第四章 3
三善は力強く一歩踏み出し、剣を大きく振りかぶる。それを“嫉妬”へ向けて振り下ろすと、空を切る凄まじい音が耳を劈いた。しかし、“嫉妬”の身体はまるで花弁のように身軽だ。ひらりと剣を避け、身を翻すと同時にトリガーを引く。剣の風圧によりいくつかの“弾丸”は弾き飛ばされたが、運よく軌道の逸れた弾がいくつかあった。それらは三善の死角へと回り込む。
「っ!」
細い身体に弾が当たった刹那、三善の表情が微かにひきつった。先ほど展開した“傲慢”の鎧により、三善の身体に傷がつくことはない。だが、この“鎧”は衝撃を受けた際の痛みまでは中和されないのである。紅き鎧は最強かもしれないが、完璧ではなかったのだ。
このままで埒が明かない。
三善は小さく舌打ちし、次の行動を瞬時に組み立てた。“嫉妬”の弾丸をかわしつつ剣を横に大きく振るうと、瓦礫の山にそれをわざと突き立てた。
一見勝負を捨てたような行動に、“嫉妬”は思わず目を丸くした。
三善は突き立てた剣を踏み台にするや否や、そのまま彼へと身を投じる。彼の両肩を掴むと、勢いに身を任せ地面に叩き付けた。予想外の行動と、全身を襲う痛み。“嫉妬”は肩で息をしながら、馬乗りになっている三善を睨めつけた。
三善はその紅玉の瞳をじっと少年の眼へ向けると、ふと彼の右手に握られたままになっている銃器の存在に気が付いた。
喘鳴交じりに、三善は淡々と言葉を吐き出した。
「まずは、その銃か」
三善は“嫉妬”がろくに身動きをとれないことをいいことに、彼が握っていた銃器を奪い取り、遠くに放り投げた。少し離れたところで、金属が地面に落下する音が聞こえる。
完全に丸腰になった“嫉妬”は、既に諦めにも似た表情を浮かべていた。目の前にいる少年の姿をした怪物には到底敵うわけがない。そう言いたげに、瞼を閉じる。
体が酸素を欲している。普段ここまで派手に動かない“嫉妬”は、半ば永遠の命を持っているにも関わらず身体の衰えを感じていた。所詮は借りものなのだと、肉体が訴えているような気さえする。
目の前で己を見下ろすこの少年も、それと似たようなものなのだ。否、それよりももっと残酷かもしれないと“嫉妬”は思う。本来の持ち主がいる状態で好き勝手に身体を使われるだなんて、一体どんな拷問だろう。
「――ああ、残酷かもしれないな」
さらに、突然三善がそんなことを言いだしたものだから、“嫉妬”は何かおぞましいものを見ているような気持ちにさせられた。まるで心すら見透かされているようだった。
そして彼は、驚くくらいに優しい面持ちで言うのだ。
「次があれば、また会おう。Invidia」
そして、彼の権能が持ち合わせる最高の祝詞を口ずさむ。
「“Fiat eu stita et pirate mundus.Fiat justitia,ruat caelum.”」
「ヨハネ――」
「『秘蹟、』」
その時だった。三善の表情から突如鋭さが消えた。同時に、吐きそうなほどに垂れ流されていた聖気がみるみるうちに減少していくのを感じる。彼は大きく目を見開いたまま、“嫉妬”を静かに見下ろしていた。
「――え?」
そして、三善は明らかにこのタイミングで口にしないだろう一言を口にしたのだった。
その独特の赤い瞳には狼狽の色が浮かび上がっている。何故自分がこんなことになっているか、全く理解できないといった様子である。
「……なんで、君は、ええと、」
途端に三善が挙動不審に陥るので、呆れた“嫉妬”はすぐに上体を起こし、三善の体を突き飛ばした。あっさりと離れたうえ、しりもちをついた三善に対し、“嫉妬”の復讐が始まる。
形勢逆転、“嫉妬”に押し倒された三善は、ぽかんとしたまま彼の青い瞳を見上げている。
「『今回は』はじめまして、だね。姫良三善」
“嫉妬”が吐き捨てるように言った。「なんかものすごく間が悪かったね。莫迦なの、君は」
「なんで僕の名を――」
「自分で名乗ったでしょう」
否、正しくは三善の身体を介して現れた大司教から、だが。
「まあ、こっちとしては非常に好都合なんだけど」
“嫉妬”がちらりと遠くへ目を移した。三善もそれに倣い、恐る恐る同じ方角を見やる。
そこには信じられない光景が広がっていた。
マリアが何故かケファに攻撃していたのだ。その表情はひどく辛そうで、何かを泣き叫びながら彼へと短剣を振るっている。その短剣が突然ぐにゃりと大きくうねったかと思えば、後に巨大な槍の形状に変化した。
鋭い金属のぶつかり合う音。ケファが明らかに無理をしているのが分かる。咄嗟に変な構え方をしたせいで、彼の両腕が悲鳴を上げているのだ。彼はその攻撃を『十二使徒』の杖でなんとか凌いでいるが、力負けするのは時間の問題だろう。まさかこんなに小さな身体の少女が大の大人を脅かす脅威になろうとは。
そんなマリアを、ホセが背中から抱きすくめた。彼は必死に彼女を止めようとしているが、ホセ自身が思いのほか消耗しているのが気にかかる。今にでもマリアはホセを振り切りそうな勢いだ。
「なんで……」
三善が呟く。
マリアはとうとうホセを振り切った。長い槍を大きく構えると、ケファの心臓めがけて勢いよく突いた。
ケファはそこで再び翼を展開し、宙へ高く飛び上がった。致命傷を負うことはなかったが、代わりに取り落した紫の肩帯に大きな穴が開く。
