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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第一章 2

「なにこれ、超寒いんですけどー!」

 空港を出ると、冷えた風が頬を撫でつけた。その冷たさに思わず耳鳴りがして、彼女は苦しげに目を細めた。

 蜂蜜色の長い髪が強く吹き付ける潮風になびいて大きく揺れる。息苦しさを覚えて、彼女はつい恨めしそうに青空を睨めつけた。

「こんなに晴れてるのに。日本の寒さはちょっと独特よねぇ」

「ノアさん。これ、使ってください」

 後ろから走ってきた黒髪の少女が、ノアと呼んだ彼女に白い毛糸のマフラーを渡す。そのマフラーは、少女が毎晩時間をつくっては少しずつ編んでいたものだということを彼女はよく知っていた。そのため、はじめ彼女は「いいの?」と短く尋ねたのだが、少女は「今の時期に日本に来るなら、絶対に必要だと思って急いで編んだんですよ」と胸を張っている。

 それがなんだかとても愛らしくて、彼女はついくすりと笑ってしまう。

「ありがとう。本当に助かるわ」

 少女からそれを受け取ると、彼女はその場で首にマフラーを巻いた。黒いコートに同色のスカートとブーツという全身黒ずくめの出で立ちだったので、白いマフラーを巻くとそれが自然と引き立って見えた。

 彼女のすぐ隣で、少女もまた同色のマフラーを巻いて微笑んでいる。

「さて、そろそろ迎えが来る頃だけど……」

 彼女が腕時計を見ながら呟いていると、まるでタイミングを見計らったかのように、ゲート前に一台の車が停車した。

 運転席側の窓が開く。

「時間ぴったりですね。シスター・ノア、シスター・アメ」

 そこから顔を覗かせたのはホセ・カークランドだった。ぱりっとしたスーツに身を包んだ彼は、彼女らを一瞥すると微かに微笑んだ。

 黒髪の少女――土岐野雨ときのあめは一礼すると、嬉しそうに車窓に駆け寄る。

「お久しぶりです、ファーザー。元気でしたか?」

「ええ。後ろに乗ってください、前は先客がいるので」

 ホセの言葉に、彼女らはひとまず荷物をトランクに積み込み、後部座席に乗り込んだ。

 そこでようやく助手席に乗っている人物に気が付き、ノアは思わず目を丸くする。

「あら、いるならいるって言いなさいよ。ケファ」

 助手席で眠っていたのはケファだった。黒いコートを着込み、その下はシャツを着ただけという彼にしてはかなりゆるい恰好をしている。足元に聖職衣が入った紙袋が置いてあるので、“大罪”と対峙した際に破ってしまったのだろう。自分で言うのもなんだが、難儀な職業だとノアは思う。

 ケファはというと、ノアの声でようやく目を覚ましたのだろう、瞼をのろのろとこじ開け、微かに息を吐き出した。しばらく紫の瞳をぼんやりと宙へ向けていたが、おもむろに後部座席へと首を動かし、彼女らへ掠れた声で挨拶する。

「あー、久しぶり。疲れたろう、ノア。それに嬢ちゃんも」

「珍しいわね、あんたが車で寝ているなんて」

「んー……」

 ノアの問いかけに対し、ケファは微かに唸って見せた。しかし、数十秒も経たないうちに再び安らかな寝息を立て始める。よほど眠かったのだろうが、まさか会って数十秒で爆睡されるとは思っておらず、彼女らはつい目を剥いてしまった。

 車はエクレシア本部に向かって走り出す。

「今日はあなた方を迎えに行くついでに、この人を病院に行かせていたんです。さきほど飲んだ風邪薬の副作用で眠いらしいんですよ。決して悪気はないのです、ごめんなさいね」

