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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
2.嫉妬の蒼き弾丸
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第四章 5

 扉をノックする音に反応し、ホセはふと顔を上げた。

 ちょうど布団の上で書類整理をしていたところだった彼は、一旦万年筆を置き、「どうぞ」と声をかける。静かに引き戸が動いた。

「ブラザー」

 顔を覗かせたのは帯刀だった。ということは慶馬も一緒か、と思ったが、どうやら彼はひとりらしい。帯刀はゆっくりと戸を閉めると、扉の脇に畳んであったパイプ椅子に手をかけ、ホセの脇に置く。

「こんな時に仕事なんかしなくていいだろう。ゆっくり休め」

「ただ寝ているだけというのも暇なんです」

 広げたパイプ椅子に腰掛けている帯刀に、ホセは不思議そうに尋ねる。

「美袋さんは? 一人なんて珍しいですね」

「あー、ちょっと」

 帯刀は実に歯切れの悪い様子でごにょごにょと言い訳をしている。その様子から察するに、勝手に慶馬の側を離れたのだろう。いつも凛とした姿勢でいる彼がこれほどまでに動揺することは滅多にないので、ホセは思わず苦笑した。

「それで、体調はどうだ?」

「全治一ヶ月らしいですが、多分私なら三週くらいで治りそうな気がします」

 あの後ホセはすぐに病院に運ばれ、腹部を数針縫っていた。あと少しで失血死するところだった、と後日担当医から聞いた。あの日ホセが感じていた「これは走馬灯かもしれない」という感覚は、あながち間違いではなかったのである。

 ――帯刀と慶馬が彼らの元に到着した頃には、既に全てが終わっていた。何があったのかを尋ねる帯刀に、三善は一言「ごめん」と言ったきり、詳細を語ろうとしない。代わりにケファが、「三善が“嫉妬”を浄化したのだ」と説明した。そして、マリアが突如暴走し、データの初期化を行ったことも全て彼の口から聞いた。

「“嫉妬”の件、本当にごめんなさい」

 ホセは微かに眉を下げ、申し訳なさそうに首を垂れた。「生け捕りにするつもりでいたのに。私のせいです」

「それは気にしなくていい」

 それに対し、帯刀はきっぱりと言った。「先に言っておいた通り、無理はしなくて良かったんだ。俺たちが生きている限り、何度でもやり直せる。それに、」

 そこまで言いかけて、帯刀は口を閉ざした。

 咄嗟に「このことはホセに言わない方がいいだろう」と判断したのである。

 まさかあの日、エクレシアを裏切った末『聖戦』の頃に死亡したはずのトマスが現れた、だなんて言ったら、ホセは動揺するに決まっている。今の彼に無駄な心労はかけさせたくなかった。それに、トマスは帯刀に「『契約の箱』の所在を確認している」。彼のこの行動のおかげで、帯刀は確信した。

 彼らは、次は確実に『契約の箱』を奪取しに来る、と。

 それに? とホセが次の言葉を促す。

「……それに、俺たちには切り札ができた。みよちゃんが『秘蹟』を使えるなら、以前よりもっと“大罪”に接触しやすくなる。チャンスは何度も巡ってくるだろう。だから、あれは決して徒労ではなかった。あなたがたには本当に感謝している」

 強いて言うなら、あの日の三善の様子がおかしかったことが気がかりではあるが。

 なにかあったのかもしれないが、それについて三善は誰にも話していないようだった。三善のことだから、取るに足らない内容と判断したのかもしれない。しかし、確かにあの日以降三善の態度が変わったことは確かだ。

 そうでなければ、いきなり『あんなこと』を言い出すとは到底思えない。

「それで、ブラザー。マリアのことなんだけど」

「ああ、明日評議会なんですよね」

 帯刀の問いに、ホセはあっさりとした口調で返した。「私はこの通りなので、代理を立てろと言われています」

 そう、明日マリアに対する評議が枢機卿団の中で行われるのだ。議題はA-Pの暴走について。元々「A-Pについて何か不測の事態が発生した場合はすぐに廃棄処分」という取り決めがなされていたそうだが、帯刀が「あくまで彼女は“嫉妬”の能力に影響されたのだ」と枢機卿団に直訴したのである。もちろん、帯刀だけの主張であれば取り付く島もなかっただろうが、科学研が全面的に帯刀の主張に賛同したことで事態は大きく動いた。彼らはマリアから採取していた数々の記録を元に、“嫉妬”による星形の烙印がどのようなメカニズムで機構に影響したのかを定量的に証明したと言う。つまり“七つの大罪”が持つ能力の一つを、科学的根拠を元に解析できたという訳だ。彼女が“大罪”に関わることで、より大聖教が優位になる情報が得られるのではないか、というのが科学研の主張である。それは確かに、枢機卿団としても魅力的な内容だった。

 そんな経緯があり、マリアの処分は一旦評議会に委ねられることとなったのである。

 帯刀の口からは彼にそこまで詳しい経緯を伝えてはいなかったが、おそらくA-P関係者から説明されてはいるのだろう。ホセの様子は非常に落ち着いており、むしろ淡々としていることの方が気になった。

「でもまあ、出るつもりではいますけどね。私が出ないでどうするんですか」

「確かに」

 帯刀は小さく頷いた。

「なあ、ブラザー。あなたは、マリアをどうしたい?」

 その問いに、ホセはぴたりと動きを止める。彼の独特なアイボリーの瞳に、このときようやく微かな動揺の色が見受けられた。

「それは、どういう意味でしょう」

「プロジェクトの意向とか、そういうのは無視して、率直な考えを聞きたい」

 帯刀の言葉に、ホセは彼が何を言わんとしているのかすぐに理解した。暫しの逡巡ののち、のろのろとした口調で答える。

「……もしも、ゆるされるならば。私はあの子のことを助けたい。あの子に罪はないのです」

 ホセは淡々とした口調で続ける。「こんな言い方は神父わたしらしくありませんね。あの子の暴走は『罪(crime)』には当てはまるでしょうが、『罪(sin)』ではない。ならば、私がやるべきことは既に決まっています。あの子の罪を赦すのは、私の、私だけの責務です」

