第一章 4
ケファは北極星内の自室で横になっていた――かと思いきや、枕元にたくさんの紙束を積み上げ、それらを膝の上でぺらぺらとめくっていた。そして、文字の羅列に目を通しつつ、片手間でどこかに電話をかけている。彼の口から発せられているのは流暢なフランス語だ。
「……ああ。追加で聖水を送ってほしい。構わないか?」
電話の向こうから聞こえる馴染み深い声に相槌を打ちながら、ケファは書類に青いボールペンでメモを書いている。
「うん。俺が必要なだけ。大丈夫だって、たいしたことないよ、親父」
電話の相手はどうやら彼の養父、ブラザー・ジョーらしかった。
定期的に連絡は取っているものの、ここしばらくはろくに帰っていないので長話になっているようだ。ケファはただ業務連絡をするつもりだったのが、いつのまにか世間話にまで発展している。
ケファは話しながら、微かに頬を緩ませた。
「そっちのガキどもはどう? 元気でやっているか? ……うんうん。そうか、アダンは神父になるのか。よかったな、後継ぎができたじゃないか」
ゆっくりと目を閉じ、耳元から聞こえてくる声にじっと集中する。心なしか安心するのは、やはり身内だからということだろうか。
「ん、俺? 俺は後継ぎなんかならねぇよ。あんたには長生きしてもらわなきゃ困る。うん、……ありがと。じゃあ、切るよ。うん」
そこでようやく電話を切った。
ケファは恐ろしく長い溜息をつき、携帯電話を書類の山のほど近くに置く。伸びた前髪を掻き上げると、再び手元の資料に目を落とした。
ブラザー・ジョーにはまだ“釈義”のリバウンドを起こしたことは言っていない。おそらく聖水を送るように頼んだことでおおよその見当はついてしまったのだろうが、なるべく心配をかけたくなかった。
そちらについてはまだどうにかなるだろうが、こちらの問題は生憎いい方向には向かいそうになかった。
これが本部に知られたら、確実に三善の教師の任を降ろされる。
別に自分がこのまま『喪失者』になっても構わなかった。のんびりどこかの教会で説教する生活もいいなあ、とは思う。しかし、三善をあのまま放っておく訳にはいかない。せめて確実に三善がひとりで生きられるようになるまでは傍にいてやりたかった。
この数か月調べ続けて分かったことがいくつかある。
まず、『契約の箱』についてだ。
あの釈義を発動させると、ふたつの事象が発生する。ひとつが、あらゆる物質が『塩化』すること。そしてもうひとつが、任意のタイミングまで『時間が逆行する』こと。これらの事象を合わせて、“七つの大罪”は『終末の日』と呼んでいるらしい。
特に後者の方に対し、ケファは興味を持った。時間遡行する能力を持つ“釈義”能力者が唯一存在していることを彼はよく知っているからだ。
前大司教、その人である。
やはり『契約の箱』と前大司教の間で何らかの関係があると考えるのが自然だった。それにしても、この『時間遡行』という点が何か引っかかる。なにかを忘れているような、そんな気にさせられるのだ。
こんなに自分は忘れっぽかっただろうか。ケファは暫し逡巡し、一旦この件は置いておくことにした。
ケファは書類を一枚めくった。
また、この『契約の箱』には絶対に近づけてはいけない釈義が存在し、その二つを近づけることで『契約の箱』の釈義が発動する。その“釈義”が何かまでは分からなかったが、その文面から察するにどうやら『十二使徒』に匹敵する特殊釈義のようだ。
そして、唯一厄災を防ぐには、然るべき持ち主に『契約の箱』を渡し管理させることしかない、ということも分かった。
「……ふむ」
ケファは小さく唸り、その脳裏でパズルのピースがひとつひとつはまってゆく感触を味わっていた。そしてこうも思う。
まだ、足りていない。肝心のところがすっぽりと抜け落ちている。
そもそも『契約の箱』の持ち主は『白髪の聖女』と呼ばれる女性だったらしい。名を、姫良真夜といった。それがかつて本件について片足を突っ込んだ際に出てきた『内紛』の原因になった女性でもある。そして、この名から分かる通り、彼女は姫良三善の母親にあたる。それでようやく、三善の身体に起こっている異変の原因は分かった。つまり、大聖教のトップと“七つの大罪”のトップによる驚異のサラブレッドが三善ということだ。ついでに昔の写真が出てきたのでついついコピーして持ってきてしまったが、それを見てやはりかと実感する。三善は驚くほどに母親似なのである。
それはともかく、元の持ち主が姫良真夜なら、その実子である三善が扱うことは比較的容易のように思う。三善の性格上そういったものを悪用するようにも思えないし、彼と『契約の箱』を結び付ければ彼の延命にも繋がるのではないか。
しかし、その方法が全く思いつかない。
あと一歩。あと一歩のところが掴めない。何か重要なことを見落としている気がする。それとも、忘れているだけか。もう一度、ちゃんと筋道立てて考えれば――
「人の心配なんかしている暇、あるの?」
その時突然戸が開いた。驚いて顔を上げると、その声の主はノアだった。
金色の長い髪がさらりと揺れ、緑の瞳がケファをじっとりと睨めつける。ほんの少し、怒っているらしかった。
ケファも少々不機嫌そうな表情を浮かべ、
「勝手に入るなよ」
