序章 1
雨が頬を強く叩きつけていた。
吐き出す白い息はゆったりと空に立ち上り、雨粒が全身から体温を徐々に奪ってゆく。ずしりと重くなった聖職衣がそれに拍車をかけ、より一層疲労感が増す。
「――は――」
ふいに唇から洩れた声は何の意味も成さなかった。ただ、自分を奮い立たせるために何か音が必要だっただけ。ぽたりと、長く伸びた前髪から滴が落ちる。
彼、ケファ・ストルメントは上がった息を無理やり身体にねじこむと、最後の祝詞を口ずさむ。
「『釈義完了――Amen.』」
己の身体を巡っていた高揚感が一気に静まり、一人路地裏に立ち尽くす彼は突如妙な恐怖に襲われていた。
「あつい」
背中が焼けるように熱い。何故だ、こうして『釈義』は正常に終了できたはずなのだ。それなのにこの背中がじりじりと焼きつくような痛みはなんだ。
黒く変色したコンクリートの壁に言うことの聞かない身体を預け、ぐったりとその場に座り込む。水たまりに自分の青ざめた顔が映し出される。雨粒の波紋で歪み、さらにひどい顔になった。
あまりに滑稽な光景だった。ケファは自嘲するかのように小さく笑みを浮かべると、ゆっくりと瞼を閉じる。雨が路上をはじき、そして自分の身体にしみ込んでゆく感覚だけを聴覚だけで楽しんだ。
もう季節は冬だ。この雨ももうじき雪へと変わり、大地を白く白く染め上げてゆくことだろう。すべて真っ白に染まった光景を一度でいいから見てみたい。――生憎、彼は生まれてこのかた一面の白というものを見たことがなかった。この街も比較的温暖なため、雪とは言っても大根おろしを連想させるびしょびしょの残骸しか残らないのである。それはとても無粋だ、と思う。きっと見渡す限りすばらしい純白に染め上げてくれるのなら、自分は子供のようにはしゃぎ倒すのだろうと容易に想像できる。
すべてを覆い隠して――
「……」
この身体も、きれいにまっしろにしてくれるのなら。
「これ以上の喜びは、ない」
未だ異常な熱を放つ背中を携え、その熱が冷めることをじっと待つケファは、そのまま浅い眠りに落ちた。
とても幸せな夢だったのだと、思う。
ぼんやりとしていて、輪郭は決して掴めない。夢の中の自分はそれを「何者であるか」よく理解しているようだった。手を伸ばし、それに触れようとする。そこにはきっとこれ以上ない最大の幸福があるのだと、そう思った。
しかし「それ」に触れることは叶わなかった。まるで投影機から映し出された映像に手を突っ込むかのように、僅かに歪みを来すだけでその手にはなにも掴めない。
そして思うのだ。
ああ、結局何も、掴めなかった――と。
がこん、という妙な音で目が覚めた。
アメジストの瞳がぼんやりと辺りを映し出す。
真正面の景色が淡々と流れてゆく。視界の隅の方で、ボンネットらしいものが雨に打たれていた。そういえば身体も、先程よりは暖かい。
「――目が覚めましたか」
右側――運転席から声をかけられた。ゆっくりと重たい頭をそちらに動かすと、その声の正体はかなり見なれた人物であった。褐色がかった肌、黒い髪。少々変わった光彩を放つアイボリーの瞳は真正面を向いている。彼はケファに気を遣ってか、なるべく静かに運転しようとしていた。
「……ホセ?」
「“大罪”の対応に出かけたっきり、なかなか帰ってこなかったので。心配してきてみたら案の定道端で野垂れているし、まったくあなたは変なところで無防備なんですよ。だから勝手に拾わせてもらいました。あしからず」
確かに無防備ではあった。そこは何も反論する要素がなかったので、ぐ、と言葉を詰まらせた。それからケファは左の窓に身を寄せるようにして全身の力を抜くと、再び目を閉じた。
「さむい」
「そりゃあそうです。あんな雨の中全身ずぶぬれでいたら、体温が下がるに決まっています。今夜はこの雨が雪になるそうですよ」
「ふぅん……、積もるかな」
「おそらく、びしょびしょになって終わりでしょうね」
「きれいじゃない、な」
「そうですね。……暖房の温度、上げておきます」
そこで再び目を開け、ケファは窓の外に視線を移した。
