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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第二章 1

 夜は適当なビジネスホテルを借りて過ごした。

 帯刀が目を覚ますと、既に日は大分高い所まで昇っており、白っぽい青空がきらきらと輝いていた。昨夜はやはり雪が降ったらしく、まだコンクリートの道路は湿っている。窓を開けると、キンと冷え込んだ風が身体を冷やした。しばらくぼんやりと窓辺から覗きこむようにして外を観察していたが、飽きてしまったのだろう。帯刀は窓を閉め、おもむろに着替えを始めた。

 慶馬が夜のうちに用意していたらしい新品のシャツに袖を通すと、プレスが効いた黒のスラックスを履く。青色のタイを締め、カフスで袖口を留めると帯刀の表情はすっかり仕事用のそれになる。

 靴下を履きながら備え付けのテレビを点けると、同時にドアをノックする音が聞こえてくる。

「開いている」

 短く返事すると、扉はゆっくりと開いた。

 顔を覗かせたのは、意外なことにトマスだった。まだ寝起きのままらしく、白金の髪はぼさぼさで、ホテル備え付けの浴衣に羽織を纏ったままである。既に準備の大半を終えている帯刀を見て多少は反省したのだろう、「悪ぃな、まだ起きたばかりだ」と自分の現状を告げた。

「ん、気にするな。俺が着替えたいだけだ。……慶馬は?」

「もう起きて、どっかに行ったみたいだぜ」

「ふぅん。まあ、いいか」

 火の付いていない煙草をくわえ気さくに笑うトマスを横目に、帯刀はだらだらと流れるニュース番組をじっと見つめていた。ただ無言で、口元に手を当てながら何かを考えている素振りでいる。ここまで朝のニュース番組をじっとりと凝視する人間はなかなかいないだろう。なんとも不思議な光景だった。

「そういうのもいちいち覚えるのか?」

「いや、別に覚える気はない。ただの引き出し運動の練習だから、気にしないで」

「引き出し?」

「俺の記憶は全部脳の引き出しに入っている。それを上手に開けられないと話にならない」

 なかなかに複雑な比喩を使うものだから、トマスはかえって混乱してしまった。暫しの逡巡ののち、それはそういうものだと言い聞かせることにする。

「こうして話していても大丈夫なのか?」

「問題ない。続けて」

 ただ朝の雑談をしにトマスがやってきた訳ではないということに、早くも帯刀は気づいていたようだ。こりゃあやられた、とトマスは苦笑し、それから本題に移ろうとする。

「ちょっと相談なんだけど、お前、俺たちの仲間に会ってみる気はある?」

「仲間、というと、“七つの大罪”か?」

「そう」

 帯刀が微かに眉間に皺を寄せた。その目は未だにテレビに向けられたままだが、明らかに先ほどとは雰囲気が異なる。何やら考え込んでいるようにも見えたので、トマスはその真意を伝えるべく口を開いた。

「俺はユキから『契約の箱』の所在を聞き出せればいいし、ユキだってそれと等しいだけの対価を求めればそれで足りるだろ。しかし、だ。俺はそれとは別に、お前さんにちょっと意見を聞きたいことがある。そのためには“七つの大罪”に会って話を聞いてもらうべきと考えている」

「意見?」

「ああ。ユキは一応聖職者、ということでいいんだよな。神学は勉強した?」

 帯刀の隣にトマスが腰掛けると、ようやく帯刀はテレビの電源を落とした。そして、その薄氷の瞳をそっとトマスへと向ける。その目に浮かぶは困惑だ。

「少しは勉強したけど、あまり得意じゃないな。そういうことは、ブラザー・ケファあたりに尋ねるのが良いのでは? あの人は博士号を持っているだろ」

「一口に神学と言っても分野があるからその辺は正直分からんが、まあいいや。大聖教における時間の概念については分かる?」

 帯刀は少し考え、ぽつりと呟いた。

「大聖教においては、直線的時間、だったか」

「そう、それだ」

 直線的時間というのは、「過去から未来へと流れる」時間という考え方のことを指す。時間は有限であるから、始まりと終わりがある。唯一神だけは無限の時間を持っており、その神が初めと終わりを決めている、というような内容である。帯刀はそのあたりまでは数直線を頭で描きながらなんとなく理解したような覚えがあったが、正直専門範囲外の話なのであまり詳しいことは分からなかった。

「その心は?」

「“七つの大罪”は少し変わっていて、その直線的時間、というやつを認識できる――と言ったら、信じる?」

「は?」

 帯刀はトマスが何を言っているのか全く理解できず、つい間の抜けた声を上げてしまった。

「悪い、言っている意味が分からない」

「うん、だから百聞は一見に如かずと思って、“七つの大罪”と少しお話してもらいたいんだ。それを聞いて、ユキがどう思うかを知りたい。可能だろうか」

 相変わらず軽い口調で話すトマスだったが、帯刀の『青の瞳』には彼が嘘をついているようにも見えなかった。

 時間を認識できる、というのは一体どういうことだ。そして、それを今このタイミングで暴露するというその理由も帯刀には分からない。ただひとつ言えるのは、それを聞いてしまえば最後、帯刀雪という男は大聖教にも“七つの大罪”にも従わない永久中立の立ち位置になるしかない、ということだけである。

