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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第一章 1

 案の定、彼・姫良三善司祭はふてくされていた。

 北極星ポラリス内の小さな資料室にここ数週間こもりっぱなしの彼は、既にストレス最高潮に達している。「むううう」と奇怪な声を発し、直後教科書が山積みになっている机の上にぱったりと突っ伏してしまった。元々彼はそれほど勉強が好きではない。日を追うごとに増幅するフラストレーションが思考を停止させてゆく。

 せめて外に出られれば、と三善は思う。

 事の発端は、ホセが彼に「本部から出ないように」と指示したことにある。一応ニュースの類もかじる程度には見ているので、三善は外の状況を少しは把握していた。

 今本部の外では、聖職者のみを襲う殺人犯がうろついているのだ。三善は一応僧兵ではあるし、何かあったとしてもある程度は対処できると思っていたのだが、そこにホセが待ったをかけた。

 いつになく真剣な面持ちでホセが言った言葉を胸の内で反芻する。

 ――これから大司教になろうとしているお方が、こんなしょうもないところで殺されては困ります。

 そう言われたら何も言い返せないではないか。

 三善は渋々頷き、ケファから渡された山のような教科書を抱えて資料室にこもることとなったのである。

 とはいえ、いつまでも文句を言っていても仕方がないのである。

 自分はあの前大司教の補佐を務めた枢機卿、ジェームズ・シェーファーに真正面から宣戦布告してしまった。そして情けないことに、ただ「面白い」という理由だけで彼の手により位階を司祭にまで引き上げられてしまった。ここまでお膳立てされて引き下がるほど三善は莫迦ではない。

 どこまでも、あの男はずっとずっと、手が全く届かないくらいに高いところに君臨している。それが分かるからこそ、今、こうして全力で知識を叩きこんでいるのだ。

 まず、ジェームズに肩を並べるには司教になることが絶対条件だ。

 大聖教の場合、司教の叙階を受けるためには必ず司教試験を受ける必要がある。試験内容は筆記試験と実技試験の二種類に大別され、その両方に合格することで初めて叙階を受ける権利を与えられる。

 実技試験で求められるのは『悪魔祓い』の能力で、これを習得するために司教見習いとなった者は特定の司教付となり『悪魔祓い』の研修を受けることになる。この研修を修了したうえで実技試験を受け、特に問題がなければ合格。司祭であれば権能も十分に足りるので、よほどひどくなければこの試験を落とすことはないと言われている。ただし、合格ラインを突破することは難しくないが満点を取ることはほぼ不可能とされ、過去に実技試験で満点を取ったのは前大司教ただひとりだけである。この試験である意味徳の高さを計られてしまうのが何とも言えないところだ。

 さて、もうひとつの筆記試験はというと、教会史から神学に基づいた論文まで幅広く出題されることになっている。ケファから「それほど難しくない」と聞かされていた三善はその言葉を鵜呑みにし、「どうにかなるだろう」と高を括っていた。

 しかし、過去問を開いて三善はびっくり。その内容が全てラテン語で書かれていたのである。

 試験を受けるためにラテン語習得が必須だとは知らなかった。つらつらと並ぶ謎の記号に、三善は思わず眩暈がしてしまった。

 ちなみに、同じ司教見習いであるケファは先に一次試験だけ受験しており、ほぼ満点で突破しているそうだ。だが、彼の場合はまさかの実技試験で引っかかっているので、その先になかなか進めないでいる。別に徳が低い訳でもないので、おそらく彼はそのあたりのセンスがないのではないかと司教達の間で囁かれているのは秘密だ。

 それはともかく、今三善の傍らにある教典の数々は既に用済みとなったケファのお下がりにあたる。しかし、随所に残される彼直筆のメモ書きが全てフランス語であることもまた三善にとって残念な出来事でしかなかった。

「何故日本語で書いてくれないんだ……教科書もケファも」

 自分が大司教になった暁には、複数の言語で受験できるようにしよう。そう強く誓った三善であった。

 それは未来の自分への課題にしておくとして、まずは目の前の問題を片づけなくては。いまだに大して読めない教科書をめくり、三善は大きくため息をつく。

 この件についてはホセやケファに愚痴を言ってみたが、よくよく考えたら彼らはマルチリンガルだった。彼らは三善の愚痴に対し、一瞬きょとんとしつつもこのように回答した。

 ――俺としては、日本語をそつなく話せるお前の方がすごいと思うけど。俺、今の状態になるのに二年くらいかかったし。日本語は難しいよ、うん。

 けろっとした様子でケファは言い、また、

 ――すべての文句はシンアルに巨塔を建てようとした人たちに言ってくださいね。大丈夫、世間に揉まれれば嫌というほど覚えますよ。

 胡散臭い笑顔でホセは言った。

 数式は美しいよね、基本万国共通だもんね、と三善が呟いていると、ホセはこんなことを付け加えた。

 ――かつて人々が世界各地に散り散りになった後、同じ信条のもと我々は再び集いました。個々の言葉があっても信じるものは何一つ変わらなかったのです。結局のところ、我々は他者との関わり合いの中で生きていることには違いありません。ならば、聞いてみたいと思いませんか? 同じものを見ている人々の言葉を。

