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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
2.嫉妬の蒼き弾丸
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第四章 4

 マリアの業火がケファに襲いかかる。それをやっとの思いでかわし、彼はマリアの背後にその身を寄せた。両手を伸ばしマリアを拘束しようとする。だが、彼女の背中から隆起する鋼の翼がケファの身体を傷つけた。鈍い痛みが電流のように走る。その痛みを堪えながら、ケファの両手はとうとうマリアの身体を捕らえた。

 その目に飛び込んできたのは、星型の烙印だ。

 ケファはやはりか、と小さく舌打ちする。おそらく“嫉妬”が仕込んだものだろうが、これがある限り誰も彼女のことを傷つけることができない。“嫉妬”を浄化すれば烙印は消えるかもしれない。先ほどはそう思ったので三善に無茶振りをしてみたが、三善が『秘蹟』を展開した後も尚この状態は続いている。

 三善、と小さく呟くと、腕の中でもがく彼女を離さぬよう両腕に力を込めた。

 彼女は何度もごめんなさいと謝りながら『釈義』を展開する。あふれ出る多量の聖気に、思わずくらりと眩暈がするほどだ。

「ペテロ」

 救いを求めるように、マリアはその名を呼ぶ。「お願い、壊して。そうでなければ、司教に初期化するよう言って」

 刹那、鋼の翼がさらに大きく広がった。刃物のように鋭い翼が、ケファの左頬にうっすらと傷をつける。

「それはできない」

 ケファははっきりとした口調で言い放った。

「ペテロ、」

「――大丈夫、大丈夫だから」

 ケファは彼女の背後からそっと囁く。せめて心が安らかになればと、まるで己に言い聞かせるかのように繰り返した。

 これほどまでにひどい状況に陥ってもなお、ケファの考える選択肢には、マリアの破壊、初期化という単語は思い浮かばなかった。脳裏に浮かぶは彼女の主人だ。あれがここまで到達するのに相当な労力を割いていることは知っているし、何よりこの少女を、彼は「ひとりの人間」として見ていることも既に気づいていた。

 彼女が来日した日に議論したことを思い出す。

 ――このアンドロイド製作という議題においての最大の問題点は、ロボット開発が神の創造行為を侵食する冒涜行為と見做されるか否か。

 たとえ教義に反する可能性があると分かっていたとしても、彼は彼女とどこまでも対等であろうとした。おそらくこのプロジェクトに関わった誰よりも、あの男はこの件について深く考証し続けていたのだろう。故に彼の決断は初めから筋が通っていた。

 だからこそひどく妬ましい。あの男は常に己の先を行き、誰よりも早く全ての世界を目の当たりにする。人がその境地にたどり着くために費やす膨大な時間を、彼は容易く跳躍していくのだ。

 ケファは短く息をついた。

 ならば、最善の解はもう用意されているようなものだ。

 三善が大司教と代わらずに同じだけの能力を行使できると理解したのは、つい一時間ほど前。この場所に向かう途中に放った聖火を見てのことだ。元々三善は『解析』を行使できる能力がある。あらゆる釈義はその脳内で数式に置き換えられ、解を求めればそれと同等の能力を再現できる。権能が足りずとも『秘蹟』を行使できたのは、無意識に解析した結果と考えて差し支えないだろう。

 もうひとり、妬ましいほどの才を持つ少年の名を呼ぶ。

「三善!」

 それはちょうど三善が『釈義』を展開し、ケファのほど近くまでやって来たところであった。三善は凛とした面持ちで浮上すると、ちらりとマリアを見た。

「教皇……」

 彼女はのろのろと首をもたげ、か細い声を上げる。予想外にひどい状態なのだと、このとき三善はようやく理解した。

「もう一度、秘蹟を行使する余力はあるか」

 暴れるマリアを必死で取り押さえつつ、ケファは尋ねた。

「僕が?」

「お前以外に誰がいる!」

 ケファの怒号にも似た声が三善をせかす。

 三善は涙目になりながら、眉をぐっと下げた。「さっきのはたまたま偶然」と言いたかったが、そう主張すれば確実に叱られる。

 しかし、だが、しかし。

 三善は無意識に首に下げた十字架に触れた。傷だらけの銀十字、その表面を指先でなぞると、不思議と気持ちが落ち着いてゆく。

 この傷を一緒に背負うと決めたのはどこのどいつだ。そんな声が、胸の内に何度もこだましている。

 三善はそのまま銀十字を握りしめた。

「――あと一回なら、大丈夫。体も持つと思う」

 塩の翼をはためかせ、高度をゆっくりと下げてゆく。

 とにかく、マリアを停止させればよいのだ。うまくできないかもしれない。しかしなにもしないよりは、断然いい。

 記憶にぼんやりと残る、もう一人の“自分”が起こす『秘蹟』の効力が届く範囲まで下りてきた。自分の容姿ととてもよく似た少女が、はらはらと涙の滴をこぼしている。

 三善はその瞬間腹を決めた。

 彼はマリアを力いっぱい抱きしめると、それから身体を投げ出すかのように一気に急降下した。

 塩の翼は途中で全て砕け散った。もう身体を守るものはなにもない。しかし、不思議と怖くなかった。

 マリアの体は驚くほど熱い。炎が全身を焦がし、灰となって朽ちてしまうかと思った。しかし今ここで意識を失う訳にはいかない。歯を食いしばり熱さと痛みに耐えると、三善はひたすらに願った。

