第四章 2
その聞きなれた声を耳にしても、もう首を動かして声の正体を確認することすら億劫だったので、ホセは諦めて目を閉じた。おそらく走馬燈とか幻聴とか、そういう類のものだと勝手に推測する。三十五年生きてきた中で「死ぬかもしれない」と思った経験は何度もあるが、そんな幻聴を耳にするのは今回が初めてだ。
体から徐々に力が抜けていく。ついに上体が傾いたので、自分でも「あ、まずい」と思った。このままではマリアもろとも倒れてしまう。さすがにこの青い炎の中に突っ込むのは避けたいところだった。だが、もう身体は動かない。
「『秘蹟(Sacramentum)・展開』」
少年の声が遠くの方から聞こえてくる。また幻聴だ。困ったな、と思ったのと同時に、全身を炙っていた炎の熱が徐々に弱まるのを感じた。
ホセはのろのろと瞼をこじ開ける。
霞む視界の中、真っ白な翼を背負った天使が二柱揺らいで見えた。――否、天使なんかじゃない。その正体に気づいたとき、ホセの思考はようやく現実に引き戻された。
莫大な神威を纏う少年――三善が、じっと彼らを見下ろしていた。その表情は完全な無だ。怒っているようにも、興味を失っているようにも見える。実に冷ややかなまなざしだった。そんな彼の姿を目の当たりにし、ホセは「あれは三善ではなく、大司教だ」ということに気が付いた。ならば、先ほどの祝詞も合点がいく。
ホセがこちらを見ていることに気が付いた三善は、すぐにぷいとそっぽを向いてしまった。そして、この場所にいるはずの「もうひとり」を探し慎重にあたりを見回している。
その姿を見て、ホセは微かに違和感を覚えた。――なんだか、大司教の聖気が時々途切れているような気がする。自分の感覚が既に信じられなくなっているホセは、気のせいだろうと結論を出した。
「このバカ!」
それと入れ替わるように、ケファがホセのすぐ近くまで降り立つ。そして容赦なく一発ぶん殴った。
その衝撃で、ホセは完全に目が覚めた。一旦は鈍ったと思っていた痛覚がまた蘇る。頬も、腹部も。それでようやくまだ生きているのだと実感し、彼はただ乾いた声を上げて笑う。
「はは……なんだ、お迎えかと思ったのに」
「まだ天国の門は開けてやらねぇよ。教皇が聖火で炎の中和を行わなかったら、今頃お前ら消炭だったぞ」
ケファが吐き捨てるように言うと、急遽己の釈義を展開し、ホセの傷口を岩塩に似た成分でがっちりと固めてやった。多少しみるだろうが、止血くらいにはなるだろう。別にいいのに、とホセが肩をすくめたのを見て、ケファが彼のアイボリーを凝視した。
「まさかお前、死ぬ気じゃなかったろうな」
核心をついた質問にホセが口ごもる。このアメジストの瞳には、昔から嘘がつけないのである。全てを見透かすような澄んだ色、好きな色ではあるが一番恐れている色でもある。
そんな様子にケファはすっかり呆れてしまったらしく、わざとらしいため息をついた。
「あー、そんなこったろうと思った」
ほら、と彼はホセをその場に座らせ、代わりにマリアを抱きかかえる。彼女は抵抗するまでもなく、ただされるがままになっていた。
「あっ」
「一体何があったかは知らないが、“嫉妬”でなく自分を焼くなんて、一体何を――」
「ケファ、駄目です。彼女から離れて」
え? とケファが問いただすも、時すでに遅し。
その頃には、彼の腕の中でマリアは『釈義』を展開していた。彼女の手に握られたのは、先ほどのような巨大な槍ではなく、細身のナイフである。
そしてそれをケファの首筋にぴたりと当てると、
「――ごめんなさい」
マリアは涙をこぼしながら言った。
***
「待って!」
少年の声に反応し、三善はその身を翻した。
彼が目にしたのは、同じ年頃の少年――“嫉妬”である。彼は軽やかに瓦礫の上を駆け、三善のほど近くまでやってくる。左肩は既に何らかの原因で損傷しているように見えたが、三善は心底どうでもいいと思った。おそらくホセがやったのだということは容易に想像できたからだ。
なんにせよ、探していた人物がわざわざ自分からやってくるとは手間が省けたも同然。ホセやマリアがあのような状態になったのは確実にこの少年のせいだと踏んでいたので、近くにいるとは思っていたが。
「――ああ、なんてことだ」
彼は三善に向かって、悲しげに叫ぶ。
三善はただ無言で少年の深い青の瞳を睨めつけていた。いつ攻撃されるか分からない状況のため、三善はそれなりの間合いをとりつつ高度を下げ、“嫉妬”と同じ灰まみれの瓦礫に着地する。それと同時に背負っていた翼は灰となり、風に流されていった。
「あなたとこんなところで出会うとは。ヨハネス」
“嫉妬”は今にも三善に飛びつきそうな勢いだったが、三善がそれを牽制した。
三善はまだ、こんな状況になろうとも“嫉妬”を生け捕りにすることを諦めてはいなかったのだ。帯刀からは「無理することはない」と言われていたが、それも何だか癪に障る。
「その身体のお前とは、はじめまして、だろう」
