第一章 4
講義室を出ようとしたところで、窓際の方でざわりとどよめきの声があがっていた。
少女は開きかけた扉を一旦閉め、何事だろうかと首を傾げた。そもそも寄宿校というかなり特殊な閉鎖空間だから、生徒たちは外の話題に興味津々なのだ。きっとそういう、野次馬根性丸だしなのだろうと、少女は結論付けた。
「やっぱり、あれって本物だよね」
「学長が連れて歩いているのって……ひとり、子供が混ざってるし」
「子供って神父になれるの?」
少女はそのたったひとつの言葉に身体を震わせた。神父、の一言に。
いやまさか、と彼女は思う。そんなはずはない、だって私は、『あのひと』の言う通りにやっただけだ。これでは話が違うではないか。『あのひと』は確かに、決して誰にも気づかれることなどない、と言っていた。
彼女はさりげなく窓辺に近づいて、外の様子を探った。もう大分遠くにいるためかろうじて見える程度だが、確かに四辻学長と二人の神父が歩いている。どちらも汚い身なりをしており、大人と子供というかなり妙な組み合わせだ。
その中で、少女はふと思い出す。
初めの頃、『あのひと』が言っていた。白と黒の二色を用いた聖職者に気をつけろ、と。奴らは君の願いをぶち壊しに来た「悪魔」なのだから。
微かに見える二人組の出で立ちは、――確かに、二色の聖職衣だ。途端に、彼女の血の気はさあっと引いていった。動揺して、思わず口元に手を当ててしまう。
「どうしたの? 顔色悪いよ」
別の生徒に話しかけられ、彼女は慌てて表情を取り繕う。そうだ、他の誰にも知られてはなるまい。これは『あのひと』との、血の盟約なのだから。
――だから絶対、私のせいなんかじゃない。
***
三善・ケファ両名は、宿泊場所として男子寮である『大鷲寮』の空き部屋を借りることとなった。そこで一旦着替えを済ませ、食事の前に昨夜火災があったとされる納屋に向かう。
「で、ここが問題の納屋か」
それは体育棟の側に建てられた小さな鉄筋小屋で、四辻曰く体育倉庫にしまいきれない外での部活に用いる備品や掃除用具が収納されていたそうだ。だが、今はその原型を留めていなかった。壁は黒く焦げ落ち、備品もすっかり瓦礫に混ざり他のものと区別がつかなくなっている。話によると、先程まで警察の実地検分がなされていたそうだ。その名残として、立入り禁止を示す黄色のテープが張られていた。
「こりゃあまた、随分派手に燃えたんだなぁ」
ケファが呆れた様子でテープの周りを歩き出した。長さは、燃え残った骨組みと己の歩数で換算する。一つの壁につき十三歩。ケファの歩幅がおおよそ五十センチメートルなので、六メートル半程度の長さがあるようだ。
この納屋は比較的見晴らしのいいところにあり、それこそ体育棟に面した部分を覗けば、学生寮からも、高等部本館からも、校庭側からもはっきりとその所在を把握できる。
歩きながらじっと観察してみたが、特段変わった形跡はない。少なくとも、“七つの大罪”が関わったような気配は微塵も感じられなかった。
「どうよ、ヒメ」
三善は曖昧に首を縦に動かした。
「僕には、ただ燃えたようにしか見えないんだけど……。ねぇ、ケファ。あれって普通なの?」
彼が指差した方向に、ケファは「ん?」と目をやる。そちらには、辛うじて残った蛇口があった。本来は校庭の水撒きのために使われるだろうその蛇口、どうも三善はそれが気になって仕方がないらしい。
「うーん……位置は微妙だが、まあ普通じゃないか? 日本の学校の標準装備と言っていいだろうな」
「じゃあやっぱり、これも水辺の火災なんだね」
三善の言葉に、ケファはひとつ頷いた。確かに、先に報告があった通りだ。しかし彼らが実際に現場を見たのは「これ」だけだ。見方によっては本当にただの放火で、蛇口はたまたま近くにあっただけとも考えられる。
「これだけじゃあ、分からないな。昨夜の話となると、“七つの大罪”独特の気配も消えてしまっているのが普通だ。もしかしたら、同業者かもしれないけどさ」
「同業者?」
三善がきょとんとして首を傾げたが、それについてケファはむやみに返答しようとはしなかった。ただひとつだけ、