 元々帯刀家は特定の団体に所属しない中立の立場を貫き通していたのだから、本来あるべき姿に戻るだけなのだが。しかし、そうなると困ることがいくつかある。

 帯刀は順番に思考を巡らせ、よくよく考えた末に、ひとつの結論を出した。

「分かった。是非会わせてほしい」

 ただ、と帯刀は続ける。「そうなると、お前の要求はふたつになり、対価が対等でなくなる。だから俺はそれに対する対価を提示する。俺の要求は『美袋慶馬の“楔”を外す手立てを教えろ』。これが可能ならそちらの要求を呑む」

「昨日も言ったが、それは十分に可能だ。やっぱユキは聡いな。おーけー、その条件に乗った」

 そう来ると思ったぜ、とトマスは笑い、帯刀の背を強く叩いた。さすがの帯刀もこれには驚いたらしく、不満の目をトマスへと向けた。

 空色の瞳にぼんやりと浮かぶ、白の十字。聖痕がトマスの深海の瞳を射る。自分の姿はあまり見えていないのではないかと思うのだが、どうしてだろう。その鋭い視線がこちらの感情を捉えて離さない。この人になら、何でも話せるような気がしてならない。そういう気持ちにさせる何かが、彼の視線に宿っているのだ。

 トマスはふ、と笑うと、少しだけ近づいて帯刀の瞳を見る。人のことは言えないが、彼は変わった瞳の色をしている。確か彼は生粋の日本人だったと思うのだが。どうしてこういう色が出るのだろうかとさらに首を傾げる。

「近すぎ。お前たちは何でそう、ベタベタしてくるんだ」

 さすがに近づきすぎたらしく、帯刀に露骨に嫌そうな顔をされた。そういえば大分昔、まだ一度も“死んで”いなかった頃、ホセにも同じことを言われた気がする。近すぎる、と。

 本人はそんなに近いつもりはないのだが、嫌そうにされたのなら仕方ない。きれいだからもうちょっと見たかったんだけどなあ、としぶしぶ離れた。

「今ここに慶馬がいたら刺されていたぞ」

「ああ、またあれに殺されるのはちょっとなあ。痛いし」

 じゃあ刺される前に退散しますよ、とトマスは一旦自室へ戻ろうとし、部屋の戸を開けた。

 帯刀はぽつりと呟く。

「たぶんそれ、フラグ」

「あ」

 そこに立っていたのは、噂の美袋慶馬だったのは言うまでもない。


***


「まったく、ちょっと出かけるとあなたたちは。仲良しも結構ですが、ほどほどにしてください」

 ぶつぶつ文句を言いながら車のハンドルを切る慶馬に、再び死にかけたトマスが助手席から方向指示を出す。

「次の信号を、右」

 理不尽な殺人にさすがのトマスは激怒した。帯刀が仲裁に入ったため大事には至らなかったものの、そう何回も半殺しにされるのはいくら不死身でも辛い。本来はトマス自身が運転するつもりだったのだが、その一件のおかげでハンドルを握る体力が残っていなかった。

 よって慶馬に車のキーを渡すことになった訳だが、トマスは「お前と話す気はない」と言いたげな表情を浮かべており、最低限道順を示す程度にしか口を開かなかった。

 その間、帯刀は後部座席で慶馬が購入しておいた今朝の朝刊に目を通している。

「なあ、トマス」

 突然帯刀が口を開いた。

「なんだ?」

「この聖職者を襲う殺人鬼って、“七つの大罪”と何か関係ある?」

 帯刀が読んでいた記事は、どうやら件の聖職者を襲う連続殺人にまつわるものらしい。トマスは暫し口を閉ざしたのち、穏やかな口調で確認する。

「どうしてそんなことを聞くんだい? あ、次まっすぐね」

「傷口」

 ぴたりと、帯刀が鋭い口調で言いきった。うるさいくらいに話していたはずのトマスが突然黙りこみ、横目で帯刀の次の言葉を待っているようだった。慶馬すら黙り込み、隣の男の出方をうかがっているらしい。

「大きな刃物で一太刀。これ、“憤怒”ならできるだろ?」

「……それで?」

「こちらの耳に入っているのは、傷口がそこだけきれいに“溶けている”――身体を構成する物質の結合力が瞬時に弱まり、そこだけ溶けたような現象が起こっている、と。あの現象を今現在のテクノロジーで起こせるのは、“七つの大罪”、その中でも“憤怒の太刀”しかないはずだ」

