第一章 5
あれはもはやそういう類の才能なんじゃないか、とホセは思う。
先刻ケファの『悪魔祓い』の練習に付き合ったのだが、確かにあれは再試にせざるを得ないと妙に納得してしまった。むしろ今までに試験を担当した司教らに対して、彼は全力で平謝りすべきである。
ホセは己の仕事部屋にこもり、先ほどの彼の失態について考えていた。一応自分の仕事を捌くという名目はあるのだが、それすら手につかず、右手に万年筆を持ちながら始終うわの空でいる。
大聖教における『悪魔祓い』というのは準秘蹟に相当する能力のひとつである。これはあくまで霊的権能に依拠する代物であるため、『釈義』の有無は関係ない。さらに付け加えるとするならば、司祭、特に司教見習いであれば権能としては申し分ないはずなのである。
勿論、筋は悪くないのだ。それは彼が幼い頃から天才だと言われ続けている所以の通りで、何をやらせても基本的には平均以上ということには変わりない。『悪魔祓い』にしても、同年代の聖職者に比べればよく頑張っている方だ。だが、どうしても彼の特殊性が邪魔をする。どんなに頭が良かろうとも、どんなに徳が高かろうとも、修験の年数で言えば今在籍している司祭の誰にも劣ってしまう。修験年数がものを言うこともある、ということを、ホセはよく知っていた。
右手の人差し指を規則正しく机に叩きつけながら、かつて自分が『悪魔祓い』を習得した際に使用した教則本を眺める。――十五分ほど眺めたが特にいい収穫は得られなかったので、諦めて本を閉じた。どのみちあの部下は自分でどうにかするのである。
その時、ことん、と机の横で音がした。
はっとしてホセが顔を上げると、マリアが大きなカップに何かを入れて運んできたところだった。ふんわりと甘い香りが周囲に立ち込める。ホット・ココアの香りだということはすぐに分かった。しかし、彼女にはこんなことを教えたはずないのだが。
「マリア? どうしたんです、これ」
驚きのあまりホセはカップとマリアとを交互に見つめる。
「教えてもらったの。これが好きだって」
誰に、とは言わなかったが、おそらく昼間に彼女を預けた科学研の職員だろう。彼とは古くからの知り合いで、同時にA-Pプロジェクトのことを熟知している人物でもある。そのため安心して預けることができたのだが、その間に彼はマリアにあれこれ仕込みを入れたらしい。
「ありがとう。いただきますね」
アンドロイドにすら気を遣われるとは。ホセは反省し、広げていた教則本の類を机の端へ追いやった。
マリアの頭を撫でてやると、嬉しそうに少しだけ目を細めた。
一口それを流し込むと柔らかな甘さが口いっぱいに広がり、張りつめていた心が融けてゆくようだった。疲れたときには甘いものと言うが、なるほどこれは言い得て妙だ。
マリアがじっとこちらを見ているので、ホセはにこりと笑いかけ、
「おいしいですよ」
と感想を述べてやる。マリアはそれで大分機嫌が直ったらしい。
その時だった。
ぴくんと、マリアの動きが停止した。ホセも「それ」に気がつき、そっとカップを机に置いた。なにか、エクレシア本部にあるはずがない妙な気配を感じたのだ。
「何だ……?」
「司教、外に何かいる」
ホセは慎重に窓辺に近づいた。ガラス越しに見る限りは特に何も見当たらない。いつも通りの夕暮れである。元々この辺りはあまり人通りが多い方でもない。現に今は人っ子一人見当たらず、西日がゆっくりと街路樹の影を伸ばしてゆくだけだ。しかし、気配だけは未だはっきりと感じている。この近くだということだけは分かるのだが。
ホセは窓を開け、身を乗り出して周囲を確認してみた。やはり何もない。
「司教! だめ!」
マリアのその声が彼の耳に届くその前に、ホセの身体は上から落ちてきた『何か』に突き飛ばされた。バランスを崩したホセの身体はそのまま窓枠を越え、宙に放り出される。
ホセは右腕を振り、仕込んでいたワイヤーを窓枠に飛ばした。ぐん、と全身が引っ張られ、落ちることは何とか免れたものの、腕にかかった急激な負荷により骨が微かに軋んでいる。
息をつく間もなく、今度は地上から黒い何かが放たれたのが見えた。それが弾丸であるということをホセが認識するよりも早く、「彼女」の姿がホセの前に立ちふさがる。
「『HIC EST ENIM CALIX SANGUINIS MEI,ET AETERNI TESTAMENTI』」
彼女の背中には、鋼鉄の翼。続けてホセは祝詞をあげる。
「『第二釈義(exegesis)展開・発動!』」
紅いルビーの瞳がきらりと瞬いた。
刹那、彼女の両手から大量の聖火が噴き出す。先日の一件に比べれば多少コントロールされているようだが、それでも一つの弾丸を燃やすのには十分すぎるほどの火力である。聖火が弾丸に触れた刹那、青いプラズマが走ったのをホセは見逃さない。