 彼女が少しでも癒されるようにと。

「教皇、なんで」

「なんで、って」

 三善はきっぱりと言い放つ。「君がいなくなるのは、嫌だ。君がよくても僕が嫌だ。僕が好きだと思う人が大切にしている『人』を大事にしてなにが悪い」

 その言葉に、マリアの体が大きく震えた。

「初め会ったときは、ごめん。君に少し嫉妬した。ホセを取られた気がしたから。だけどそれは決して君を壊す理由にはならない。そう思う」

 三善は胸の内にいるだろう「あの人」に問いかける。彼女を救うための力を貸してほしい、と。

 みよし、とマリアの唇が微かに動いた気がした。しかし、その声は三善に届いていない。空を切る音が彼らの対話の邪魔をする。

「願わくは、君の生が真に正しくありますよう。だから僕は最善を尽くすだけ」

 願い事は三回。昔、誰かから聞いた言葉を思い出す。その姿は蜃気楼のように揺らいでいて、今もなお思い出すことはない。だがその声が、その人物が誰なのかを暗示しているようにも思えた。

 夢の箱庭の、たったひとつこぼれ落ちた希望だ。

「『Sanctus,Sanctus,Sanctus』」

 典文カノンを口ずさむ。それは祈りの言葉でもあり、決意の言葉でもあった。あらゆる感情が包括され、一縷の祝詞と化す。

「Agnus Dei,qui tollis peccata mundi;dona eis requiem sempiternam.」

 その時だった。マリアの身体がぴくりと動く。

主人マスター……?」

 三善が改めて秘蹟を展開しようとしたのを、その声が引き止めた。


***


 その時、彼らは聞いたのだ。

 終わりを告げる歌を。


***


「――Amen.」

 歌い終えたホセの声は微かに震えていた。

 彼の歌は“初期化”を起動するトリガーでもあったのだ。

 このたったひとつの決断をするために、彼は多くの犠牲を生み出した。本来“嫉妬”を制圧し未来あるプロフェットたちの手助けをしなければならないはずの自分が、恣意に身を任せたためにこのような結果となってしまった。

 マリア、ごめんなさい。

 ホセの唇が微かに動く。

 彼女はほんの少し悲しそうな顔を浮かべ、それから何かをぽつりと呟いた。それを耳にした三善は、ただじっと彼女の過熱した身体を抱きしめる。

 ――さようなら、わたしの主人。

 そのこめかみから、いつしか星型の烙印は消え去っていた。

 三善は地上へ降り立つと、マリアをゆっくりと瓦礫の上に横たえてやる。

 彼女は随分と汚れてしまっていた。ビスク・ドールのように白く美しい肌は煤と血でべったりと染まり、淡い色のワンピースもぐちゃぐちゃになっている。ただひとつ、真中からぽっきりと折れてしまった銀十字だけが唯一まぶしいくらいに美しい輝きを放っていた。

 傍らにホセがゆっくりとしゃがみこみ、彼女の頬を手の甲でゆっくり撫でてやる。今にも動き出しそうだった。徐々に冷めてゆく体温がようやく彼らを現実へ引き戻す。

 ケファも『釈義』を完了させ、ようやく地へ足をつけた。唇からこぼれる荒い息を無理やり押し込めながら、彼の決断を静かに眺めている。

「……ヒメ君。ケファ。ありがとう」

 ホセがぽつりと、本当に小さな声で言った。「マリアを傷つけないでくれて、ありがとう」

 これはただの我儘だと、そう分かってはいたのに、自分で手を下すのが怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。どうしてこんな気持になるのかも分からなかった。

 ただ、もしもこの子を失う時が来るのなら、その時は自分もこの世から消えるべきだと漠然と思っていた。今も、そう思い続けている。

 あの日ホセが立てた誓いは、決して違えることがなかった。

 ――あなたは私のためのプロフェットですが、その前に、私はあなたを一人の女の子として扱いたい。

「それでも、お前は自分の手で終わらせただろう」

 ケファがおもむろに口を開いた。

「……ああ、この歌を歌う日が、こんなにも近いとは思っていなかった――」

 ホセが俯いた。ぱたぱた、と足元に水滴が落ち、そして大地にゆっくりとしみ込んでいくのが分かった。

 三善はそっとマリアの横に跪き、髪をゆっくりと梳いてやる。そして、最後に彼女の手に触れた。炎で焦げた跡から、僅かに内部の機械部分が覗いていた。赤い配線が、銀のパーツが、深淵からじっとこちらを覗いていた。

 とても不思議な気持ちだった。きっと修理すれば彼女の身体は動くのだろうが、彼女はすでにどこにも「存在しない」のだ。胸の内で、ひとつの疑問が沸き上がる。

 生命とはなんだろう。

 三善が持つ概念では、それらを全て説明することができなかった。三善の中で彼女は確実に“生きて”“この場所”に“存在”していた。それなのに、彼女は初めから「生命」の理から外れていたのだと言う。

 この自分の中にあるもう一人の“自分”もそうだ。これですら、本来は死んでいるはずのものだと人は言う。本来そこにあってはならないものとして語られる。それなのに、三善は、三善だけは、確かにここに「在る」のだと認識できるのだ。

 ふと、頭上から何かが落ちてきた。三善はゆっくりと宙を仰いだ。

「あ……」

 青い花弁だった。雪のように降り注ぐそれは、まるで空のかけらが地上へ降り積もってゆくようにも見えた。

 空の分け前を享受して、再び三善は瞳を閉じる。

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