第二章 2
帯刀の証言を元に中庭に行くと、案の定三善とマリアはまだその場所にいて、のんびりと日光浴をしていた。ホセは彼らに事情を説明し、己の仕事部屋へと連れてゆく。
念のため扉に錠を落とすと、「さて」とホセは振り返った。
平行に並ぶ黒い革のソファに、片側に帯刀・慶馬が、もう片側には三善・ケファが座る。ホセは少し考えてから、三善の隣に腰掛けた。マリアはこの会話に入れそうもないので、普段荷物を入れてある箱型のスツールに座り本を読んでいる。
「それで、聞きたいことというのは?」
ホセが尋ねると、帯刀が頷いた
彼曰く。
二か月前に“傲慢(Superbia)”第一階層が浄化されて以降、“嫉妬(Invidia)”の暴動が相次いでいるのは随分と知られていることである。
先日ホセとマリアを迎えに行った際に襲ってきたあの巨大な蛾もそれの一部。確かに最近は二、三日に一度はプロフェットの誰かが”嫉妬”を浄化しに行っているが、この場の誰もがそれを特に異常だとは感じていなかった。
ただひとり、帯刀を除いて。
実は、“七つの大罪(Deadly sins)”に関する情報操作は全て帯刀が請け負っている。あれだけ巨大な化け物が街中を闊歩しているとなると、混乱を避けるためには無理のない程度に事態をうやむやにしておかなくてはならないのだ。帯刀がしらみつぶしに“大罪”に関する事件をもみ消していると、ある時不思議な事象が起きていることに気が付いた。
「“嫉妬”だけ、特定の場所にしか現れていないんだ」
地図はあるか、と帯刀がホセに尋ねると、彼は自分のデスクから本州の教会区分を記した地図を出してきた。
「これでよければ。書き込みしたければこちらのペンでどうぞ」
「助かる」
帯刀は地図を広げ、いくつかの個所にペンで丸印をつけていく。その印がついた箇所を見て、ケファは何かに気づいたらしい。一度瞳を大きく見開いたのち、「そんなまさか」と言わんばかりの様子で言葉を飲み込んだ。
「ん、ブラザー・ケファは気づいたか」
さすが、とケファを称賛しつつ、帯刀は続ける。「ここひと月くらいで“嫉妬”が出没しているのは、第二区、第三区、第五区。ああ、昨日第四区にも目撃証言があったか。第一区はまだ出没したことはないけれど、多分そろそろ来るぞ」
どういうこと? と三善がきょとんとした様子で首をかしげる。彼にしてみれば、“大罪”はどの教区にも等しく現れるものであり、特に変わったことなど思いつかないようだ。
「……聖所、ですね」
その印がついた箇所をじっと見つめ、ホセが呟く。
「正解」
帯刀が大きく頷いた。「今までの“嫉妬”出現個所というのは、現存しているかどうかは問わず、かつて聖所と言われていた施設があった場所だ」
これは予想だが、と彼は言葉を続ける。
“嫉妬”は聖所に置かれている『何か』を探しているのではなかろうか。何か、の部分はまだ分からないが、おそらく“七つの大罪”がまだ大聖教と分裂する前に祀られていたものに関係があるだろう。そういったものが日本国内にあるらしい、ということを、帯刀は何度か聞いたことがあった。
「それに心当たりは?」
ホセの問いに、むしろこっちが聞きたい、と帯刀が返す。
「今日はそのヒントが何かないかを聞きに来たんだ。ここ数年、“傲慢”と“嫉妬”は行動を共にしていた。“傲慢”の第一階層を浄化したのはみよちゃんだって聞いていたから、何か心当たりはないかと思って」
ふむ、と三善は考えた。
「……ええと。あの時の“傲慢”は雨ちゃんの『釈義』が欲しかったらしいけど」
雨ちゃんとは? と帯刀が尋ねたので、三善は先日の聖フランチェスコ学院の出来事をかいつまんで話した。
先天性釈義の能力者・土岐野雨が“傲慢”に狙われ、彼女を利用して事件を起こしていたということ。彼女の能力のひとつに「釈義の譲渡」があり、“傲慢”はそれを手に入れようとしていたこと。
三善の話をじっと聞いていた雪は、薄氷色の瞳を細め、何やら考え込んでいるようだ。
