第二章 3
大司教がジェームズに抗議してから一週間、今も三善は高熱にあえいでいる。『釈義』の残滓を感じ取ることのできるプロフェットなら彼の様子を一目見ただけでその異様さに驚くだろう。彼の釈義――正確には教皇の釈義、だが――がプロフェットとは思えないくらいに急激に弱まり、逆に“七つの大罪”の気配がはっきりと分かる。
時々三善がこのような状態になることはあったが、さすがに今回は長すぎる。
このままでは三善の先は長くない。初めから分かっていたことだったが、それを目の当たりにするとなかなかに辛いものがある。
ケファは苦しげに呻く三善の額を濡れたタオルで拭い、冷却シートを貼り直してやった。
三善を担当している医務官が少し席を外す必要があったため、その間のつなぎとして彼は呼ばれていた。三善の今の状態を知る者は本部内でもごく僅か、医務官ですら本部常駐の者となると一人しかいない。たとえ短時間であっても今の三善を放っておくのは不安である。そういう事情から、資料室で原稿をしたためていたケファにお鉢が回ってきたのだ。
枕元に椅子を置き、腰掛けながらケファはパソコンを開いた。久しぶりに論文の執筆依頼があり、数日中に仕上げる必要があった。おおよその考えはまとまっているので、あとは一気に書き進めるだけ。それならば、三善の様子を見ながらでもできる作業だ。
ワードパッドに文字をしたためつつ、ケファは先日の大司教の言葉を思い出す。
あいつには、悟られるな。
あいつというのはジェームズのことなのだろうが、その理由が分からなかった。三善が突然倒れたのもおそらくは彼に原因があるのだということも想像はついたが、まるで散らばったパズルピースのように、物事に因果関係がつかめないでいる。
最近違和感を覚えるような事柄が特に増えた気がする。取るに足らないことなのだろうと言い聞かせていたが、自分を誤魔化すのにもそろそろ限界が近い。この漠然とした焦燥感にも似た感情は一体なんだ。
キーボードを打つ手がぴたりと止まる。
彼の脳内に、ひとつ、引っかかった事柄があったのだ。少しだけ悩み、パソコンの付箋機能を立ち上げ、『Dt.29-31』とメモを残す。
「ん……」
その時、三善の口から微かに声が漏れた。ケファは驚き肩をびくつかせるも、すぐに落ち着き彼へと目を落とす。
三善がちょうど目を覚ましたところだったようだ。のろのろと瞼をこじ開け、赤い瞳をぼんやりと宙に向けている。額に手をやり、冷却シートが張られていることに気が付くと、ゆっくりと起こした。
「まだ寝ていろ」
ケファの声に反応し、三善はかすれた声で尋ねる。
「今何時?」
「九月二十四日、午後十八時」
「ああ、一週間近く寝ていたのか……喉乾いた」
三善はのろのろと瞳を閉じ、何かを思案している素振りを見せる。ケファは立ち上がり、奥から水を汲んで持ってきた。それを三善に渡すと、彼は少しずつ、ゆっくりと全てを胃に流し込む。
「ありがとう。ちょっと楽になった」
「まだ熱が高いだろ? 今医者を呼んで……」
「その前に」
ケファ、と三善がその名を呼ぶ。「一週間前の話をしていい? 僕が忘れないうちに」
「え……、うん、いいけど」
いつもならば、大司教が表に出ている間は何も覚えていないはずである。したがって、自分が寝ている間に何をしていたか確認しようと思ったのではないだろうか。そうあたりをつけ、ケファは頷く。それくらいならば長話にはなるまい。
三善はじっと考え、ややあって口を開いた。
「僕は一週間前、ゆき君から“傲慢”のときの話を聞かれた。その後、試しに“嫉妬”を生け捕りにしてみようかとケファが言った。それで合っているかな」
「ああ、合っている」
おや、とケファが首を傾げた。彼の口ぶりに何か違和感がある。何がおかしいのだろう、と考えている間に、三善は次の質問を投げかけた。
「次に、僕はそれに同意して、部屋を出た。向かった先は、枢機卿の部屋。これは?」
「合っている……」
その問いに、ケファはようやく違和感の正体に気が付いた。三善の質問は明らかにおかしい。何故彼は、『本来記憶がないはずの行動について』尋ねているのだろう。
まさか、と彼は思う。咄嗟に制止しようとするも、三善はすでに次の質問を口にしていた。
「そこで僕は枢機卿と口論になり、……大変言いにくいけれど、襲われたので、『釈義』を展開して逃げた。逃げた先にケファがいて、僕を抱えて逃げた。これは?」
「……、」
「ケファ」
「合っている。俺が知る範囲では」
彼の言葉の威圧感に負け、ケファは躊躇いがちに答えた。
それを聞いた三善は、そっか、と呟いてから、長く息を吐いた。
「やっぱり夢じゃないかぁ……まいったな」
「三善」
「ケファ、あのさ、多分僕のことを考えてのことだと思うんだけど」
