第四章 1
目を覚ますと、眼前には白い天井が広がっていた。
少し目を動かしてみると、自分がいる場所を完全に覆い隠せるよう、頭上をカーテンレールが走っている。今は左側にしかカーテンは下げられていなかった。右側へ目を移すと、透明な液体が入った点滴が釣り下げられており、薬液が少しずつ管を滑り落ちているのが見えた。
ホセはその日、何だか心地のいい夢を見ていた気がした。確かA-Pに己の肋骨を入れるために手術したはずなのだが、麻酔が上手く効いていたのだろう、手術が終わったことにも気が付かないくらいに昏々と眠っていたらしい。
点滴の針が刺さっていない左腕を持ち上げると、腹部に触れる。それでようやく、固いギプスで固定されていることに気が付いた。やはり、手術自体はとっくに終了していたのだ。
身体もろくに動かせないので、ホセは仰向けになったまま静かに天井を眺めていることにした。時計の針の音すら聞こえてこない。あまりの静けさに、時間の感覚が曖昧になる。
一体どれくらいそうしていただろう。突然、右隣の方で何か衣擦れのような音が聞こえてきた。
驚いて首だけを動かすと、隣のベッドにも誰か人がいるらしいということが分かった。小さな塊がもぞもぞと動き、それからゆっくりと上体を起こす。
亜麻色の髪をした少女だった。年齢は十代前半くらいだろうか。まるでビスクドールのような滑らかな白い肌に、緩やかに伸びる髪が美しい。白い病院服を身にまとう彼女は、しばらく己の手を見つめていたが、ややあってようやくホセの視線に気が付いたらしい。ゆっくりとホセへと目を向けると、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
その目は、どこか覚えのある赤い瞳。滅多にないその色に、ホセは思わず息を飲んだ。
彼女はまじまじとホセのアイボリーの瞳を見つめた後、自分の枕元にあるコールボタンを押す。それを見て、ようやく自分のベッドにもそういうものが取り付けられていることを知った。
しばらくして、奥から白衣を身に纏った女性が現れた。彼女はホセの主治医であり、同時にA-Pプロジェクトの総括を担っている人物である。名をジェイといった。
「ああホセ君、起きたんだね」
彼女はからっとした口調で話しかけてくる。彼女は古くからの知り合いで、気心の知れた中でもある。こんな呼び方でホセを呼ぶのは、今のところ彼女くらいだ。
ホセはええ、と短く返す。ひどく喉が乾燥していて、発声し難い。何とか唾を飲み込むと、ひとつジェイに質問を投げかける。
「私はどれくらい眠っていました?」
「三日くらいかな。気持ちいいくらいにずっと眠っていたね」
まあそれも仕方ないかな、と彼女は赤毛の髪をかき上げる。
「元々は健康な骨をわざわざ折って、代わりに人工骨を入れた訳だからね。初日はさすがに熱を出していたし、身体にも相当な負担がかかっているんだよ。君も人の子なんだなぁ」
「私を人外か何かに勘違いしていませんか……?」
自分が無駄に頑丈だということは薄々気づいているが、そう言われるのは心外である。ホセはさも不満そうに反論する。しかし、ジェイはそれを真面目に受け取ってはいないようだ。
「身体が丈夫なことはとてもいいことだよ、うん」
ジェイは楽しげに笑った。「普通の人なら、君みたいな生活をしていたら身体がいくつあっても足りない。断言できる」
「……否定は、しませんが」
『釈義』の生成についてはまだ解明されていないところも多いが、何故か能力者は一般的に身体が頑丈という統計がある。さすがにホセのように『何百メートルもの高さのある絶壁から落下しても無傷』、ということはほとんどないが。おかげで同じ能力者からも人外扱いされたことがあるホセは、何だか複雑な気分になった。
「でも、ホセ君のおかげでようやく完成したよ」
ジェイは隣のベッドにいた少女の肩を叩いた。「彼女がマリアだ。僕たちの希望を担う、叡智の結晶」
やはり彼女が「それ」だったか。ホセは改めて彼女をまじまじと見つめ、それから、かねてより気になっていたことを口にする。
「彼女に似た子供を、私はとてもよく知っています」
「ん、そうなの?」