 なぜそんなことを? とホセが怪訝そうな表情で尋ねる。

 帯刀は小さく頷き、それから首を横に振った。

「何でもない。でも、それを確認できて本当によかった」

 さて、と帯刀は立ち上がり、体を大きく伸ばした。肩まで伸びる茶色の髪が、刹那、さらりと揺れる。

「俺がブラザーに会いに来たのは、本当はこんな話をするためじゃないんだ。明日の評議会のあと、しばらく本部を離れようと思う。それを言いに来た」

 一応ホセがエクレシアの人事権を持っているということで、最低限の所在を伝えておこうという配慮だった。

「ご実家に戻られるのですか?」

「いや。でも、国内にはいるよ。何かあったら電話してくれ」

「分かりました。どうか無理はなさらず」

 ああ、と帯刀は頷くと、引き戸に手をかけ――何かを思い出したらしく、唐突に踵を返した。

「あ、ブラザー。ひとつ言い忘れたことがあった」

 なんです? とホセがきょとんとしながら尋ねると、帯刀はいたずらっぽく笑って見せた。

「明日の評議会、ハンカチが必要になると思う。必ず準備しておいて」

 そう言い残し、彼は部屋を出て行った。

「……ハンカチ?」

 一体何を言っているのやら。ホセは首をかしげるも、深く考えないでおくことにした。すぐに頭を切り替え、再び書類に目を落とす。

 しばらくは黙々と仕事をこなしていたホセだったが、徐々に文字を眺めることに嫌気がさしてきた。作業効率も悪くなってきたのを自覚したので、彼は一旦作業する手を止める。

 凝り固まった肩をほぐしていると、その時、タイミングよく戸を叩く音が聞こえてきた。今度はホセが返事するより前に戸が開けられる。

「ホセ、ちょっといい?」

 声の正体はケファだった。

「あー、はい。なんです? 今なら大体のことは答えてあげますよ」

 つまりは体のいい暇つぶしにしようとしたのだった。

 ケファはベッドの上に乗せられた書類の山を見ると、彼の発言の意図を察したらしい。至極面倒そうな表情を浮かべると、

「俺は用足ししに来ただけなんだが」

「用、ですか?」

「これ」

 ケファはその手に握りしめていた封筒をホセに渡した。

 消印はない。少し不審に思ったが、その封筒に綴られる名前を目にすると、ホセはようやく納得する。

「ああ、なるほど。ありがとうございます。確認します」

 封筒に綴られていたその名は、ジョー・ストルメント。ケファの養父である彼は、フランスの小さな教会で孤児院を経営している。ホセとは主に『聖水』に関することでかねてより親交があり、年に数回個人的なやりとりを交わす仲でもあった。封筒に宛名がないということは、おそらくケファ宛に荷物を出したついでに一緒に手紙を入れたのだろう。

「じゃあ、確かに渡したからな」

「あ、ちょっとちょっと。あなたはなにかないんですか。主に労いとか」

 その問いに、ケファは「はぁ?」と露骨に嫌そうな顔をした。おそらく言いたいことは山ほどあるのだろうが、この場では敢えて何も言わないことにしたらしい。彼はたった一言、吐き捨てるように言った。

「お前は無駄に頑丈なんだから、すぐ治るだろ。以上」

「そ、それは否定できない」

 ところで、とホセは言う。「あなたは大丈夫なんですか」

 ケファの眉がぴくりと動いた。しかしそれはほんの一瞬の出来事で、すぐにいつもの怜悧な表情に戻る。そのため、ホセは見間違いだったろうかと思う。

「ああいや、気のせいかな。なんとなく体調が悪そうだと思ったので」

「別に」

 ケファはホセの言葉をバッサリと切り捨てた。「俺じゃなくて、自分の心配をしろ」

 そういうや否や、さっさと居室を出て行ってしまった。

 なんだかいつになくそっけない気もするが、思い違いだろうか。ホセは少し考え、「否、あれはいつもそっけない」と自身の問いに解を導き出した。

 そういえば、彼は“嫉妬”戦の前に随分無理をしていたように思うが、あれは一体なんだったのだろう。変なことに首を突っ込んでいなければいいのだが。

 そう思いながら、ホセは今受け取った手紙に手をかける。

 ペーパーナイフで丁寧に開封すると、便箋数枚に渡る長々とした文面が綴られている。季節の挨拶から、今ここで書かなくてもいいだろう雑談まで。ブラザー・ジョーという男は話し好きなのである。

 しばらくそれを眺めていると、ぴたりとホセの手が止まる。

 そこに書かれていた一文をもう一度読み直すと、やはり書き間違いでなかった。

 ホセは思わずベッドから降りると、そのままスリッパを引っ掛け、居室から飛び出した。

 当然のことながら、そこには既にケファの姿はなかった。追いかけることも考えたが、急激に腹が疼いたのと、出歩いているところを医務官に見つかり鬼のような形相で叱られたので、彼はしぶしぶ居室へ戻る羽目となる。

 まさか、とホセは思う。


 ブラザー・ジョーの手紙には、こう書かれていた。


 ――久しぶりにケファから連絡があったと思ったら、聖水を送ってほしいと言い出した、と。

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