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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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序章 2

 雨が徐々に湿っぽい雪に変わり、重たいぼつぼつとした音が断続的に聞こえる。

 この雨の中、彼は傘も差さずにぼんやりと壁にもたれかかっていた。その口には、火の付いていない煙草が咥えられている。もう湿気ってしまい使い物にならないはずだが、彼は決してそれを捨てようとはしなかった。

 吐き出す白い息が紫煙を連想させる。濡れてしまった白金の髪から、ぽたりと滴が落ちた。

「――、」

 ふと彼は顔を上げた。

 ようやく待っていた人物が現れたのだ。彼は嬉しそうに笑い、手を広げつつややオーバーに“演技”して見せる。さも自分が長い間そこで突っ立っていたかのように。

「待ちくたびれたよ、ブラザー」

 実のところ、彼はそれほど待ってはいないのだが。

 そこに立っていたのは、紺色のスーツを身にまとった青年――否、大人になりきっていない少年、が正解だろうか。茶色の髪は後ろで一つに束ねられ、瞳は薄氷を連想させる美しい青色だ。しかしその瞳の焦点は定まっておらず、男の輪郭をぼんやりと捉えているだけだった。

「悪かった。側近を離れさせるのに手間取った」

「美袋か。あれはなかなか頑固そうな男だからなあ……」

 男はそれを想像し、愉快そうに笑う。「なあ、傘くらい差したらどうだ、ユキ。その側近が怒るんじゃないのか」

「別に。俺はそれくらいどうってこと無……、ああ。悪いが、もっと近くに寄ってもらえるか。お前のことがよく見えない」

 そう言い、少年――帯刀雪は目を細めた。

 どうりでぼんやりした顔をしていると思った。単に彼は男の姿がよく見えていなかったのである。帯刀は「雨だとなおさら光の量が限られるので、より一層見えにくいのだ」と付け加えた。

 それは悪かった、と男は改めて帯刀のすぐ近くまで歩み寄る。それでようやく、帯刀は納得したようにひとつだけ頷いたのだった。

「お前だってこんなに濡れているじゃないか」

「俺は風邪ひかないし」

 身体は既に死んでいるからね、と男は淡々とした口調で言った。「それで、改めて連絡してきたってことは、取引に乗ってくれるということでいいのかな」

 そう、数か月前の“嫉妬”の一件があった日に、帯刀が男から渡されていた小さな紙切れ。それにはこの男の連絡先が記されていたのだが、直後に慶馬が取り上げ、焼却処分してしまった。ここまで来ると過保護もいいところなのだが、あいにく帯刀は慶馬より一枚上手だった。彼は一瞬目にしただけのその連絡先を完璧に覚えていたのである。

 一度エクレシア本部を離れ、彼は慶馬に悟られぬよう十分に下調べをした。先代である帯刀壬生が操作した情報を追うのは非常に骨が折れたが、それは帯刀雪という男が元来持つ根気強さがカバーした。今やこの男が求める情報の大半は持っていると自負してもいい。

 そして、帯刀は満を持してこの男に会うことにしたのである。

 帯刀はしばらくじっと押し黙っていたが、その後小さな声でぽつりと呟いた。そして、男の深海を連想させる深い青と銀の瞳を見上げる。

「そちらは、何を提供してくれる?」

「お望みのものがあれば、何でも」

 そうか、と帯刀は目を閉じた。雨の音に耳を澄ませながら、ゆったりと次の言葉を選んでいるようだ。凛とした澄んだ空気が、彼の周りに流れている。

 羨ましいこった、と男は内心考える。

「決めかねているのですか、王子。俺は何でも用意できますよ。その瞳の“聖痕”を抜く方法でも、なんだったら美袋の楔を抜く方法でもいい」

「それも悪くない、な」

 もう少し考えさせてほしい、と帯刀は言った。まだどうすべきか決めかねているようで、無表情のまま黙り込んでしまった。

 今、彼はとんでもない策略を巡らせているのだろう。そう思うと本当に恐ろしい。

 帯刀家の持ちうる全ての情報は、このたった一人の脳に蓄積されていると言っても過言ではない。

 その歩く記憶媒体である彼が直々に、それもたった一人で来るからにはそれなりの対応をしなければならない。そうは思っていたが、まさかここで決めかねている素振りを見せられるとは思っていなかった。