 ホセがそう弁明する。

 ノアがふうん、と眠っているケファの横顔を見、それから小さく息をついた。腰まで伸びる長い金髪がさらりと揺れる。

「まあ、コイツは昔から頻繁に風邪をこじらせていたからね。不思議ではないか」

「ああ、あなたが会った頃からそうだったんですか?」

「ええ。意外と繊細にできているのよね」

 土岐野がきょとんとして二人のやりとりを見ているので、ノアが付け加えるように言う。

「そっか、アメは知らなかったわね。あたしとケファは大学時代からの友人。ホセよりも付き合い長いのよ」

「ノアさんはイタリアの大学を出たって言っていましたよね。ブラザー・ケファはフランスの方じゃあ……」

「この人は初等教育から各地を転々としているから、国籍は関係ないかな」

 土岐野はへえ、と目を大きく見開いていた。さすが若くして司祭まで昇りつめた人物だけある。

 土岐野はフランスで修業しているうちに、位階をひとつあげるのに多大なる努力が要るということをその身で感じていた。彼はやはり、『あの日』――聖フランチェスコ学院での一件でも分かる通り、相当「すごいひと」なのだろう。

 ホセが笑いながら、呆けている土岐野に声をかける。

「土岐野さん。これから一旦本部に戻りますけど、どこか行きたいところはありますか?」

「えっ?」

「明日からは研修で自由な時間は取れないでしょうから。今日なら、私でよければ連れて行くことができます。どうしますか」

 そう、土岐野がノアと共に日本にやってきたのは研修受講のためである。

 本部に併設される修道院で毎年この時期に行われる研修会に、教皇庁から参加するようにと指示があったのだ。本来洗礼を受けてから三年以上の者が受講対象になるため、この対応は極めて異例のことだった。

 土岐野は逡巡し、わがままかもしれないですが、と口を開いた。

「四辻学長にご挨拶と、それから、たちばな……弟に会いたいです」

「弟さん、ですか?」

「はい。しばらく会っていなかったから」

 なるほど了解しました、とホセは頷いた。

 そういえば、彼女には少し歳の離れた弟がいるということを聞いたことがあったような気がした。「気がした」というのは言葉の通りで、ホセはその事実をすっかりと忘れていたのである。彼女をフランスへ連れていく前に彼女の保護者に挨拶へ行ったが、その時はそれらしい人物を見かけなかった。

 ホセは小さく首を傾げた。おそらくあの日はたまたま不在だっただけなのだろうが、どうしてそのあたりの記憶が曖昧なのだろう。

 そんなことを考えていると、「ところで」とノアが声をかけた。

「あなたから相談された『ケファと一緒にいる子』、なんて言うんだっけ」

「ああ、ヒメくんのことですか?」

「そう、その彼。ジェームズに喧嘩売って司祭に昇格したって本当?」

 まさか三善がジェームズに喧嘩を売った事件が、海を越えフランスまで流れているとは。そのこと自体は想定内ではあったものの、こんなに早く広まるとは思っていなかった。

 ホセは驚きながらも肯定の意を示す。

「本当です」

 なにせ自分はその当事者だ。あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。肝を冷やしたなんて安っぽい言葉であの時の心情を表すことなどできやしない。いっそのこと適当に処分でもしてもらった方がよかったのかもしれないと今でも時々思うくらいだ。