「というか、私の息子なんですけど」
ホセ君それ一体誰との子なの、というジェイの言葉は無視する。この様子から察するに、ジェイはおそらく彼女が何故このような外見になったかという経緯は知らないのだ。その件については後ほど知っていそうな人物に確認してみるとして、今やるべきことは「これ」だ。
ホセはマリアと呼ばれた少女にそっと声をかける。
「初めまして、マリア。ホセ・カークランドと申します」
ホセが差し出した右手を見て、マリアは自分のベッドから降りた。ホセのすぐ隣まで近づくと、おずおずと小さな手を伸ばしてくる。
ホセの手に触れた刹那、彼女ははっとして顔を上げた。
「あなたは、わたしの主人? ゼベダイの子ヤコブ」
「ええ。二つ名は長いでしょう、ホセで構いません」
彼女は暫し考え、「司教」と呼び直した。
「まぁ、それでもいいでしょう」
検査の準備をしてくる、と言い残し、ジェイは一旦席を外した。いよいよマリアと二人きりにされてしまった訳だ。
仕様書によると、確か「A-Pは、生きるための基本的な事項と『十二使徒』の情報を事前にデータベースに登録しているが、それ以外は、見聞きしたことをベースに知識を増やしていく」と書いてあったはずだ。ならば、何か話してやるべきだろうか。しかし一体何を。
ホセが悩んでいると、服の袖を引かれる感覚があった。再び右側に目を向けると、マリアが何かを言いたげにしていた。促すと、彼女は控えめに口を開く。
「fils(息子)って?」
「ん、ああ、さっきの話ですか」
その件を説明しようとすると、どうしても複雑になってしまうのだ。ホセはどのように説明するかを思案し、仕方なくこう伝えておくことにした。
「私には、面倒を見ている子供が一人います。血の繋がりはありませんが、法的には親子みたいなものですね。三善というのですが……」
「plus grand bien(至高善)?」
「それではなく、人名です」
ホセはきっぱりと返す。「ああでも、そうか。あの名前は至高善のことを意味しているのか……すごいセンスだ」
あなたはとても聡いですね、とホセはベッドから手を伸ばしマリアの頭を撫でた。彼女はそれを嬉しそうに受け入れて、ゆるゆると眼を細める。こんなにも微細な表情を浮かべるとは、科学研はどういうプログラムを組んだのだろう。叡智の結晶、とジェイは言っていたが、このクオリティは目を瞠るものがある。
彼女は褒められたのが嬉しかったのか、続けて質問を投げかける。
「それで、その子供はどうしているの」
「今は私の……、部下、に預けています。聖ペテロの釈義は分かりますか? その持ち主のところです。ケファっていう、でかくておっかない奴なんですよ」
「pierre(石)?」
「それも人名です。……由来としては大体合っていますが」
そう、とマリアは不思議そうな顔をし、何度か胸の内で反芻しているようにも見えた。そして、彼女は納得したように頷く。
「あなたには、いっぱい大事なものがあるのね」
「そう、ですね。守るべきものはたくさんあります」
「私には、あなたしかいないわ」
それを聞き、ホセは思わず目を丸くした。
ホセが妙な顔をしたので、マリアはすかさず理由を尋ねてくる。なにかおかしなことを言ったのか、とも。彼女はホセの感情の推移を必死に理解しようとしているのだ。
ならば、誠意を持って答えるべきだ。
ホセは言いたいことをすぐに整理して、このように返した。
***
「『――今のあなたには、私しかいないかもしれません。でも、年月を重ねれば、もっともっとあなたと世界の繋がりは深まります。守るべきもの、ではなく、守りたいと思うものがいずれできるかも』」
ホセはやっとのことでそう言った。
青い炎の中、徐々に酸素が減りつつある。ぼんやりとするこの思考は、出血多量によるものなのか酸素不足によるものなのか、まるで判断がつかなかった。
マリアはホセのその言葉を聞き、ぴくんと肩を震わせる。
「司教」
「『だから、たくさん笑ってください。たくさん怒ってください。時々は泣いてもいい。あなたは私のためのプロフェットですが、その前に、私はあなたを一人の女の子として扱いたい。願わくば、あなたの生が真に正しくありますよう。そのために私は力を尽くしましょう。これから、どうぞよろしくお願いします』」