「それは確かに珍しい釈義だ。なんでかは分からないが、”傲慢“は何らかの理由で『釈義』が必要としていて、簡単に釈義を得るために能力者を求めていたのは想像できる。しかし、“大罪”が釈義を必要とする理由、ねえ……」
とぶつぶつ呟いている。
ホセはそんな彼の様子を眺めつつ、ただひとり真相にたどり着いていた。彼らにそれを悟られぬよう、そっと目線を外す。
おそらく、“大罪”が探しているのは『契約の箱』だ。それならばすべての辻褄が合う。
昨日のトマスとの邂逅が脳裏をよぎる。
――『契約の箱』だよ。処分してくれたか。
彼の声を今でもはっきりと思い出せる。トマスの言う『アレ』は一般的に解釈されるものとは随分異なる。あれは『釈義』だ。とんでもない厄災を招く代物で、正当な管理者のみが扱える。それを“大罪”が探しているとなると――。
「ブラザー?」
帯刀の声に、ホセははっと顔を上げた。帯刀だけでなく、この場にいる全員がホセに注目している。突然難しい顔をして黙り込んでしまったので、何かあったのではないかと想像させてしまったようだ。
慌てて場を取り繕うとしたが、遅かった。
「あ、ああ。なんですか」
「何か思う当たることでも?」
帯刀の鋭いまなざしがホセを射る。その瞳を向けられれば、大抵の者は口を開くのだろう。しかし、ホセは肩を竦め適当にはぐらかした。
それを見て、帯刀はどう感じたろう。しばらく何かを思案している様子でもあったが、ふっとため息をつき、ホセから目を逸らした。
「……まあいい。何か思い出したら教えてくれ」
いずれにせよ、と帯刀は言う。「この状況が続くと、さすがに我が帯刀家でも事件を完全に揉み消すことができなくなる。どうにかして先手を打ちたいんだが」
「そうなると、“嫉妬(Invidia)”をどうにかする方が早いかもしれないな」
ケファは机上に乗せられた地図を眺めながら、印のついた箇所を指でなぞる。そして、未だ何のマークもされていない数か所を中指で叩いた。その場所が他の聖所であることは、さすがの三善でも見て取れた。
「いっそのこと、聖所に待ち伏せして生け捕りにでもしてみるか」
冗談だけど、と続けようとしたケファが、ふと帯刀を見る。
しまった、と思った。ケファの何気ない一言に帯刀が興味を示したのである。まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように、薄氷色の瞳がきらりと瞬いた。
「その発想はなかった。ありかもしれない」
ちなみにやろうと思えば可能か、と帯刀がホセに尋ねた。
「次に出没しそうな場所が分かっているなら、可能かもしれませんね。ヒメ君はどう思いますか」
三善は右手で己の顔を覆い、じっと彼らの話を聞いている。ホセの問いを耳にすると、ぴくんと肩が震え、のろのろと唇が動いた。
「――ああ、可能だと思う」
すぅ、と三善の右手が顎に向けて下げられる。紅の瞳に炎の色が宿っている。そのどきりとするほどに冷徹で大人びた表情に、その場の誰もが目を瞠った。
その発言はもはや“三善”のものではなかった。声は確かに三善のものである。しかし、そのたった一言に含まれた威圧感は三善のものとは大きくかけ離れていた。
帯刀は首を傾げ、その様子を見つめていた。
「この身体では『釈義』をうまく展開できないが、それでもよければ力になろう」
三善がちらりと正面へ目を向けると、帯刀は“彼”の聖気に臆することなく毅然としていた。
「光栄です。詳しいことは、また改めて詰めましょう。しばらくは私も本部に滞在しています」
了承した、と三善は頷き、ゆっくりと立ち上がった。彼の突然の行動に驚いたホセとケファは、慌ててどうしたのかと引きとめた。しかし、三善は彼らの制止を振り切り、たった一言だけ吐き捨てるように言った。
「用事を思い出した」
そして彼は扉の錠を開け、一人居室から出て行ってしまった。
そんな彼の背中を帯刀はぽかんとした様子で眺め、それから眼前で呆けた顔をしている彼の保護者に恐る恐る尋ねる。帯刀と三善はそこそこ長い付き合いではあるが、『あの状態』を見るのは初めてだったのだ。
「あれ、本当にみよちゃん?」
