね」

「ああ……うん」

 そう言うだろうと思った。期待を裏切らない発言に、帯刀は肩を落とした。一度くらい期待を裏切ることを言ってみればいいのに。

「きっと慶馬のことだから、今回のことは全体的に嫌なんだろうと思っていたけど」

「ええと、雪。それはちょっと違う」

 予想外の一言に、帯刀はその真意を尋ねた。

「俺はこの件についてはこれでいいんじゃないかと思っています。少なくとも、大司教補佐の元に付くよりはよっぽど核心に近づけるかと。俺が嫌なのは、あなたに置いて行かれることだけ」

 慶馬はさらに付け加える。「あなたはこの件においては観測者にあたると思っています。『契約の箱』も『白髪の聖女』も、結局突き詰めていけば全てエクレシアに通じます。我々はこの世界で何が起こっているかを考証する責務がある」

 帯刀はソーダを煽り、弾ける舌触りを感じながら慶馬の言葉を噛み締める。彼のその言い分は基本的に同意だった。

「おそらく、あなたが気にしているのは壬生みぶ様のことだと思いますが」

「親父殿の? ……ああ、うん。そうだな」

 へへ、とむなしい半笑いを浮かべつつ、帯刀は天井を仰いだ。真っ黒に塗りつぶされた天井は深い闇によく似ていた。先が全く読めない。これで合っているのか、判断がつかない。それでもこちらに主導権がある以上、まだ手は打てるはずだ。そんな僅かな期待にすがり、ここまできた。トマスが自ら接触を量ってきたのは全くの想定外だったが。少なくとも前進はしている。それだけが救いだ。

「慶馬、ちょっと思い出したんだけど、お前はうちの家訓を知っているよな」

 帯刀が唐突に切り出した。きょとんとした表情で慶馬は彼の蒼い瞳を見つめたが、すぐにそれに対する解を口にする。

「ええと。一・帯刀家はどこにも属さない永久中立の立場である。二・当主の決定は絶対である」

「三番目は?」

 そこでぴたりと慶馬の口が止まる。

 しばらくそのまま何かを思案していたようで、視線がじっと足元に向けられている。そんなまさか、という呟きも含め、彼の思考では今、何か別の事象が組み立てられている。

「……『契約の箱』は、不可侵である」

「正解。三番目は俺と慶馬だけに聞かされたんだよな、確か」

 そう、これらは全て帯刀が当主になると決まった時に壬生から説明されたことだった。詳細までは教えられなかったが、ただひとつ彼が言い放った言葉がある。

 ――『契約の箱』に関わったら最後、お前は逃れられなくなる。

 何に、とは言わなかった。

 しかし、壬生がそういうときに意味のない言葉を吐くとは思わない。必ず意味があり、そして事態が手のつけられないことになったときに呪いとなって降りかかりるだろう。そういった意味で、彼の言葉は呪いのようだった。

「その『契約の箱』という言葉が、何故うちの家訓に記されているのだろうな」

 しんとした静寂が部屋を包み込み、ぞっとする寒さが背筋を這う。それでようやく帯刀も慶馬も頭の芯が冷え、多少冷静な言葉の組み立てを行うことが出来たらしい。

「親父殿は、なにか『契約の箱』について隠しているのだろう。秋子姉や春風はるか姉も知らないことが」

「……それを探るのが真の目的なんですね?」

「あー、最優先事項はお前の楔を抜く方法だから。まあ、それもおおよそ手立てが付きそうだし、少し寄り道をしてもいいだろう。利用できるものは何でも使うべきだ。俺達は手段を選んでいる場合じゃない」

 そうだ。少なくとも『契約の箱』に関することだけは手段を選んでいる場合ではない。帯刀はそっと瞼を閉じ、これからのことをゆっくりと慶馬へ伝えた。

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