 そこまで言ったのち、ああ、と帯刀は自分の発言にひとつ訂正を入れた。

「テクノロジーって言い方は変だな。“科学技術”の話じゃない、これはあくまで“能力”の話だ。可能か否か、答えはそれだけだ」

 帯刀がゆっくりと新聞を畳み、次の紙面に目を通そうとしていた。その間、トマスはじっとバックミラー越しに帯刀を睨みつけていた。まるで、彼の思考を探るかのようにじっと執拗に。しばらくそうしていたが、帯刀にそれ以上どうこうしようという意思が感じられなかったためか、突然ふっと彼の表情から険しさが消えた。

「答えが“Ja”と“None”しかないなら、“Ja”、だな。まさか傷口から斬り込んでくるとは思っていなかった。確かに、あの液状化現象を起こせるのはあいつの“太刀”くらいなものだ」

 トマスは「ははっ」と愉しげに笑っていたが、その瞳は全く笑っていなかった。それがなんとも言えず奇妙で、横で運転する慶馬は時折それをちらりと見ては、忌々しげにため息をついていた。種を播いた張本人である帯刀自身は完璧に割り切っているようで、あまり深入りするようなことはそれ以降一切言わなかった。

 ただ、

「それは合意あってか? それとも、ただの嗜好?」

とだけは尋ねていたが。

「知るかよ。あいつが考えることはよく分からん。こっちが聞きたいくらいだ。ああ、でも嗜好ってのは言い得て妙だな。おそらくあいつにとって人を殺すことは、俺たちが煙草を吸ったりコーヒーを飲んだりするみたいに、単純に刺激を得るためだけの行動なんだろうなぁ」

 “あいつ”は、旧体制の中でも特に訳のわからない類の生き物だからなあ。トマスは小さく呟くと、短い白金の髪をがしがしと乱したのだった。

 その時、帯刀の携帯が着信を訴えて震えた。ちらりと目を落とすと、それはどうやら公衆電話からかかってきているものらしい。

 帯刀は少しためらったが、思い切って出てみることにした。

「ん、どちらさん?」

『あ、ゆき君? 三善です』

「ああ、みよちゃんか」

 久しぶりにその声を耳にし、なぜかほっと胸をなで下ろす帯刀である。ここしばらく連絡を取っていなかったが、元気そうで安心した。件の「ジェームズに喧嘩を売った事件」以降、彼の身の回りはめまぐるしく変化している。できる限り助けてやりたかったが、そうもいかなかったのは事実である。

 三善が少しためらっているようなそぶりでいたので、帯刀は一言、

「いきなり公衆電話から着信があると驚く。それだけだから安心して」

となるべく優しい声色で言った。

『ごめん、知っての通り僕は携帯を持っていないから。今電話してもいい?』

 今この場にはトマスもいるので、あまり突っ込んだことは話したくない帯刀である。まして、三善が今使用しているのは本部の公衆電話だ。雑談なら別に構わないが、完全に安全な回線だとは言い切れない。同じ非セキュアな回線なら、やはり別の携帯からかけてもらうのがよいだろう。

「ええと、結構難しい話になりそう?」

 まずは状況確認を、と帯刀が尋ねると、三善は肯定の意を示した。なるほど、それならば。

 帯刀は少し考えて、思い切ってこのように提案してみた。

「みよちゃんが言いたいことっていうのは、たぶん本部の公衆電話から話されるとまずい内容のような気がする。だから、みよちゃん。明日俺から専用に携帯電話を送る。それを使って俺に電話をかけてくれ」

『え、どういうこと?』

 分かってるくせに、と帯刀は思う。

「俺と話す専用に携帯電話を買ってやるって言っている。大丈夫、ただの譲渡ってことにしておくから。ブラザーに話しておけば問題ないだろ」

『えええ……ゆき君の家って何なの。ブルジョア?』

「何をいまさら」

 天下の情報屋が金欠であるはずがなかろう。帯刀はさっぱりとした口調で言う。

「俺はお金で買える程度の信頼ならいくらでも買うべきと思っているだけだ。ああ、それとも、体裁が気になる? だったら、少し早いけど誕生日プレゼントだ。受け取ってくれ」

 とりあえず本部宛に送る、と言うと、帯刀は終話する。続いて、電話帳からとある人物の電話番号を探し、通話開始ボタンを押下する。

「あ、秋子姉。ちょっといいか? ……うん、携帯を一台、エクレシア本部に送ってやってくれ。できるだけ機能が少ないやつ。宛名は、姫良三善で。プリンセスの姫に、グッドの良、三つの善で姫良三善。うん、よろしく」

 通話は二分とかからなかった。さっさと終話すると、帯刀は何事もなかったかのように携帯電話をポケットにしまい込んだ。

「ええと、何の話をしていたんだっけ」

「今のお前、ブルジョアって言われてもおかしくないことをしていたぞ。なんで携帯なんか買い与えちゃうの。法人用を持たせればいいじゃねぇか」

 トマスが恐ろしいものを見たとでも言いたげな口調で言うものだから、帯刀は首を傾げつつ淡々とした口調で答えた。

「ん、俺は価値があると思うものにしか金は出さないぞ」

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