と文句を言う。正直なところさほど怒ってはいないのだが、それくらい言わないと彼女には効かないのだ。
ノアはそれすら無視し、ケファのすぐ隣までやってくる。
「なに」
「あんた、本当は風邪なんひいてないでしょう。その様子だとアレかしら……リバウンド、とか」
心臓が跳ねた。冷静を装うとしたが、動揺して頭の中がぐちゃぐちゃになっている。取りあえず目を逸らしたが、それが明らかに逆効果だった。
ノアはため息をつき、ベッド脇に勝手に腰掛けた。
「そんなことだろうと思った。カークランドまで庇っているみたいだったから、おかしいと思ったのよ。別にプロフェットの中ではリバウンドなんて、珍しくないわよ」
「……そんなもん?」
「私もやったことあるもの。聖痕は残らなかったけど」
じゃあ同じ土俵にすら乗ってねぇじゃねえか、とケファは拗ねた。ベッドの上で膝を抱え、むすっとしているので、少なからずいらだちを覚えたノアは彼の頭を鷲掴みにした。そしてそのままぐしゃぐしゃに頭を撫で回す。
「なにしてくれてるの、お前」
「いい大人が拗ねたって可愛くないのよ、莫迦」
結構えげつない口調だが、これもいつものことである。だからそれ以上ケファは彼女を責めようとは思っていなかったし、彼女もまたそうだった。すぐにその手は止まり、彼の肩に置かれる。ほんのりと、温かさが伝わった。
「……あなたの身体はもう、あなただけのものじゃないの。決して疎かにしないでほしい。今無理をしてあの子と永遠に離れるより、今ほんの少し離れてでも長く一緒にいる方がいいと思う。あの子も子供じゃない、分かってくれるわ」
そう、あの子――三善だって。もう何もできない子供ではないのだ。
「分かっている」
分かっているつもりだ。しかし、彼にはほとんど時間が残されていないのだ。ならば、無理をしてでも。
彼は生きるべきだ。自分以上に。
「なあノア。このこと、三善には――」
「黙っておいてあげる。その時がきたら、自分で話しなさい」
そう言いながら、ノアは小さな箱をサイドボードの上に置く。彼女の本当の目的はこれだった。別にケファを叱りに来た訳ではない。それに気がついて、ケファは伏せていた顔をゆっくりと上げた。
「それ……」
「さっきブラザー・ミヨシに持っていったら、あんたに渡せって言うから。ほら、確かに渡したからね」
ゆっくりと立派な造りの箱を開けると、中には美しい彫金が施された新品の銀十字が納められていた。ケファが元々使っていたものは三善にあげてしまったので、新しいものを取り寄せていたのだ。しかしここ数年は三善にかかりっきりになっていたので、取りに行く暇がなかったのである。
送ってもらえればよかったのだが、こればっかりは「自分で取りに来い」と言われていたので放置せざるを得なかったのだった。
おそらく今回ノアが来日しなかったら、彼がこれを取りに行くことは永遠になかったと思われる。
ケファはゆっくりと、右の中指で十字の表面をなぞった。彫金のくぼみ以外には傷一つない、真新しいそれは彼にとってあまりにもまぶしすぎた。再びふたを閉め、サイドボードの上にゆっくりと置く。ことん、と軽い音がした。
「うん、ありがと」
「で、ちょっと聞きたいんだけど」
ノアがぽつりと呟いた。「ブラザー・ミヨシがついさっき、あんたという存在を軽やかに追い越していったけど。一体どういう育て方をしたの、あんたは」
は? とケファは目が点になった。
「待った。何を言っているか分からない。というか、よく考えたら会ったのか? ヒメに」
「会った。悪魔祓いのやり方を教えてほしいって言うから、プリンを代償にサンプルを見せてあげたら、たったの三回よ。三回私のサンプルを見ただけで悪魔祓いをマスターした」
ノアが動揺するのも無理はなかった。
あの後、ノアが三善に悪魔祓いを実施している姿を見せたところ、三善はもう二回同じやり方を見せてくれと言う。言われたとおりに再現すると、三善は納得したようにプリンの容器を置いた。
――なんとなく分かった。つまり『悪魔祓い』っていうのは、準秘蹟にあたるんだね。
そう言い、三善はその場で『悪魔祓い』を見よう見まねで実行した。それをほぼ完璧にこなしてしまった彼は、一度小さく首を傾げると、何かが納得いかなかったのだろう。ぽつりとこのように呟いた。
――こうじゃないな。こっちかな。
そしてもう一度能力を行使する。先ほどは及第点ではあるものの荒さが目立つやり方だったが、今回はそのブレが完全に消え失せていた。並の司教以上の精度で、彼は祓魔する。それを目の当たりにしたノアはこのとき思った。
なんでこの子、まだ司祭なんかやっているんだろう。
ケファは少々頭を抱えていたが、そののちにようやく口を開いた。
「ああ、あいつならそれで十分だ。見て分かるものであれば大体は出来る。下手な講釈を垂れるより断然そっちのほうがいい」
「なんか、真面目に修行するこっちがアホみたいに思えたわよ」
「俺もちょっと、今、心が折れかけた……」
悪魔祓い通算二五回目の再試にして二六回目の試験待ちをしているケファが泣きそうになっていた。
「優秀な弟子を持つと大変ねぇ」
「お、おう……」
さすがにこれは優秀すぎるだろ、とケファは色々言いたいことがあったが、それを言うべき相手ではなかったので、なんとか腹のうちに収めておくことにした。