終章 2
「三善の奴、面倒なこと考えやがって……よっと」
その頃、エクレシア科学研にケファはひとり潜入していた。固く閉じられた錠をいとも簡単に開けると、一階の窓から堂々と忍び込む。意外とこの施設はセキュリティが甘いな、とケファは呑気に構えていた。
彼が何故このようなことをしているかと言うと、数日前に遡る。三善がケファに対し突然このようなことを尋ねた。
――ケファってさ、鍵開け、得意だったよね。
――それがどうした。
――ちょっとだけ、僕に協力してくれる?
彼が提案したのはマリアの奪還計画である。マリアの処分を確定するための評議会が行われるので、そのどさくさに紛れてマリアを救出しようと三善は提案した。評議会が行われること自体はケファも知っていたが、まさかそれを利用しようと考えるとは。ケファが恐れおののいていると、三善はさらにけろっとした様子でとんでもないことを口にする。
――僕、ジェームズに「評議会に出席しろ」って言われているんだ。このときにちょっとした事件を起こそうと思ってる。その間なら、多分マリアを連れ出せるはず。ケファならできるでしょう? 僕を地上に連れ出したのと全く同じことをすればいいんだから。
そう言われると断れないケファである。
彼は元々教団内では異端視されているので、問題を起こそうが何しようがあまり関係ない。しかし、三善は違う。彼が大きな問題を起こすことは、彼の絶命と直結しかねないのだ。だからこそ危ない橋を渡ってほしくはなかったのだが、三善は非常に頑固で、一度言い出したら何を言っても聞く耳を持たない。それ故、ケファが折れるしかなかったのだ。
三善が言う「ちょっとした事件」に心当たりがあるケファは、思わず嘆息を洩らした。考えれば考えるほど、全てが面倒に思えてくる。ケファはすぐに思考を停止した。
ここはさっさとマリアを探すに限る。
ケファは館内を見回し、それらしいものを探した。彼女は結構目立つ外見をしているから、目に入りさえすればすぐに気がつくと思うのだが。
その時、突然奥の方でばたばたと物音がした。驚いて肩をびくつかせると、物陰から手が伸びて、こちらに手招きしている。なんだか気持の悪い光景である。
いざとなったら釈義を展開する心づもりでそちらに向かうと、ケファは思わず目を瞠った。
「みッ……!」
がぼっ、とケファの口を勢いよく塞ぎ、「しっ」と声を制止する。
その正体は慶馬だった。黒いシャツに同色のスラックスという出で立ちの彼は、こっそりケファを奥へと招き入れる。
「どうしてここに?」
尋ねると、肩をすくめながら慶馬が答えた。
「若の命令だ。ブラザー・ヒメラを助けるように、と」
つまり三善はケファだけでなく、天下の情報屋すらも動かしたらしい。末恐ろしい奴、というつぶやきは、敢えてケファの胸の内に留めておくことにした。
「君の探しているものはあちらで眠っている」
そう言いながら、慶馬はケファを奥へ奥へと導いてゆく。途中何枚かの扉があったが、それら全てを偽装カードキー――おそらく帯刀が作成したものと思われる――を用いて開けていった。不思議なことに、科学研に所属する職員らしき人物は誰ひとり見当たらない。ケファが首をかしげていると、慶馬がそれに気づいたらしく、さらりと答えた。
「先ほどそれらしい人たちをまとめて始末した。殺してはいない」
「ああ、そうですか……」
やはりこの男はどこか変だ。全く人のことは言えないので、ケファは細かいことは気にしないことにした。恐るべし、美袋。しかしそれを手懐ける帯刀の方がよっぽど恐ろしい。