「勉強不足」
と言ったきり、かたく口を閉ざしてしまったのだった。
「むぅ」
彼のそんな態度に、三善はすっかり機嫌を損ねてしまったらしい。ただでさえ、数時間前の神学ショックが後をひいているのだ。露骨に眉間に皺をよせ、「もういいよ」とそっぽを向いてしまった。これから食事を兼ねて、生徒たちに姿をお披露目だというのに。そんな不機嫌丸出しの顔のまま出席されても困る。
ケファはほんの少し考えて、
「あー、悪かったよ。うん、ごめんごめん」
「ごめんで済むなら警察も神様も必要ないもん」
「ごもっともです、ハイ」
なんでこんなにご機嫌取りをしなくてはならないのか甚だ疑問だが、まあいい。ここに、最終兵器があるのだ。腰辺りについているポケットから、ケファは一つだけなにかを取り出し、三善の目の前にちらつかせてみた。
紛うことなき、飴(棒付き)。先程警備員室からかっぱらってきたものだ。
それが視界に入るや否や、三善の紅い瞳がきらっと輝いた。しかも、彼が一番好きなイチゴ味だ。
「やるよ」
「お、おおう……」
もらっていいんですか、と三善はいかにも「畏れ多い」と言わんばかりの反応を見せたが、突然我に返り、
「い、いや! こんな手に騙されないぞっ」
「あーそう。じゃあ俺が食っちゃお」
ちらりと横目で観察すると、本人は眉を下げ、非常に残念そうな素振りを見せていた。がっかり、の一言が顔にはっきりと書いてある。……そんなに欲しいなら無理するんじゃねぇよ。
可笑しさ半分呆れ半分で、飴を三善の手に握らせた。それでようやく機嫌を直してもらえたようなので、内心ほっとしながらケファは宙を仰いだ。視線の先には、礼拝堂の頂上につりさげられたベル。次第にそれが揺れ始め、重厚な音色を奏で始めた。
――七回の鐘の音。
時刻は、十九時を回っていた。
***
三善が聖典の一部を読み上げる。
揺らめく蝋燭の炎がほんのりと赤く各々の頬と瞳を照らす。鮮やかな光彩を放つであろうステンド・グラスは、今はその蝋燭の光を反射しているだけであったが、それでも充分に美しいと感じられた。神秘的な光に包まれて、今ここに信仰が宿る。
静かに、ぱたん、と本が閉じられる。のちに室内の明かりが点き、蝋燭の火はばらばらに消されてゆく。……溶けた蝋から立ち上る白い煙が、ゆったりと立ち昇っていった。
三善は静かに一礼し、その場に着席する。そして、手にしていた本――聖典を膝の上に置き、黒の革張りの表紙を優しく撫でた。
一応挨拶代わりに、ということで一節読んだ訳だが、三善は若干緊張していたようで、仕草にそれが表れていた。心を落ちつけるためだろうか、机に隠されて見えないところでこっそりと表紙の金文字を人差し指でなぞっていた。
その横で、ケファが補足するために簡単な説教をしていたが、三善の耳には全く入っていなかった。あとで怒られるとは思うが、どうも頭の中がぼんやりしている。お腹が空いているからだろうか、三善はそんなことを考えた。
「――それでは、これ以上話していてはせっかくの料理が台無しになりますので、ここまでとしましょう」
そのように締めて、ケファも着席する。数秒後、足先で何やら突かれたので、やはり彼には話を聞いていなかったことがすっかりばれていたようだ。
神への賛美を込めて、穏やかに、そして厳かに祈りを捧げる句を述べる。静かなる黙祷。そしてようやく、晩餐が始まるのだった。
男子・女子寮を繋ぐように建てられたこの場所は、全ての生徒が食事できるように設計されているため、非常にひろびろとした内装となっている。四辻曰く、自分たちから見て右から一年、二年、三年と席順が決まっており、特段の事情がなければこの場所で食事するのが基本だという。
三善はフォークを取り、野菜を少しずつ口に運んでいた。彼ら聖職者は四足の動物は食べてはならない。したがって、本日は生徒たちとは別メニューの半ば精進料理のようなものを食べていた。まあ彼に至っては、普段からたくさん食べない主義なので同じ年頃の子供に比べたら質素なもので充分過ぎるくらいなのだけれども。