街はすっかりクリスマス一色だ。色とりどりのイルミネーションが街並みにぱっと華を咲かせている。買い物をする人々は愉しそうに、今夜の夕食の相談をしていたりプレゼントに頭を悩ませていたりするのだろう。何せ、今週末はクリスマスだ。
そこでふと、ケファの頭に三善の顔が浮かんだ。
「そうだ。ヒメの誕生日」
ヒメこと、姫良三善の誕生日は今月二十四日である。この業界ではとても素晴らしい日に生まれてしまった彼は、例年自分の誕生日を祝賀行事のために忙しく過ごしている。
ホセはああ、と小さく頷いた。
「ヒメ君もとうとう十六歳になるんですね。プレゼント、どうしましょうか」
「去年は何をあげたんだっけ? ――ああ、そうだ。一週間前に休暇を取って、遠出したんだ」
そう、去年は彼と一泊二日の旅行に出かけたのだ。ホセは例によって出張中だったので、帰ってきてからドイツのクリスマス土産をあげていた気がする。
何カ月か前、ホセがマリアを連れてきた日に靴を買ってやったら相当喜んでいたのをふと思いだし、ケファは「今年は形に残るものがいいだろう」と呟いた。
そう、普通の十六歳ならば欲しいものがあってもおかしくはない。ケファの場合普通の十六歳を知らないので説得力はないが、普通でないながらもそれなりに欲しいもののひとつやふたつあった。モノをねだることを知らない三善だから――唯一ねだったのが、ケファの銀十字だった――、リクエストなど絶対に言わないと思うが。
「そうですね。長く使えるものがいいでしょう」
ホセもそれに同意する。彼もまた、普通でない十六歳の経験者である。
それにしても、とケファは小さくため息をついた。
「ヒメ、せっかく司祭に昇格したのに。また幽閉生活に逆戻りだもんな」
「まあ、今彼に表を出歩かれるのはちょっと危険なんですよね。仕方ありません」
そう。現在三善はエクレシア本部から外に出ることを一切禁止されていた。
それというのも、聖職者のみを狙った連続殺人がここ一カ月ほどで頻発しているのである。犯人を特定する要素はなく捜査も難航、ただし被害者の全てに何か鋭利な刃物で一発切り裂いた痕があるというのが特徴である。いくらプロフェットといえど三善を外に出すのは危険と判断し、ホセは当分の間三善に外出禁止令を言い渡したのである。
本人はひどく不服そうにしていたが、「大司教になる人がこんなところで死なれたら困る」という旨を告げると渋々納得したようだった。
あの後、枢機卿・ジェームズに真正面から喧嘩を売ったという噂はエクレシア内で瞬く間に広まっていた。もちろん非難されることもあるようだが、逆にそれを前向きに捉え三善の味方をしてくれる司教も出てきた。元来のほほんとした性格である三善は自覚していないようだが、確実に教団は「ジェームズ派」と「三善派」に分裂し始めている。
「――予期せぬ方向に話が進んでいるんだよなあ」
ケファがそう呟くと、また瞳を閉じ、眠るように穏やかに呼吸し始める。ホセはそれを横目で確認すると、より静かに車を走らせるのだった。
「……ちょっと、寄り道しますよ」
そう、告げて。
***
ホセの車は、そのまま小さなホテルの駐車場に入った。
寝ていたせいで具体的な場所は全く把握できていないケファだったが、ふと目が覚めた時に唯一の異変にようやく気が付いた。
隣で運転しているホセの表情がやけに険しい。それはこの場所に起因しているのだろうか。そう判断し、ケファはそっと小声で話しかける。
「……ここ、どこ?」
「どこでもいいじゃないですか、そんなもん」
「いや、結構重要だと思うんだが」
無言で駐車すると、ホセは一度車を降り、助手席を勝手に開けた。そして驚くケファの首根っこを掴み、無理やりひきずり降ろす。
「えっ何? 何事?」
「行きますよ」
はあー? というケファの声は完全に無視され、ホセはそのままずかずかと中に入ってしまった。勿論、その左手はケファの腕を掴んで離さない。突拍子もない行動に驚く前に、まずケファはその表情にひどく驚いていた。
彼は明らかに怒っていたのである。
寝ている間に何かしただろうか、とケファはしばらく考えていたが、その原因が何も思いつかない。