そして最後の扉が開けられる。
暗い室内に、小さなベッド。それに横たわるのは亜麻色の髪をした少女だった。まだ廃棄されていないことに、ケファは心底安堵する。
彼女にそっと近寄り、頬に触れる。ひんやりとした感触に、ケファは思わず息を飲んだ。あの日彼女はどろどろに汚れ、破損個所も目立っていた。しかし今はそのいずれも修復され、初めて会った時のような美しい状態に戻っている。
「どうやら科学研も廃棄するか悩んだらしいな。修理した形跡がある」
慶馬も彼女を覗きこみ、首筋をそっと撫でる。彼は起動スイッチを探しているらしい。しかし、それらしいものがなかなか見つからない。しばらく考え、慶馬はスイッチ探しを諦めた。
「とりあえず運び出そう。おそらく起動方法はブラザー・ホセが知っている」
ケファがマリアを抱きかかえ、慶馬がそれを守るように先を行く。以前彼女を持ち上げた時には感じなかったが、その身体の大きさからは想像もつかない程に重たい。慶馬が起動スイッチを探した理由を、その時ケファはようやく理解した。
***
「なんだと……?」
ジェームズが驚愕の声を上げている。その姿を、三善は怜悧な眼差しで見つめていた。
ホセは呆然としつつ、毅然とした面持ちで対応する三善を仰ぐ。
この雰囲気が、記憶に残る大司教に非常によく似ていた。決して臆することなく、己の力だけでその場に臨む三善。ああ、彼はやはり成長しているのだと改めて実感した。
「先手を打たせてもらいました」
そこでようやく、三善は笑う。なんと恐ろしい光景だろう。その場にいる誰もがそう思ったに違いない。事実、他の司教たちは顔面蒼白状態だった。この助祭の命知らずな行為に肝を冷やすばかりだ。
ジェームズは小さく舌打ちする。
「この私を欺こうとは」
「先に欺いたのはあなたでしょう。本来、人工預言者の処分はこの評議会で決するはずだった。それなのに、あなたは評議会を行っている今このときに、廃棄の手筈を調えているという。あなたの対応に誠意は感じられない。神の御前で何たる無様なことか」
三善はさっぱりとした口調で続けた。「もしもあなたが我々大聖教の未来を決定し続けるというのなら、私は喜んであなたを脅かす存在になりましょう。私が、」
三善は小さく息を吐く。この瞬間、自分の未来は決定づけられる。三善はそれが心底恐ろしいと思った。しかし、きっと大丈夫だとも思っている。
己には、絶対の信頼を寄せる人物が大勢いる。彼らが思い悩むならば、いくらでも力を尽くそう。そのためにこの体は存在する。
それが答えだ。己の師が提示した、「自身の行く末」に対する。
三善は自分でも驚くほどに勢いよく啖呵を切った。
「私が次の大司教になる」
何かが彼を駆り立てていた。
三善の口からはっきりと「自分が教皇になる」と明示したのはこれが初めてのはず。しかし、彼のその無謀ともとれる発言に異議を唱える者はこの場に誰一人として存在しなかった。
彼の堂々とした態度がそうさせるのか。それとも。
沈黙を破るかのように、突然ジェームズが腹を抱え笑い出した。三善の発言が心底滑稽だったらしく、なかなか笑いが収まらない。ジェームズが人前でこれほどまでに笑うことなどあり得ない。戸惑った様子で誰もがその姿を見つめている。
「いや、失敬。あまりに無謀すぎて、つい。若さとはいいものだな」
ジェームズは笑いを堪えながら、絞り出すような声色で言った。
「姫良三善、自力で追いついてこい。私はここで待っている」
ブラザー・ホセ!