少し食べたところで、三善は早くも満足してきたらしい。何せ、品数が多い。気持ちの方が一気に飽和状態に達してしまい、「これ、こんなに食べられるかなぁ……」といった心境に陥っていたのだった。
「……ブラザー・ミヨシ」
こそ、とケファが口を開いた。まるで囁くような口調で、他の人には聞こえないよう充分配慮した声色である。
三善が横目でケファを見る。彼は表情を変えずに、ひたすら野菜を咀嚼していた。
なに? と同じトーンで聞き返すと、ケファはつい、と顎を動かした。窓を指している。ふと三善がそちらに向けると、紅い瞳の先には夜色の空が広がっていた。それ以外に、なにも変わった様子はない。せいぜい、明かりが少ないため都会と違って星が良く見えるというくらいか。
ケファが言わんとすることを理解できなかったので、三善は一旦フォークを置き、改めて窓へと目線を送った。……やはり、これといったことは思い当たらない。
だが、その時ようやく三善はなにかを感じ取った。
臭い、とでも言うべきだろうか。まるでなにかが背筋を這っていくかのような、とてつもなく気持ち悪い気配を感じる。その気配には心当たりがあった。今日も一度対峙している、大聖教とは決して相容れない存在の。
「――“七つの大罪”?」
唐突にケファがフォークを置いた。
それに気がついて、三善は再び目線をケファへと移す。彼の表情は、それまで浮かべていた慈愛に満ち溢れた穏やかな表情などではなかった。代わりに、鋭いナイフの切っ先のような、冷たい瞳で窓の外をじっと見つめていた。相変わらず、外は暗闇に包囲されている。仄暗く光るのは、あちこちに点在している街灯か。
「四辻学長」
ケファは、おもむろに右隣りに座っていた四辻に話しかけた。この時にはすでに穏やかな表情に戻り、何事もなかったかのような表情を見せている。
「はい、どうなさいました?」
「今、この場所にはどれくらいの生徒さんがいらっしゃるのでしょう?」
突拍子もない質問に四辻は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに元に戻り、落ち着いた口調で返答する。
「ええと、高等部全学年の、およそ六〇〇名です。体調不良を理由に欠席している生徒もおりますが――」「なるほど。分かりました」
それでは、とケファが立ち上がった。三善もそれを合図に立ち上がると、小さく己の祝詞を上げた。
――釈義展開。
ほんのりと巡る独特の熱が、次第に昂ってゆくのが分かる。三善はその赤の瞳を窓の外へと向け、左手の手袋をおもむろに外していった。
「ちょっと食事の邪魔が……入りそうですね」
刹那、講堂の窓ガラスが一斉に吹き飛んだ。
生徒の悲鳴が耳を劈く。ばらばらと破片が雨のように降り注ぎ、同時に磨き上げられた白い床が赤い染みによってみるみるうちに侵食されてゆく。
「『深層(significance)発動』!」
三善が哮る。かざした左手から白い閃光がほとばしり、講堂を覆い尽くした。会場全体を覆う銀色の薄い膜が突如として現れ、降り注ぐガラス片から彼らの身を守っている。
「ヒメ、」
ケファが岩塩を口に放り込みながら肩を叩く。「その“壁”、五分……いや、三分でいいから継続してくれないか。念のため」
「対価はお互い山のようにある。三分と言わず、十分くらいでどう?」
「助かる」
がり、と噛んだ岩塩の塊。強い塩分に顔をしかめながら、ケファは割れた窓からその身を投じる。宙に投げ出された体は、重力に従って落下を始めた。
「『深層(significance)発動』!」
その時、ケファの背には真っ白な翼が構築された。塩の破片が風に舞い、そして灰になって宙へと消えた。彼の身体は途端に鳥のように軽やかに夜空を漂い始める。
藍色の空の中に、“あれ”はいるはずなのだ。そしてそれが、今回の発火事件の鍵を握っているのかもしれない。否、それよりも、もっと重要なことがある。
せめて一般の子供を巻き込まないでほしかった。それだけ、だ。
「“七つの大罪”……!」