 だからといってエクレシア本部にわざわざ地上七階建ての建物を建築するのはどうかと思いますが、と彼は苦笑しながら言っていたのを三善は思い出す。『それ』がこのエクレシア本部がバベルと揶揄される所以でもあるのだ。

 三善は教科書を閉じると、大きく身体を伸ばした。あたりはしんと静まり返っており、人っ子一人見当たらない。大抵の者は本部の資料室を使うので、わざわざ北極星の資料室を使うという方が珍しいのである。

この場所を利用することを提案したのはケファだった。

 それというのも、三善が司祭になって以降、本部の中を歩くだけでも目立つようになってしまったためである。ただ食事を取りに行くだけなのに、必ず誰かが遠巻きに三善を見ている。釈義の訓練をしようと北極星の訓練棟に向かうと、他のプロフェットが遠慮がちに席を外してしまう。うっかり話しかけようものなら、このはるかに年下の少年に対しペコペコと頭を下げる司祭が現れるという何ともひどい状況に陥っている。好奇の目にさらされること自体は今更気にしていない三善だが、何よりも困っているのがジェームズ信者による影口と三善に取り入ろうとする見知らぬ聖職者が後を絶たないことだ。

 まだ同じ土俵にすら上がっていないのに、まったくもって気の早い連中である。三善は呆れてものも言えない。

 幸い手出しはされていないのだが、この状況で勉強しろと言われても気が散ってしょうがない。この状況に見るに見かねて、ケファが「あの場所なら」と提案したのである。おかげで、この資料室にいる間は誰からの干渉も受けずにのびのびとできるようになったので、この点に関して三善はとても感謝していた。

 それにしても、と三善は思う。

「あと、五年――か」

 どんなに長くともあと五年で、己の身体に打たれた楔が壊れる。それが壊れたら、この体はもう自由に動かせなくなる。それは死と同義だ。

 数か月前にジェームズと対峙したあたりから、身体の調子もあまりよくない。胸が押しつぶされるような痛みが襲い、数時間動けなくなることもしばしばだ。そのたびに、“七つの大罪”の気配が自身の身体からあふれ出て、自分でも吐き気がすることがある。なるべくホセやケファにはそんな姿を見せぬよう努めてはいるが、おそらくあの二人は既に気づいているに違いない。気づいたうえで、見て見ぬふりをしてくれているだけだ。

 そこまで考えたところで、突然胸が軋んだ。三善は右手で心臓を抑えると、ゆっくりと、身体に負担をかけぬよう慎重に呼吸をする。こうしていれば、数分で痛みは治まるはず。しばらくそうしていると徐々に痛みが引いてきた。三善は全身の力を抜き、椅子の背に身体を預ける。

 どうしてこんな身体に生まれてきてしまったのだろう、とは思ったが、それを恨むのは筋違いだ。この身体を三善はとても気に入っているし、今後もそう思い続けたい。きっと、身体の中で眠る実父の意識もそうだといい。

 ところで、僕の母親って誰なんだろう。本当に実在する人物だろうか。

 三善はふと、“嫉妬”の言葉を思い返した。

 ――この意味に気づいたら、きっと終わりの日は遠ざかる。どうかあなたが、『最後』でありますよう。

 未だにこの発言の意図は分からないが、あの日見せられた不思議な映像が鍵になっているのだろう。

 三善はあの日のように、反芻するように呟く。

 ――あなたは何回目だ。

「いちまん、きゅうじゅうさん」

 その数に途方もない虚しさを覚える理由も、きっといずれ分かることだ。

 三善は窓越しに空を見た。

 明け方までは湿っぽい雪が降っていたが、それも積もることなくすっかり溶けてしまった。冬独特の白んだ青空が、地上をゆったりと見下ろしている。

 そういえば、三善は「地面いっぱいに積もった雪」というものを見たことがなかった。

「今年は、積もるのかな……」

 そう呟くと、ようやく彼は目を細めて笑ったのだった。

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