三善はするどい口調で言葉を投げかける。「ホセと一緒に隠し事してない?」
核心をついたその問いに、ケファが微かに動揺した。その表情を三善は決して見逃さない。「僕は誰なの? なんで枢機卿のところなんか……」
「三善!」
ケファの怒鳴り声に、三善の体が震える。ようやく彼は我に返ったようで、目を丸くさせながら肩を上下させている。発熱の影響か、額から汗が零れ落ちた。
ケファは濡れたタオルで三善の顔を拭いてやりつつ、押し殺すような声色で囁いた。
「……怒鳴ってごめん。医者を呼ぶから、それからでいいか。まずは落ち着け」
「うん」
「俺が知る限りのことなら、ちゃんと話すから」
もうすでに誤魔化せない領域に達していたのだということを、ケファはにわかに悟った。ならば予定していた通りに行動するだけだ。
ケファは医務官を呼ぶために部屋を出て、扉を閉める。微かに自分の体が震えているのが分かった。
――そうだ、予定していた通りにするだけなのだ。
それなのに、とケファは思う。
何故こんなにも罪悪感に苛まれるのだろう。
***
医者を呼び戻した後、ケファはホセの仕事部屋を訪れた。
ホセはその頃溜まった書類に判を押しているところで、ケファが現れたのを横目で確認するとすぐに書類に目を落とす。
「どうしました? あなたが自分からここに来るなんて珍しい」
ケファはその問いには答えず、静かに扉に錠を落とした。
その音を聞き、ホセはおや、と思う。
「ケファ?」
「……あの部屋の鍵、貸してくれ」
その一言に、ホセの手が止まった。判をトレーに置くと、ようやく顔を上げた。その表情はいつもの穏やかなそれではなく、険しさだけが顕著に表れている。詰問するような口調で彼は続ける。
「どういうことですか?」
「さっき三善が目を覚まして、俺に、自分は誰だ、って……。一週間前に大司教がやったこと、全部覚えているらしい」
ケファ、とホセが名を呼んだ。
「まずは落ち着きなさい。それから、紅茶でよければ淹れてあげますので、そこに座って待っていなさい」
ケファは大人しくぺたんと革張りのソファに座ると、じっと何かを考えているようだった。額に手をやりぶつぶつと何かを呟いているが、どうやらそれは申命記の一節らしい。聞き覚えのあるフレーズではあるが、なぜ今それを呟いているのだろう。ホセはその様子をやや不審に思いつつ、奥の電子ケトルで湯を沸かす。さきほど温めたばかりでもあったため、湯はすぐに沸いた。
ゆっくり時間をかけて紅茶を準備すると、その頃には大分落ち着いたらしいケファが今度は別の一節を呟いている。出エジプト記だ。何かを思い出そうとするように、何度も何度も同じ個所を反芻している。そして、突然ぴたりと唇の動きが止まった。
「――そうか」
「考えがまとまりましたか。ほら、お茶が入りました」
紅茶セット一式をデスクに置くと、ホセ自身も向かい合う形でソファに腰掛ける。
改めてケファに事の顛末を尋ねると、彼は筋道立てて丁寧に説明した。ホセは淡々と話を聞き、微かに唸った。
「おそらく、あなたが懸念していることはおおよそ合っていると思います。今回のきっかけはジェームズと接触したことにあるようですが、その時『何か』があってヒメ君に打たれた楔の効力が弱まったのでしょう。ただ気になるのは、今回大司教が表に出たときからヒメ君の記憶はあった。間違いないですね」
「ああ」
「つまり、楔自体が弱ったところに追い打ちをかけられた、と考えるのが正でしょう」
「『何か』というやつに覚えはあるか」
そうですね、とホセは一瞬口を閉ざし、数秒後に頭を振る。
「全くない訳ではありませんが、それを用いる理由が見つからない。そしてそれを用いたことを証明する手立てがありません」
つまりそれは分からないと言っているも同然。ケファはそうか、と短く言ったきり口を閉ざしてしまった。
そんな様子の彼をホセはじっと見つめ、はっきりとした口調で言い放つ。
「まずは、ヒメ君の望み通りにお話ししましょう。それから、どうやってヒメ君を生きながらえさせるかについてです。これは、あの子を地上に出したときにあなたと議論した通りです。今はそうするしか手立てがありません。異論はありませんね」
「分かった。いずれ言うべきことだったしな」
「そのタイミングが早すぎただけです。これをお持ちなさい」
ホセはケファに一枚のカードキーを渡した。それの正体を、ケファはよく知っている。
「もしかしたら、他に彼を生かす手段はあるかもしれない。しかし、私たちができる最善はこれが限度です」
「未来のある若者から選択肢を奪うことだけはしたくなかったんだけどな……」
ケファはカードキーを受け取り、ひとつ頷いた。「もう戻れないからな」
「ええ。私は、もう戻る必要もないと思っています」