第一章 3
扉が開く音が耳に入り、三善ははっと身体を震わせた。
この資料室は一応公共の場ではあるので、誰が来ても全くおかしくはない。しかし、三善がこの場所に居座り始めてから数週間、やって来たのはケファやホセというごくおなじみの顔ぶれのみだった。おかげで半ば貸切の状態を満喫していた三善だったが、いよいよこの無人記録が打ち破られる日が来たようだ。
――可能な限り、面倒な人でなければいいが。
思わず三善は息を飲んだ。
軽やかな足音が近づいてくると思ったら、その音は三善のほど近くで止まった。
「ああ、こんなところにいた」
三善の前に現れたのは見知らぬ金髪の女性だった。服装からして修道女であることは違いないが、修道女とほとんど縁のない生活を送っている三善は、明らかに自分を探していたと思われる彼女に思わず狼狽した。
年齢は二〇代中頃だろうか。エメラルドを連想する鮮やかな緑の瞳が、その端正な顔立ちにとてもよく似合っている。
そんな彼女は三善のすぐ隣までやってくると、ぱりっとした明るい声色で尋ねた。
「お勉強しているところ、邪魔してごめんなさい。あなたが姫良三善かしら」
そう尋ねる者にいい人はほぼいない。
三善は微かに警戒しつつ、小さく頷いた。その様子を見て、彼女は三善がやけに警戒している理由を察したのだろう。両手を目の前で振って見せ、敵意がないことをアピールした。
「そんなに警戒しなくても取って食ったりはしないわ」
彼女は苦笑しながら言う。「ああでも、なるほど。アメの言う通り、確かに不思議な雰囲気ね、あなた」
今、アメといったか。
その名に覚えがある三善は、はっとして顔を上げる。
「はじめまして。私はノア・オッフェンバック。アメ・トキノの先生をやっています」
「雨ちゃんの? ……ああ、すみません。あなたがシスター・ノアだと分からなかったので」
彼女――ノアは頷き、ちらりと机の上に目を落とした。教典が散乱している。主に司教試験に出そうな範囲の論文集に、ラテン語の教科書か。そのラインナップを見て、彼女はケファが先ほど車内でしきりに三善のことを気にしていたのを思い出した。なるほど確かに、この内容ならばあの男が気にしないはずがない。
三善が右手を差し出した。軽い握手を交わすと、三善は不思議そうに言った。
「それにしても、なぜこんなところに? 修道女の研修先であれば、真珠星の方ではないですか」
修道女が使用する施設は、この北極星とほぼ対局側にある通称『真珠星』になる。もちろん女性の“釈義”能力者であれば北極星を利用することは全くない訳ではないが、似た施設が真珠星にもあるはずなので(さすがの三善もこのあたりはよく知らない)、わざわざこの場所に来る必要はほぼないはずだった。
「半分正解で、半分はずれね。私はあなたに用があって来たの」
そう言い、ノアはカバンから手のひらに収まるくらいの箱を取り出した。それを三善に渡すと、何のことか分からずに三善は首をかしげる。
そっと開けると、その中に入っていたのは新品の銀十字だった。
「二年前にケファが発注して、それからなかなか取りに来ないから。教皇庁から届けて来いと言われていたのよ」
三善はそれをしばらく眺め、ケースの蓋を静かに閉じた。
「これ、ケファに持って行ってくれますか」
「なぜ? それはあなたのものよ」
「僕はもう持っていますから」
ノアが目を向けると、確かに三善の首には傷だらけの銀十字が下げられていた。祭器にあたるものをこれだけ乱暴に扱う人物をとてもよく知っている彼女は、三善が言わんとしていることをすぐに理解したらしい。
「なんとなく事情は分かった。了解しました、それじゃあこれはあいつに持っていくわね」
「お願いします」
三善が微かに微笑んだのを見て、ようやくノアは安心したらしい。ふっと微かに微笑むと、三善の隣に腰掛けた。
「ああ、どんな子かと思ったけど、何か納得したわ」
「納得、ですか?」