そのままホセに引きずられ、最終的にとある一室に文字通り放り込まれた。勢い余って思わず前のめりに突っ込み、カーペットの上にべしゃりと倒れ込む。一体何が起こったのか、あまりに唐突過ぎて理解できない。俺が何をした。
「おい、てめッ……!」
反論しようとケファが身体を起こすと、ホセはそっと扉に錠を落としていた。そして携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始める。
黒い金属のボディが、やたら怪しげに光る。
「――あ、私です。こちらの準備はできました。あとどれくらいでこちらに着きますか?」
はめられた、とケファは直感した。なんだか理由はよく分からないが、このあと自分はこの男に何かまずいことをされそうな気がする。脳内で警鐘を鳴らしているのが分かる。
そのときようやく寝起きでぼんやりしていた頭が覚醒モードに切り替わった。これは逃げなくてはなるまい。あまり使いたくない『釈義』を展開してでも。裏切られた、という気持ちが先走る。
そう思いつつ、釈義の祝詞をあげる。
「『釈義(exegesis)てんか……』」
その時だった。
背中を何か強烈な痛みが襲った。まるで鋭利な刃物を突き立てられ、肉をぐりぐりとねじりながら傷口を開いていくような、とても通常では考えられない痛みである。あまりにそれがひどかったので、ケファは次の祝詞をあげることができず、へたりとうずくまってしまった。
ああ、しまったと思う。相手が悪すぎる。この男、ホセに『あれ』を見られては――。
荒い息を吐き出しつつ、ふと顔を上げるとすぐ近くにホセの顔があった。どうやら電話を終えたばかりのようだった。その手に握りしめていた携帯電話を懐にしまい込んでいる。
彼は異常に冷たい手をケファの頬にそっと当て、それからその腕を細い胴体に回してくる。身長の割に体重の軽いケファの身体はいとも容易く持ち上げられ、すとんとシングル・ベッドの上に降ろされた。
「……いつからですか?」
そして、恐ろしいくらいに優しい口調で尋ねてきた。「いつから、そのような状態に?」
「……」
「言えないくらいずっと前なんですか」
ケファはその間じっと押し黙り、シトリンのような淡く透明な彼の瞳を見つめていた。こちらからは何も言うつもりはない、そういう意図を込めて。
「とりあえず、上、脱いでくれます? 話はそれからだ」
無言でケファは首を横に振る。それは頑として拒否すべき事項だった。おそらくこの男が怒った理由はこの『背中』にある。脱いだら最後、何を言われるか。とりあえず怒られることは確定事項だと予想できるが。
「ちなみにこの部屋、初めからちょっと細工させてもらっています。『釈義』が完全に無効化されるようになっていますので、抵抗しても無駄ですよ。ほら、」
今まで身に着けていた外套――これを着ていた記憶はないので、おそらくホセが車に乗せた際に一緒に着せたのだろう――を無理やり剥ぎ、聖職衣の襟ぐりに手をかけられる。
「分かったよ! 脱げばいいんだろ、脱げば」
そこでようやく根を上げた。よくよく考えたら人に脱がされる方が嫌だ、だったらもう腹を括ってしまった方がいい。断然いい。
諦めに似た表情を浮かべながらケファはホセに背を向け、上着をゆっくりと脱ぐ。中に着ていたインナーシャツも適当に脱ぎ、その辺に放る。
「――これで満足か」
震える声。
その背中に浮かび上がるのは、赤い聖痕。ただし、その大きさが通常の比ではない。まるで背中一面をカンバスにしたような、巨大な十字がその背に浮かび上がっていた。そして先程無理に『釈義』を展開しそうになったせいで、その赤い痕からうっすらと血がにじんでいる。
ホセも正直、ここまでとは思っていなかった。一瞬声を詰まらせるも、穏やかな口調で言った。
「やっぱり。ブラザー・ジョーに聖水を送るよう頼んでいた時点で確認しておくべきでした。とりあえず清めましょう、痛ければ我慢せずに言ってくださいね」
多少動揺したようではあったが、それ以上彼は何も追及しようとしなかった。
ホセは自分の荷物から清潔なさらしを取り出し、聖水をたっぷりしみ込ませた。そしてそれを容赦なく傷口に当てる。
「――っ!」