突然彼に呼ばれ、完全に傍観者と化していたホセは現実に引き戻された。随分とおかしなツボにはまったようで、ジェームズはまだ笑い続けている。
戸惑いながらも、ホセは返答する。
「な、何でしょう」
「来月……いや、できるだけ早く、ブラザー・ヒメラを司祭に昇格させなさい。そして、お前と人工預言者の処分は保留とする。異論はあるか」
さすがのホセもこれには驚いた。何故自分に不利になるようなことを彼がするのか、全く理解できない。さすがの三善もこれは想定外だったようで、ぽっかーんと口を開け放ったままジェームズを見つめている。
笑いを何とか抑え込むと、ジェームズは強い口調で三善の名を呼ぶ。思わず三善は姿勢を正し、頬をこわばらせた。
「さあ、条件は整えてやったぞ。精々頑張ることだな、姫良三善」
***
評議会はそのままお開きとなり、他の司教は既に退席してしまった。この場に残るのは、ホセと三善だけだ。
長く息を吐き出すと、ホセは未だ席に座ったまま呆けている三善を見遣る。彼はジェームズが座っていた上座を見つめ、ぴくりとも動かない。
なんと声をかけようかと思案していたその時、唐突に三善が口を開いた。
「ホセ。あの席、随分遠いね」
彼はただ、今は無人となっているただひとつの椅子を見つめている。それから彼はゆっくりと立ち上がり、ホセへと静かに向き直った。
「でもね、僕、あそこに座るから」
ホセにはっきりと言い放った三善の目には、なぜか大粒の涙が溜まっていた。瞬きをするたびに、足元に水滴が零れ落ちてゆく。
ホセは慌てて三善に近づくと、そっと声をかけた。
「あなたが泣くことなんかないじゃありませんか」
「こ」
「こ?」
「怖かった! すっごく、怖かったぁっ……!」
なるほど。あれほど毅然としていたくせに、実は口から心臓が出そうなほどに緊張していたらしい。三善らしいというか、何というか。ホセは呆れつつも、その細い肩を優しく叩いてやる。
三善はまだ泣いていた。プレッシャーから解放されたせいか、より一層激しく泣きじゃくる。
「……あなたというひとは」
まだまだ発展途上で、それでもその小さな背中にあらゆるものを背負おうとして。潰れそうになりながらも、自らの力で輝こうとする。
ホセはそんな三善を心底眩しく感じていた。
「ついていきますよ、どこまでも」
ホセの言葉に、三善は泣きながらも首を縦に動かす。本当に彼は不思議な人だ。だからこそ、あの暗闇から救おうと思ったのだが。
泣かないでください、と優しく抱きしめてやると、ぎゅっとさらに抱きついてきて、ホセはなんだか出会った頃の彼を思い出した。そういえば、昨日帯刀がハンカチがどうとか言っていたが、もしやこれを予想していたのだろうか。そう考えると、何も知らなかったのは自分だけかもしれないとも思う。ほんの少し疎外感を覚えたのは黙っておくことにした。
「……ちょっとクソ狸。何ヒメちゃん泣かしてんの?」
その時、背後から低い声が聞こえた。
ホセが振り向くと、不機嫌全開のケファがそこに立っていた。彼の腕の中には瞳を閉じたままじっとしているマリア、そしてすぐ後ろには慶馬がいる。
ホセがマリアの姿を捉えると、はっとしてケファの顔、抱きついたまま離れようとしない三善とを見比べた。
このとき、ようやくホセは三善の真の狙いを理解したのである。
なんで、とホセは震える声で尋ねる。今にも泣きそうな顔をしているが、あと一歩のところで踏みとどまっているようにも見えた。
「そいつが、自分のときと同じように助けろって言うから」
ほら、とケファはマリアを差し出した。
それを合図に、三善はそっとホセから離れた。ぐすぐすと鼻を鳴らしながらその光景を見つめている。
ホセの腕の中に、マリアの小さな身体が、そっと託される。今度は離さないようにと。そう、願いを込めながら。
ホセが彼女を受け取ると、一度強く抱きしめた。人ひとり分の重みを抱え、ホセは静かに瞼を閉じる。
「――ああ、ありがとうございます」
そして、彼は眠ったままの少女を起こすため、優しく歌う。
「『HIC EST ENIM CALIX SANGUINIS MEI,NOVI ET AETERNI TESTAMENTI』」
これは新しく、そして永遠なる契約の、私の血の聖杯である。
今度会う彼女は、一体、どんな子だろう。ホセが愛おしそうに見つめると、その長い睫毛がぴくりと動いた。ゆっくりと瞼がこじ開けられ、真っ赤な瞳がぼんやりと宙を見つめている。そして彼女の瞳は、ようやくホセを捉えた。
彼女は優しく微笑むと、そっと囁く。
「久しぶり、司教。やっと会えた」