――これが、マリアが初めて会った日にホセが言ったことだ。あの日のことはとてもよく覚えている。マリアが言った「私にはあなたしかいない」という言葉が強烈に胸に焼き付いて離れない。それだけ衝撃的な出来事だったのだ。
だからホセは、己に対する誓いとして、その時自分が言ったことを全て覚えていることにした。
この青い炎がすべて燃やしてくれたなら。自身の血も肉もすべて燃やしてくれたなら。心すらその中で燃え尽きてくれたら。自身の分身である彼女と最も良い終わりを迎えることができるなら。
それはとても幸せなことのように思う。今の彼女なら、それを願うかもしれない。
しかし、それは正しくないとも思う。
いきなり長く話したものだから、体力が思いのほか削られてしまった。そっと瞼を閉じると、マリアの手の冷たさをはっきりと感じることができた。
「ごめん、なさい。マリア……」
突然ずきりと胸に刻まれた赤い十字の痕が痛む。当然のことだった。本来『喪失者』と認定されたホセが、無理に己の先天性釈義を行使したら嫌でもそうなるに決まっている。現役の頃と比べたら上手に能力を行使することはできなかったが、それでも“嫉妬”を驚かす程度には使うことができた。それだけで満足だった。
ふと、ホセは瞼をこじ開ける。
今彼に強く抱きつき頬を寄せる亜麻色の髪をした少女は、しとしとと涙を流していた。雨粒のような細かい滴が長い睫毛を濡らし、頬を伝う。先程まで幸せそうに笑っていたと思ったのだが、どうしたのだろう。
「――司教」
マリアの鈴の音のような声が耳に届く。こんなにも近くにいるのに、どうしてだろう、その声は随分と遠くに聞こえた。
どうしましたか、と尋ねると、彼女はうつむいたまま言った。
「ごめんなさい。お腹、刺してしまってごめんなさい。あのひとの言うことに耳を傾けてしまってごめんなさい」
「……マリア……」
ぎゅ、と上着の裾をつかむ感覚があった。
「だから、私を、初期化してほしい……です」
心臓がはねた。
それは、万が一に備えてA-Pに搭載した強制終了システムのことを指す。通常の操作で終了できない場合――例えば暴走してしまった場合など――、強制的に全データを消去し、A-P全機能を停止させる。もちろん再び電源を入れれば動くのだが、一度データを初期化してしまうとそれまでにA-Pが蓄積した記憶は全て抹消されてしまうのだ。つまり、今彼女を初期化してしまえば、次に出会うマリアは同じ形をしたまったくの「別物」になる。だからホセは、先程システムが暴走していることに気づいても決して初期化しようとはしなかった。
抱きついたままマリアは「お願い」と駄々をこね続けている。
そもそも、このように饒舌になること自体「異常」なのだ。もう彼女は、ただのアンドロイドなんかじゃない。こんなことを、科学研はプログラムしていなかった。彼女は既に生物と同等の思考を持っていると確信を持って言える。
だからこそ、ホセは彼女の要求を受け入れることができなかった。
「それはできません」
ホセは首を横に振るが、彼女は納得できないようで「どうして?」と尋ねてくる。
「だって私、失敗した」
「私だって……失敗しています。おなじです」
ホセは残る力を振り絞る。「あなたを、そんな気持ちにさせた、わたしが、わるい」
どう説明しても、きっと彼女は納得してくれないだろう。そして、きっと他の誰もがこの感情を否定する。今後も彼女が暴走することがあるかもしれない。そんな危険なものを運用するなど、一体誰が許すだろう。
ホセはマリアの身体を強く抱きしめ、長く息を吐き出す。
ならば、このまま二人で燃えてしまえばいい。とうに覚悟はできている。
認められないならば、そのまま消えてしまおう。それが彼女の慰めになるのなら、喜んで死に行こう。
「『Sanctus,Sanctus,Sanctus』」
願い事は三回。もう意識が遠ざかっている。視界は白く濁り、ほとんど何も見えていない。
その時だった。
「何をやっているんだ! お前は!」
聞きなれた声が耳に飛び込んできたのは。