 男は小さく笑うと、

「急ぎの話ではないから、ゆっくり決めるといい。あっちに車を停めているから、そちらでゆっくり話そう」

 帯刀の手を引き、彼はゆっくりと歩き出す。男はたいそう機嫌がよく、へたくそな鼻歌を歌っていた。そのたびに白い息が立ち上る。

 ――男のその手は、氷のように冷たかった。


「本当に、防腐剤でも入っているんじゃないか。トマス」

「王子。だからそれは企業秘密だってば」


***


 男――トマスが運転する車の助手席で、帯刀はじっと自分の携帯電話の画面を見つめていた。着信が二分置き、メール受信なんか数え切れないくらい同一人物から入っている。そのメールを一件ずつ、決して邪険にせずに開封していた。

 そんな彼の姿を横目に、トマスはひゅうと口笛を吹いた。

「美袋からか?」

「ん、ああ。アレは単に過保護なだけだ。まだ俺たちには九時間の猶予がある、問題ない」

「心配してくれる人がいるってのはいいことだよ、ユキ」

 携帯電話を二つ折りにたたむと、帯刀は長ったらしい溜息をついた。今ようやく全てのメールを確認し終えたところらしい。だが、その疲れ切った表情から察するに、おそらく内容は全て同じだったのだろう。

 彼の手の中で、再度携帯が着信を訴えて震えた。

「帰ってこい、の一言に尽きるメールを百単位で送られてみろ」

「嫌だな、それは」

「だろ?」

 若いのにそこそこ苦労しているらしい。トマスは苦笑しつつゆっくりと車を走らせた。

 ワイパーが規則的に雨をかき分けてゆく。本当に、今日はよく降る。トマスは雨が嫌いだった。

「それで、トマス。お前が聞きたいことというのは『契約の箱』の所在と『白髪の聖女』の所在。この二点で構わないか?」

「ああ、結構だ。姫良真夜の方も教えてくれるのか? じゃあ俺も奮発しないといけないなぁ」

 それは難しい、と唐突に帯刀が呟いた。それを聞き、トマスが首を傾げる。

「どういう意味だ」

「『白髪の聖女』の所在は知っている。知っているが、それを教えたからといっておそらくお前たちはどうすることもできない。『契約の箱』は、正直なところ大まかな場所しか分からない。誰かの手によって、意図的に、かつ定期的に移動させているように見受けられる」

 そこまで言うと、じっと帯刀は押し黙った。

 しばらく次の言葉を待ったが、一向に帯刀は口を開かない。見かねて、トマスが代わりに口を開いた。

「君の先代じゃないの?」

「可能性は、ある」

「なら……」

「でも、違うんだ」

 帯刀がぴしゃりと言い放った。「何かがおかしいんだ。おかしいことは分かるのに、何がおかしいのかが分からない。何か、俺は重要なことを見落としている気がする」

 なんにせよ調べるには時間がかかる旨を帯刀は伝えると、トマスはひとつ頷く。

「まあ、『契約の箱』が絡むと何故か情報が錯綜するからな。俺の目には、まるで何度も何度も上手くいくまでやり直しをしているみたいに見えるね……、ん?」

 そこでトマスは何かに気付いたようで、突然ブレーキを踏み減速させ始める。

「あらら。お迎えみたいだぞ、王子」

 帯刀はぴくりと眉を持ちあげた。

 重く湿っぽい雪の中、大きな黒い傘を差しじっと立ち続ける背の高い男がいた。黒いスーツの上からダウンジャケットという出で立ちであるにもかかわらずその洗練された風貌に思わずはっとさせられる。彼ひとりが発する存在感、だろうか。遠目からでもそれを感じることのできる人物はそうそういない。