三善がようやく口を開く。
「あなたなら知っているのではないか。姫良真夜の居場所を。『契約の箱』の在りかを」
「なぜ、そう思う」
「あなたのその身体は姫良真夜と何か関係があるのだろう。それをあなたが使っているということは、あなたと真夜が過去に接触したと考える方が自然だ」
三善はじっと口を閉ざし、言葉を選んでいる様子でいた。“嫉妬”はそんな様子にしびれを切らせたのだろう。決定的な一言を三善へ投げかけた。
「あなたは一体『何回目』だ。何故今回は僕たちのところに真夜がいないんだ」
ぴくりと、三善の肩が震えた。先ほどとは比べ物にならない程におぞましい表情を浮かべ、三善は“嫉妬”へ目を向ける。この瞬間、彼の纏う聖気が更に増えた。吐き気がするほどの神威に、“嫉妬”は動揺し思わず悲鳴にも似た声を上げる。
「――一〇〇九三回目、だ」
三善は言う。「この子供の前でその発言は控えろ」
「しかし……!」
「この子供は『姫良三善』だ。これで分からないか、“嫉妬(Invidia)”。お前も莫迦ではないだろう」
彼の言葉に、“嫉妬”は声を詰まらせた。その顔からさっと血の気が引くのが分かる。
少年はぶつぶつと、ひめらみよし、と何度も反芻するようにその名を唱えた。
「――ああそうか、“傲慢”は知らなかったのか」
そして、か細い声で“嫉妬”は呟いた。「その子供は『一〇〇九二回目』の……」
三善は小さく頷いた。
“嫉妬”は絶望した。この少年が突きつけた現実があまりにひどすぎた。そして、この姫良三善という少年――否、『教皇』か。彼の異常な精神に対し、驚きと畏怖を隠せない。長らく生き続けている“嫉妬”でさえ、心底彼はどうかしているのではないかと思うほどだ。
三善はひとつ、息をついた。
「ああ、お前はなんと愚かなことをしてくれたのだ」
“嫉妬”が顔を上げる。
「お前が私に『何回目』と尋ねた時は、決まって“終末の日”が十年以上早まる。今回もそのパターンになるとは」
しかたない、と三善はその両手を自身の胸の前に広げて見せた。
紅い瞳がゆらりと奇妙な熱を帯び始める。それはまるで燃え盛る紅蓮の炎が風になびき、火の粉をあげながらその勢いを増幅させているようでもあった。三善の小さな身体から溢れ出る大量の聖気が汚れきった空気をたちまち浄化し、思わず身体が震えるほどの威厳を全面に押し出した。
三善は長い典文を一息で唱え切る。
「『Gloria Patri,et Filio,et Spiritui Sancto.Sicut erat in principio,et nunc,et simper,et in saecura saeculormm,Amen.』」
小さく胸元で十字を切ると、そこに赤い軌跡が走る。その軌跡は一瞬爆ぜ、三善の右手の中で巨大な剣へと姿を変えた。金の装飾が美しい、中央に緋色の宝石が埋め込まれた代物である。
「帯刀には悪いが、そう問われた以上ここでお前の存在はなかったことにさせてもらう。どのみち、お前から何も情報は得られないということが分かったからな」
そう言い切った三善からは、先ほどとは比べ物にならないほどの聖気が溢れ出ていた。
気を抜くとこちらの魂が身体から剥がれ落ちてしまいそうだ。意識が壊れ浄化されてしまってはひとたまりもない。ただでさえ“傲慢”が浄化されてから“大罪”は不安定なのだ。これ以上あちらの好きにされてしまっては困る。
少年は長い裾の奥に眠るリヴォルバーを抜くと、己の気力を最大限に込める。
“嫉妬”の蒼き弾丸。
「あなたと殺り合うのは、間違いなく分が悪いけれど」
三善がその一振りの剣を盾にするように真正面に構えると、同時に“嫉妬”の弾丸が銃口からはじき出された。
ハンマーが叩くのと同時に弾丸に蒼い電流が走り、雷管に火をつける。雨が降り注ぐように大量の弾がこちらに飛んできた。
そのうちのいくつかは剣を用いて受け止めたものの、妙な軌道を走る弾を全てかわせる訳ではない。死角に流れた弾が猛威を振るい、身体に浅い銃創を残していった。
少年は容赦なく次の行動に出た。宙返りをするかのように軽やかに移動すると、再び発砲する。
「“逆解析”!」
三善の身体が“傲慢”の“鎧”に守られる。青い弾が身体に当たるのと同時に赤い火花が散り、弾の威力を完全に中和してしまった。
そうか忘れていた、と“嫉妬”が目を瞠りながらも呟く。
この神父、“七つの大罪”のみが持つ能力“解析”“逆解析”を持つ稀有な存在だった。確かそんなことを“傲慢”が言っていた気がする。
そういえば、あの時“傲慢”は確かにヒントになることを言っていたのだ。なぜそれを聞き流してしまったのだろう。“嫉妬”は数か月前の自身を叱りつけたくなった。あの時の“傲慢”は聖ペテロの方に注意を向けていたようだったので、それに流されてしまったのだろうか。
いずれにせよ、今更後悔しても遅い。
目の前にいる『教皇』の鋼の精神には、誰一人勝てやしないのだ。