怪訝そうに三善が尋ねたので、ノアは「気にしないで」と軽く手を振って見せた。
「いや、ジェームズに喧嘩売ったって聞いたから、一体どんな命知らずな子なんだろう、と」
「ああ……、そういう意味ですね」
三善は渋い顔をしつつ言う。自分でやっておいてなんだが、あの一件についてはもう放っておいてほしいと思う。後悔はしていないが、まさかこんなことになるとは思っていなかったのだ。
それはともかく。三善はじっとその紅玉の瞳を宙へ向け、のろのろと口を開いた。
「――あの時は、そうするしかなかったんです」
「うん?」
「ホセとマリアを救うには、そうするしかなかった。僕ができる『ゆるし』は、それくらいだったから」
三善はそれっきり口を閉ざしてしまい、その件について何も言及することはなかった。
ノアはその様子になにを感じたのだろう。しばらく同じように黙ったかと思えば、急に声のトーンを明るくして言った。
「それと、もう一つ用があったんだけど」
ノアの言葉に、三善はきょとんとする。
「あなた、悪魔祓いを誰から教わるか決まってないんでしょう?」
「え? あ、はい。ホセでいいかと思ったら、どうやら体裁上あまり良くないみたいで」
確かに、先日の一件でホセと三善の関係が明るみに出たようなものなので、身内が担当するのは少々都合が良くない。しかしながら三善は他につてがなかったので、どうしようかと頭を抱える羽目になったのである。誰かに頼み込もうにも、相手を間違えると大惨事にしかならないこの状況、一体どうしたものかと考えあぐねているところだった。
「基礎だけなら教えられるけど。どうする?」
ノアがぽつりと呟いた。その言葉に、三善は思わず驚きの声を洩らす。
「ホセからも声をかけられていたの。アメの研修で少なくとも二か月くらいは日本に滞在する予定があるし、時間を見つけて教えてやってくれないかって」
「ほ、本当?」
「でも、ふた月でできることってほんの僅かよ。さわりのさわりくらい。だからあなたに直接会ってみてから考えようかと……」
「お願いします」
三善がはっきりとした口調で言い、頭を下げた。驚きのあまりノアは思わず目を丸くする。
「なにも頭を下げなくても」
「二ヶ月、頑張るから。教えてください」
そうは言われても。ノアが微かに唸ったところで、三善がさらに追撃する。
「そのかわり、僕が出来ることはなんでもやります」
そこまで言われてしまってはしょうがない。ノアは暫し逡巡していたが、彼女の中で答えが出たのだろう。「それじゃあ」と試すような口ぶりでノアは言った。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「はい」
そこでノアが言い出したことは、実に意外なことだった。
***
「買ってきました。これで間違いないですか」
軽い息切れをもよおしながら、三善はノアに紙袋を差し出した。乱れた髪にぐちゃぐちゃになった聖職衣。散々もみくちゃになった形跡が見られるが、なんとか生還したといった風である。
ノアはそれを受け取り、中身を確認する。
「ああ、これこれ! 本部に来たら一度は食べておきたかったのよね」
ノアが言い出したのは、こんな内容だった。
――本部の購買で売っている瓶入りのプリンを食べたい。お金は出すからふたつ買ってきて。
しかしこの代物、簡単に手に入るものではない。毎日午前と午後の二回に分けて販売されるそれは、開始八分で売り切れるほどの人気商品なのである。本来は観光客向けに作っていたものだが、あまりの評判の良さに本部でも取り置きするようになったのが事の始まり。以降、特定の時間帯になるとやたら購買が混むので、今まで三善は何となく避けていたのだが。
この日三善は午後の回に並ばされ、必死の思いでなんとか購入してきたという訳だ。
「私が行くといつも売り切れなのよね。現物は初めて見た。ちょっと感動してる」
「僕も初めて見ましたよ」