 トマスはそれが誰なのかすぐに理解でき、だからこそ諦めて車を停止させたのだった。

 傘を差した男はトマス・帯刀が乗る車を一瞥し、ふ、と白い息を吐き出した。傘を握る手には何も身に着けておらず、真っ赤になっている。きっとあの手は冷たくかじかんでいるのだろう。

 それと同時に帯刀はこうも思う。

 ああ、怒っている。あれは完全に怒っている。

「ところで、ユキはどうやってアレを追い払ってきたんだい?」

「ちょっと柱に縛り付けてきた」

 それは最早ちょっとのレベルではなかろう。

 呆れてトマスはため息をつき、仕方なく運転席側の窓を開け、顔をのぞかせる。そして呼びかけようと手を振ろうとし――

「やめろトマス。首が飛ぶぞ」

 帯刀の忠告が入った。そういうことは早く言え、というトマスの思考はあっさりと“それ”によって断ち切られる。

 傘を閉じ、男――美袋慶馬がその“柄”を抜いた。捨てられた“傘”部分は吹きつけた強風により空のはるか遠くへと飛ばされてゆく。そして手に残った柱部分――サーベルに近い形状をした細身の剣がトマスの首を切り裂いた。

 ぶしゃああああ、と、赤黒い液体が慶馬の頬を染め上げた。生ぬるい液体が放つ湯気は悪臭と共に立ち上り、慶馬は小さく舌打ちする。気持ち悪いと淡々と呟きながら。

 トマスだった身体はぐったりと、窓からうなだれていた。伸びた指先からはぱたぱたと血が流れ落ちる。

 剣を一度大きく振ると、それに付着した血液が綺麗に飛び散った。そして、慶馬は冷え切った左の親指で己の顔についた赤を拭う。その間の表情は、なにもない。彼は「こんなこと、心底どうでもいい」とでも言いたげにそっと息を吐き出した。

「雪。何をしているんですか。こんなところで」

「お前こそ。家で待機と、あれ程言っただろう」

「あなたを野放しにしておいたら、帰ってこないじゃないですか」

 それに俺はこの男を殺した訳じゃないですからね、と慶馬が付け足す。目を剥いたのは帯刀の方だった。

 確実に急所を突き、こんなに血が出ているというのに。この男はまだ「殺していない」と言うのか。気違いも大概にしろ。

 そう文句を言おうと帯刀が口を開いた――その時。

「――ったく、酷いな。一回死んじまったじゃねぇか……」

 ぴしぴしと、ひび割れるような小さな音が響き渡った。

 ぐったりとしていたトマスの身体が淡い黄色の光を放ち、己の傷口をゆっくりとふさいでゆく。ピクリと動いた指先は、動作確認をするかのように何度か小さく曲げ伸ばしを繰り返している。そしてとうとう、首の傷が全てふさがった。同時に淡い光がゆっくりと消え失せる。

「これは……」

 帯刀は驚きのあまり、その一連の出来事を思わず凝視してしまった。まるで身体についた小さな傷を何日かかけて自己修復するかのようなレベルで、この男はあの傷を短時間で修復したのだ。こんなこと、普通できるはずがあるまい。否、普通でないからこそ、彼は今“七つの大罪”に身を寄せているのかもしれないが。

 トマスは「やっぱ痛いなあ」と首をごきごきと鳴らしつつ、無表情でそれを見つめていた慶馬に言い放った。

「お前さあ、斬る前に一言“御免”とか“お覚悟”とか言えば、こっちだって対処できんだよ。いきなり来るな。余計な体力使っちまっただろ」

 そうですか、と慶馬が小さく言ったのを聞いて、よし、とトマスが後部座席を開ける。

「お前も乗れ。俺を二度も殺すことができたのは、お前が二人目だ。おじさん気にいっちゃった。ユキ、構わないな?」

「……ああ。慶馬、乗れ。手は出すな。彼は取引相手だ」

 慶馬は帯刀のその声を聞き、一礼した後、後部座席に座ることとなった。

 そして車は走り出す。行き先はまだ、この二人は知らなかった。

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