先ほどから見ていると、どうもケファはマリアに対して攻撃はしていないらしい。ただ防御だけに徹しており、これ以上彼女を傷つけないというそれだけに労力を費やしているようにも見えた。
しかし、マリアは容赦なくケファの身体を突きにくる。元々ホセの能力に合わせて作られたというだけあり、基本的な能力値が並大抵のものではない。正直攻撃したところでかわされるのがオチだろうとも思う。
マリアもケファ同様鋼の翼を展開し、再びその切っ先を彼の状態へと構えた。今度は明らかにかわせない距離だ。
「『深層(significance)・発動』!」
やむを得ずケファが『釈義』を発動した。燃え上がる聖火がケファの眼前にあふれ出て、盾のような形状になる。炎に触れた槍の先端部分は灰へと変換された。ようやく、彼女の槍を封じることができたのだ。
そうしている間も、ケファは考えることを止めない。彼はふと三善へ目を向け、――すでに教皇の気配がないことや“嫉妬”に組み敷かれていることに対して言葉を失ったものの、すぐに必死の思いで叫ぶ。
「三善! そのままそいつを浄化しろ!」
マリアが聖火を放った。竜の如くうねる炎の渦を、塩の翼をはためかせ寸でのところで回避する。ケファに余裕がないことは明白だった。そうでなければ、こんなにも無茶なことは言わないはずだ。
「――浄化?」
少年がぽつりと呟く。「君はそんなことできないだろ」
三善もそれに激しく同意したかったが、そんなそぶりを見せれば一発で殺されると思った。根拠はない、ただの勘というやつだが、こういう時の三善の勘は当たる。それを自覚している三善は、己の師に倣って至極真面目な顔をしてみせた。
それを見て、“嫉妬”はどう取ったのだろう。
「おい、まさかお前……」
かかった。
三善はほんの少し前に「あの人」がやって見せたことを思い出しながら、それを真似してみることにした。ここでは、“嫉妬”に対し嘘をつき通すことが目的だ。少しでも隙ができたならば、その隙に逃げる。そう決め込んだ。
「“Fiat eu stita et pirate mundus.Fiat justitia,ruat caelum.”」
体に不思議な熱が回り始める。『釈義』を展開しているときのそれとは全く別物であるはずなのに、不思議と心地よい。
この正体はなんだろう。
三善はただ、胸の内でぼんやりと残る「あの人」の威光を追う。
「『秘蹟(Sacramentum)・展開』」
その時、三善の身体から白金の炎が噴き出し、“嫉妬”に燃え移る瞬間を目の当たりにした。優しい炎が彼への身体を巡ってゆく。不思議と熱くはなかった。ただ、大司教を連想する莫大な聖気が、どろどろと頭の先からつま先までを流れてゆくのを感じる。
全てが再構築させられるその感覚に身を委ねながら、“嫉妬”は思わずうわごとのように呟いた。
「ああ……やはり、この子供が、」
“嫉妬”は「なあ」と三善に声をかける。
「遺言だ。受け取れ」
三善の頭に嫉妬の手が伸びた。そのまま鷲掴みにしたかと思えば、三善の脳裏に強烈な量の情報が流れ込む。
「はっ――?」
***
その問いは、一体何度繰り返されただろう。
見知らぬ男が、裾の長いコートを見にまとう人物に白金色の炎を放っている。
その人物は、その時によって別々の出で立ちをしていた。青年のときもあれば、少女のときもある。老婆のときもあれば、赤子のときもある。
しかしながら、その人物は決まって男に対しこのように尋ねるのだ。
あなたは何回目だ、と。
男は答える。
徐々にカウントアップされてゆく数字。必ず連番という訳ではなく、ところどころ抜けてはいるが、相当な数を挙げているは理解できた。
***
三善ははっとして“嫉妬”を仰ぐと、その頃には既に彼のほとんどが浄化されてしまっていた。三善の身体が、徐々に青い花弁に満たされてゆく。
これは、どういう意味だ。三善は何度もそう言おうとしたが、不思議と声が出なかった。“嫉妬”は、おそらく三善が何を言わんとしているか理解していたのだろう。先ほどまでの獰猛さとは比べ物にならない程、至極落ち着いた声色で言った。
「この意味に気づいたら、きっと終わりの日は遠ざかる」
“嫉妬”は言う。「どうかあなたが、『最後』でありますよう。僕がこんなことをするのは、あなたが初めてだ。その意味を、よく考えて」
「まっ……!」
待ってくれ、と言おうとした刹那、一際強い風が吹いた。思わず目を閉じると、独特の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
風が収まった頃にようやく目を開けると、三善は青い花弁に包まれてただ寝転がっているだけだった。先ほどの白金の炎も、“嫉妬”の姿も、どこにもない。あるのはただ、異様に濃い己の釈義の残滓だ。
三善はそのままぼんやりと宙を仰ぎ、少年が残した最後の言葉を思い返す。
――どうかあなたが、『最後』でありますよう。
「いちまん、きゅうじゅうさん……」
それは記憶に残る、大司教が告げた数字だ。三善は何のことだかさっぱり分からなかったので、一旦考えることを諦めた。
そう、まだやるべきことは終わっていないのだ。先程の自分が行った『秘蹟』はただの偶然、ハッタリをきかせようとしたらたまたま上手くいっただけだ。そう思い込みながら、三善は上体を起こした。