「ええ」
ホセは頷く。話せば長くなるのでそれ以上のことを言おうとはしなかった。それがより帯刀の知的好奇心をくすぐったようで、帯刀は隣に座る慶馬にさりげなく意見を求める。
仕方ない、とケファが立ち上がった。
「ちょっと追いかけてみる。最近、あいつ調子悪いみたいだし」
「承知しました。行ってらっしゃい」
続いてケファが部屋を出て、部屋には帯刀と慶馬、ホセの三人だけとなった。
戸が閉まったのを確認してから、帯刀は「さて」とホセに向き直る。まるで今までの会話が茶番だと思えてしまうくらいに、今の彼は凛としていた。
ブラザー、と彼はおもむろに口を開く。
「もしかして、“大罪”が探しているものに覚えがあるんじゃないか」
先ほどはごまかせたと思ったのだが、そうはいかなかったらしい。彼の手にかかれば、どんな嘘もあっさりと丸裸にされてしまう。もう既に取り繕うことなどできやしない。ホセは諦め、ため息交じりに答えた。
「……ええ。覚えはあります」
「多分あの二人がいると言えないんじゃないかと思った。違うか?」
その通りです、とホセは頷く。
となると、帯刀にもひとつだけ覚えがあった。それは帯刀家にとっても非常に重要な機密事項だ。だからこそ、「それ」が答えだと信じたくなかった。
「『契約の箱』、だな」
彼の問いに、ホセは小さく頷いた。
***
三善は早足で廊下を突き進む。その並々ならぬ様子に、すれ違う他の聖職者は何事かと彼の背中を振り返るほどだ。否、決して彼の気迫だけが原因ではない。彼らはその小さな体から発せられる強大な聖気に驚いていた。
通常、助祭があれほどまでの聖気を纏うなどとは考えられない。だからこそ三善が一体何者なのかと好奇の目線を向けられるに至ったのだが、本人はそんなことはおかまいなしの様子である。
彼は大きな白い扉の前に立ち、躊躇いなく力強くそれを押した。無駄に大きな扉はずっしりと重く、少しでも気を抜くと弾き飛ばされてしまいそうだ。しかし、彼はそれを実に慣れた手つきで押し開ける。
「いるのだろう? ジェームズ!」
三善が声を上げた。
この部屋は元々大司教が執務用に使用していた部屋であったが、今は大司教補佐のジェームズが使用している。
部屋の奥までゆっくりと見渡すと、最奥に配置された一番大きな机の前に白い聖職衣姿の男が立っていた。白髪交じりの男は、ゆっくりと振り返りこちらを見つめる。逆光で表情はよく分からなかった。
扉が派手な音を立てて閉まると、一気に室内は暗くなった。
「お久しぶりです、猊下。あなたは私の前になかなか姿を現してくれないから」
彼――ジェームズはゆったりとした口調で尋ねる。まるで愛しい我が子に向ける言葉のように、その声色は優しい。しかし、三善はすぐに鋭い言葉を投げかけた。
「御託はいい。それより、あれはなんだ」
「あれ、とは?」
「帯刀のことだ」
聖職衣を翻し、三善はジェームズの眼前に躍り出る。鋭い瞳で射るように見詰めたのち、彼の胸ぐらに勢いよくつかみかかった。
「お前、なぜ美袋に楔を与えた」
ジェームズは怒りに震える三善をじっと見下ろしていた。あまりに無表情すぎて、彼が何を考えているのかが全く読み取ることができない。三善は臆することなく彼に食らいついた。
「帯刀に位階を与えることは許可したが、美袋を人質にしろなどと私は一言も言っていない」
そう、先程二人に対面したときに気づいてしまったのだ。
美袋慶馬の心臓に、あろうことか『楔』が打たれていた。大司教は、三善ただ一人の例外を除いてはこれを一度も使ったことがない。使う必要があるとも思っていなかった。
人の信仰は、個々の自由にしよう――生前、そう言ったのを今でもよく覚えている。
なのになぜ、今このようなことが起こっているのか。帯刀が位階を得たのは彼が十五歳の頃だが、その時の美袋には何もなかったはずだ。
三善の体を介して『楔』を打つのは負担が大きすぎることから、大司教はやむを得ずジェームズに『楔』の秘蹟を使う権能を与えたが、まさかこんな風に使われるとは思ってもみなかった。