呆れ交じりに三善が言うと、ばつが悪そうに首筋をかいた。確かに購入するにあたり体力気力共に削がれる思いをしたが、プリンはプリンなのである。もっと厄介かつ面倒なことをご所望されるかと思っていた三善は、本当にこれでいいのかと不安だった。
「はい」
ノアが三善にプリンを差し出していた。確かにふたつ買ったが、それはどちらもノアにあげた気でいた。三善はきょとんとして、プリンとノアとを見比べる。
「食べないの?」
「え、僕?」
「あなた以外に誰がいるの」
「ああ、じゃあ遠慮なく」
こうして苦労して手に入れたプリンのひとつは三善の手に渡り、資料室で二人並んで口に運ぶこととなったのである。
おいしそうに咀嚼するノアの横で、三善は少々微妙な顔をしている。
「なんでプリン」
「私が好きだから」
ノアははっきりとした口調で言った。「あなたは何が好き?」
「ホットケーキ」
「ああ、あれもおいしいわね」
優しい甘みが何とも言えない、と愉しげな彼女の言葉に激しく同意する三善である。
「なんだかんだでケファに焼かせたのが一番おいしいっていうのが癪だけどねー」
「うん?」
三善が怪訝そうな顔をしたので、ノアは「ああ」と小さく頷いた。そして土岐野の時と同じように、自分がケファとは大学時代の友人であることを伝えた。
「友人というか、半ばパシリにしていたけど」
彼女がなにかとんでもないことを口にしているが、それは敢えて聞かないでおくことにした。
「あなたを見ていると、何だか昔のあいつを見ているようで、ついつい構いたくなるのよね。ごめんなさい。でもあなたたちはとてもよく似ているわ」
ノアはスプーンを動かす手を止め、三善へ向き直る。
「あなた、今いくつ?」
「もうすぐ十六歳になります」
「そう。あなたの十六年は、人との関わり合いによって成り立つ一縷の歴史と考えていいでしょう。その歴史の流れの、一番先頭にいるのが今のあなた。今あなたはとてつもない困難に立ち向かおうとしているけれど、大丈夫。あなたの今までの『関わり合い』が最終的になんとかしてくれる。だから、本当に困ったときは立ち止まって、振り返りなさい。そこから見えるものが確かに『ある』わ」
なんてね、とノアはおどけて見せた。
「私は少し後悔しているの。これと同じことを、昔のケファに言っておくべきだった、って。だからと言っちゃなんだけど、あなたに伝えておくわ。その方がきっと有益だと思うから」
「それは、なぜ?」
「そうね」
三善の問いに、ノアは少し考えて見せた。「あいつにも私にも、色々あるってことよ」
「ふうん」
三善は曖昧な返事をし、つるつるとしたプリンをスプーンですくった。
「大人は色々あるってことですね」
「そうね。子供にも色々あるけど、同じように大人にも色々あるってこと」
ところで、とノアが口を開いた。
「あいつ病院に行ったんですって? また体調崩して……」
「そうなんですか?」
三善がきょとんとして首を傾げる。「昨日“大罪”の対応に出かけたきり戻らなかったから。怪我でもしたんですか」
ノアが怪訝そうな表情を浮かべたのを、三善は見逃さない。ただ、なにかあったのだという漠然とした不安が脳裏を過る。しかし、ノアはそれ以上何も追及しようとはしなかった。
「――そう。それならいいの」
さて、とノアは立ち上がる。既にプリンの容器は空になっていた。
「時間ももったいないし、あなたは食べながらでいいわ。私の『能力』を見てもらおうかしら」
「能力?」
「言わなかった? 私は一応『アレクサンドリアのカタリナ』の二つ名を持つ“釈義”能力者よ」
そうでなければ先生なんてやっていない、と彼女は言う。
「私の能力は少し特殊でね。一般に司教クラスまでの聖職者が持つあらゆる能力を『すべて模範的に』発動する。つまりは人間テスター、生きた見本ってこと。だから私は、実戦に出ない代わりに聖職者のトレーナーなんかをやっている訳。プリンの代金分、私はあなたにとっていいお手本になるわ」