「向こうではその話題で持ちきりよ。『なんて命知らずな子供なんだ』って」

 その点は否定できない。

 ホセは微かに唸りつつ、なんとか言葉をひねり出した。

「ケファが二十一歳の時に史上最年少で司祭になったときも大分騒がれましたけど、ヒメ君は大幅に記録を塗り替えて十五歳で司祭昇格ですから。そりゃあ目立ちますよね」

 この師弟コンビは毎度エクレシアを騒がせる。ケファが落ち着いたと思ったら今度は三善の番か。ホセは微かに覚える胃痛にその身を震わせた。

「まずは会って話してみたいわ。面会することは可能かしら。あなたに頼まれた件は、それから考えたいと思ってる。彼が一体何者なのか、自分で考えてみたいの」

「そうですね。面会することは問題ありません」

 ホセは横目で眠るケファを見て、それからためらいがちに口を開いた。

「――その、あの子が何者か、ですが。彼は私たちを導いてくれる救世主だと思っています」

 そうでなければ私もケファもこんなに無茶なことをしません、とホセはきっぱりと言った。

「あの子はいずれ大司教になる方です。現に、あの子が啖呵を切ったときに司教連中は誰ひとり反論しませんでした。彼はその器を持っていると、私は信じています」

 それ以降、ホセは三善について語ろうとは思わなかったようで、ぴたりと口を閉ざしてしまった。車に四人も人が乗っているとは思えないほどの沈黙が訪れる。唯一聞こえるのは、静かなケファの寝息だけである。

 ノアは流れる景色をぼんやりと見つめながら、そのエメラルドの瞳をゆっくりと閉じた。

「思うところはあるけど、まあ、あんたがそう言うのならそうなのかもね」


***


 本部に着くと、開口一番に土岐野は「三善くんはいますか?」と尋ねた。

 土岐野と三善は頻繁に手紙でやりとりをする仲である。その気になればメールでのやりとりも可能であるのに、この二人はなぜか手書きにこだわっていた。時々時間を見つけては何やらしたためている現場を何度か目撃しているホセは、彼らの驚くほど健全な仲につい微笑ましく思ってしまう。

 ホセは車を北極星ポラリスの正面玄関にゆっくりと停車すると、困ったように笑って見せた。

「いるにはいますよ」

 ただ、会えるかどうかは別の話ですが。

 そのように付け加えると、土岐野がきょとんとして首を傾げたので、それについてさらに補足説明をしなければならなくなった。

 ホセが口を開こうとすると、

「――あいつは今資料室にひきこもっているから、下手すると内側から鍵をかけているかもしれない」

 横から目を覚ましたらしいケファが口を挟んできた。先程までほとんど眠っていて一言も話さなかった彼が、今はすっかりいつもの精悍な表情で正面を見つめている。具合の悪いところを三善に見られたくないのか、自然とスイッチが切り替わったようにも見える。

「ちょっと様子を見てくるつもりだけど、他に何か用事ある?」

 その言葉に、ホセが間髪入れず口を開いた。

「ケファ、彼の元に行くのはダメです。今日は安静にしていてください」

「ん? 何だよ今更。動けるぞ、俺は」

 今まで何があっても三善の元に向かわなかった日はない彼は、その指示に不満だったらしい。口論に発展しそうな不穏な空気が流れる。

 見るに見かねて、ノアが会話に割り込んできた。

「風邪ひいている人が、うろつき回って菌ばらまくんじゃないわよ。その子もいい迷惑」

 さらに土岐野まで、

「ケファさん、やっぱり顔色悪いですよ。今日は休んだ方がいいです」

 全員に言われてしまっては強引に押し切ることなどできはしない。

 ケファはぐっと反論の言葉を腹の中に押し込み、大人しく従うことにしたようだ。多少拗ねたような表情は見せたが。

「分かったよ、今日は寝る」

「そうしてください」

 完全に車が停止すると、ノアと土岐野が先に車から降りて行った。車内にはホセとケファの二名だけが残っている。このタイミングを見計らっていたらしく、ホセがシートベルトを外しながらぽつりと言った。

「土岐野さんを自宅まで送ったのち、あなたをジェイのところまで連れていきます。それまでどうぞ休んでいてください」

「ああ。それにしても、風邪じゃねぇのに風邪のふりするって案外難しいんだな。今は薬が効いて眠いのは本当だけど」

 そう言うと、ケファは大きな欠伸をした。

「降りられますか?」

「うん、大丈夫。今は背中も痛くないし」

 よかった、とホセが微かに微笑む。

 そんな会話をしている二人の姿を車の外からノアが見ていたことは、生憎どちらも気が付いていなかった。

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