「お前は一体なにを考えているんだ。やっていいことと悪いことが――」
そこまで言いかけたところで、ジェームズが三善の唇に人差し指を当て、彼の言葉を制止した。
困惑しながら見上げると、急にその腕を掴まれた。視界がぐるんと反転し、背に何かがぶち当たる。三善の瞳はなぜか天井を向いていた。彼がジェームズによって押し倒されたと気づくのには、そう時間はかからなかった。強かに背を打ったらしく、吐き気が襲う。
「猊下、少しお黙りなさいな」
ジェームズの青い瞳に獰猛な炎が宿る。まるで獲物を仕留めたハイエナのようだ。
しかし、三善は彼から一切視線を逸らさなかった。ルビーを連想させる深紅の瞳は彼をはっきりと映し、その輪郭の全てを受け入れていた。
ぐ、と握る掌に力が加わる。
「あなたがこの少年に行っている仕打ちの方が、よっぽど残酷に思います」
「喪神か、ジェームズ」
「安心してください、猊下。今後のエクレシアは私がすべて引き受ける。あなたの御子息よりも、ずっとずっと優秀な大司教になりましょう」
でもその前に、と彼はにっこりと笑った。それがなんとも言えず不気味で、思わず三善の顔色が青くなる。血の気が引くとはまさにこのことであった。
「あれをどこにやったのですか?」
襟ぐりにその手が触れる。
ジェームズが言う『あれ』の真意を、三善にはすぐに理解した。それと同時に、彼が進めようとするエクレシアの未来もまた容易く読み取れた。
「あれはお前には過ぎた代物だ」
「あなたが教えてさえくれれば、少なくとも、神の寵愛を受けた娘は自由になれますよ」
「やはりか……」
体格差がここで大きな障害となってしまった。元々三善の“身体”は強くない上、まだまだ伸び盛りの発展途上。大の大人に勝てるはずがないのである。
しまった、と三善はここで初めて焦りを覚えた。足で乱暴に蹴りを入れるものの、ほんの少し顔をしかめただけであまり効果はなかった。
「この体も、少しは痛めつけて黙らせた方がいいでしょうか。この子供には騎士が二人もいてやりにくいことこの上ないですが」
聖職衣のボタンが上からひとつずつゆっくりと外されていく。
乾いた唾液が喉にはり付いて、痛い。
「っ、お前なんかに殺されてたまるか!」
刹那、“釈義”が暴発した。
聖火が激しい音を立てジェームズに襲い掛かる。その炎の勢いは通常のものの比ではない。勢いが強すぎて、酸素が足りずに思わず眩暈がした。
それにひるんだ隙に三善は起き上がり、体勢を立て直す。
スプリンクラーの作動する大きな音とともに、水しぶきが二人を襲う。そのおかげで視力が完全に奪われ、互いに姿を見失っていた。手探りで扉を探り当てると、三善は渾身の力をふりしぼり、その重い扉を開け放った。水が廊下にまで流れ出し、しかし三善は気にすることなく、転がるように部屋を飛び出した。
派手に水しぶきが上がる。
「三善!」
倒れこむ前に、誰かがその身体を受け止めた。うつろな視線でそれが誰なのか確認しようと瞳を開けると、どうやらそれはケファらしかった。肩で息を吐き出し、小さな掌でゆっくりと彼の腕をつかむ。
「ペテロ、よく聞け」
ケファは一度目を伏せ、落ち着け、と呟いた。
「まずは逃げるぞ」
三善の細い体を抱き上げ、ケファは踵を返した。そろそろ騒ぎを聞きつけて他の聖職者がやってくる。彼らからしてみれば、今の状況は大司教補佐に謀反を起こした助祭にしか見えないだろう。それは非常にまずいのだ。
しかし、三善はまだ何か何かを言おうとし、喘鳴交じりに言葉を吐き捨てる。
「あいつに、あいつには、悟られるな」
何を、とケファが聞き返そうとした時、『彼』の気配がぷっつりと途絶えた。それと同時に、三善の体が驚くほど熱くなる。
これはまずいのではないか。ケファは三善の額に手をやり、やはり発熱しているのだと気づく。
のろのろと三善が瞼をこじ開け、さらに何かを言おうとした。
「いい、何も言うな」
これ以上は何も言う必要はない。これ以上何かを言われれば、自分がジェームズを殴りそうだった。ケファは怒鳴りたい衝動を抑えながら、彼を医務室まで運んでいった。