声にならない悲鳴を上げ、悶えるようにシーツを握る。
「はい、我慢してー。息できますか」
「おま、我慢する、なって言、っただろ!」
「痛いのは変わりませんよ」
この野郎、と口から洩れたが、それも華麗にスルーされた。
「これから、“聖痕”専門の医者が来ますから。私の主治医ですが、エクレシアとは関係なしに動いてくれています」
「……呼んだのか?」
「ええ。どうせこんなことだろうと思いまして。本部でこの聖水を使うと非常に都合が悪いですし、彼女がこんなことをしていると知られるのもかなりまずいんですよ。だからわざわざ、こんな拉致みたいな状態になりましたが――」
気分を害したのならすみません、とホセは肩を竦める。
「彼女?」
「ええ、女性です」
その後、痛みが徐々に引いてきたのか、ケファの表情が和らいだ。そういうことなら早く言ってほしい。疑ってしまったことをひどく悔やみ、そしてこの痛みをどうにかできるものなら、と脳内で強く懇願した。
「ただし、ちょっと性格に難ありでして――」
その時だった。鍵をかけていたはずの扉がガチャリといきなり開き、妙なテンションで誰かが現れた。
「やっほーホセ君! 遅れてごめんねー!」
髪は男性のように短い赤毛、その左側を黒いヘアピンで留めている。瞳は褐色が灰色、だろうか。褐色がかっている。その第一声がドイツ語だったので、おそらくそのあたりの知り合いなのだろうと思う。
そんな『彼女』――ホセに事前に女だと教えられていなければ、間違いなく男性だと思うだろう――はベッドできょとんとする彼らを見て、ぴたりと動きを止める。そして二人の様子を何度か見比べ、最終的に、そっと扉を閉める。
「なんか、ごめん。続きをどうぞ」
「ちょっと待て。一体何を想像しているんだ、何を」
一応否定はしようとケファが口を開く。向こうに言語を合わせるべく、こちらもドイツ語で話しかけてみた。大分昔の記憶なので通じるかどうかはよく分からないが、彼女はその言葉に反応しおずおずと扉から顔を覗かせている。
「ホセ、こいつが?」
「ええ。お久しぶりです、ジェイ。急にお呼び立てしてすみませんでした」
「いいよ。ホセ君の頼みなら、海を越えるのも辛くないんだ。それにちゃーんと公休使ってきたもんね。それで、彼のことかな? 例の」
「はい」
ホセはケファの肩を叩き、今現れた彼女に紹介する。
「彼が“第一使徒”こと、ケファ・ストルメントです」
ふむ、岩の名を持っているんだねぇと彼女はかがみこみ、ケファの紫の瞳をじいっと見つめる。彼女は不思議な目をしている。なんだか見つめられるだけで、何もかも見透かされているような気持ちになる。
彼女はにっこりと微笑み、うん、やっぱりそうだと小さく頷いた。
「ああ、この人、本当に聖人なんだね。ここ最近で診察したどの人よりもいい。『十二使徒』に任命されていることは知っているけど、それもなるべくしてなったという感じがするよ。ホセ君も徳の高い人だと思うけど、正直彼には劣る。修行が足りないんじゃないの」
「そうですか。まぁ、彼は特別ですから」
本人を前にして気恥ずかしい話をされているケファは、一体どういう顔をすればいいのか分からず困り果てていた。よく分からないが、彼女はホセに劣らない変人だということは理解できた。
「うん、ボク、引き受けるよ。彼のその背中、どうにかできるようにしてあげる。気に入ったからね!」
そして彼女は満面の笑みを浮かべ、ケファと強引な握手を交わす。
「はじめまして、ケファ君。ボクの名前はジェイ・ティアシェ。普段はエクレシア科学研の所長をやっている。本職はお医者さんだから、時々ジェームズ君に内緒でプロフェットの『聖痕』の治療を行っているんだ。ボクの研究成果は……そうだな。有名どころだと後天性釈義を開発したのがボクだよ。A-Pプロジェクトを立ち上げたのもボク。少しは聞いたことあるでしょう?」
そう言って胸を張る彼女のテンションについていけず、ぽかんとしたままケファは黙っていると、ホセが横からぽつりと呟いた。
「どうでもいい話ですが、彼女はこう見えて私よりずっと年上です。少なくとも私が十歳くらいの頃にはこの外見でした」