まさか、とホセは思う。
青いプラズマを放つ異能力といえば、“嫉妬(Invidia)”のアトリビュート“弾丸(Bullet)”くらいである。“嫉妬”のお出ましか、と身構えたのだが、
「――あっ……」
地上にいたのは、ホセが全く予想もしていなかった人物だった。
その男のことは誰よりも知っているつもりだった。今も脳裏にはっきりと焼き付いている。白金の髪に、青い瞳。黒く裾の長いコートに、その手には煙の立たないシガレット。
ホセの脳裏に生々しい記憶が蘇る。
肉に突き立てた刃物を抜きとる際の、あの独特の感触。ぬめる掌のせいで、うまく力が入らなかった。ようやく刃物を抜き取ると、噴き出す血液により全身が真っ赤に染め上げられた。白く湯気が立ち上り、傷口が徐々に視界からかき消されてゆく。冷えた手が求めていた暖かさを微かに感じていたが、このときばかりは吐き気がしそうなほど気持ち悪かった。上に跨り首を絞め、苦しいはずなのにあの男は嗤って。
そして言ったのだ。今も彼を捉えて離さない、呪いの言葉を。
『また会おう、戦友』
「トマス……」
絞り出すような声色で、ホセはその名を呼んだ。
マリアはホセの横で、彼が敵なのかどうかを見極めているようだ。鋼鉄の翼から赤と黒の配線がむき出しになっているのが見える。それを目にすることで、ようやく彼女がアンドロイドであると分かるくらいには、今の彼女の仕草は人間らしい。
ホセは自分からワイヤーを切断し、地上に降り立つ。そして、突如現れた眼前の男を睨めつけた。
動揺などという生ぬるい言葉ではとてもじゃないがこの気持ちを表現出来やしない。ひどくどろどろとした、憎しみにも似た感情が沸き上がる。自分の醜さに心底辟易するが、今のホセはその感情をばっさりと捨て去ることにした。
白金の髪の男はシガレットのフィルターを口から離し、ふ、と息を吐き出した。
聖職衣を連想させるコートの裾が、風に舞いふんわりと円形に広がってゆく。瞳の青い光彩が一瞬だが銀色に輝いた。それでホセは確信を得た。この独特な瞳の色を忘れるはずがない。
「どうしてあなたがここにいるのですか」
男はふ、と気が抜けたように笑い、一層凄みの増すホセのアイボリーの瞳をじっと見つめた。
この瞳に見つめられると不思議な気分になる。まるで、心の奥底まで見透かされているような――
「久しぶり。二年ぶりかな、戦友」
そう言うや否や、トマスと呼ばれた男はホセの額に黒い短銃を突き付けた。こんなにも至近距離で銃口を突きつけられているというのに、ホセは決してうろたえることなく、むしろ毅然としていた。
地上に降り立ったマリアはそれをやめさせようと、ホセに祝詞を求める。
しかしホセに彼女の声は届いていない。ようやくのろのろとした口調で発せられたのは、彼女が求める祝詞なんかではなかった。
「何度わたしは、あなたを殺せばいいのでしょう」
トマスは優しく笑い、ゆっくりと引き金を引く。
「既に二回も殺されているからな。さすがに次は勘弁してもらいたいものだ」
同時に、乾いた音が鼓膜を激しく揺さぶった。
――銃口から発せられた青の弾丸は軌道を大きく逸れ、ホセの右頬を掠めていった。あと数センチでも動いていたら確実に命中していただろう。否、そもそもトマスはこの弾丸を命中させる気などなかったのではないか。彼にとって、これはただの「ご挨拶」に過ぎない。
表情一つ変えず、穏やかな口調でトマスは言う。
「これね、自分の意思で軌道を変えられるんだ。すごいだろ」
「……なるほど。銃口の向きだけでは想定できないところを弾が走るんですね。最近の“七つの大罪”は面白い技術をお持ちで」
「ま、俺の能力じゃないけどな。ちょっと二人で話そうぜ」
“封印”、とトマスは小さく呟いた。
その瞬間、周りの音――例えば木々のざわめきや風の凪ぐ音、そのような音すらも一切シャット・アウトされ、あたりがしんと静まり返る。この空間には、己とこの男しかいない。マリアすらも遮断されてしまった。だからといって、引き下がる訳にもいかない。
ホセは腹を括り、彼の前に「対等に」立つ。
目的は何だ、とホセが鋭い言葉を投げかける。この男にいつもの丁寧語は不要だ。そう判断してのことである。
「ちょっと確認したいことがあって」
トマスは青銀の光彩をホセのアイボリーに重ね合わせた。じっと射抜くような視線で、腹の中を探り合う。どのような意図がこめられているのか、判断するにはまだ材料が足りなかった。ホセは怪訝そうな表情で真意を問う。
「こちらからお前に言うことは何もないが?」
「お前が一番初めに俺を殺したときに、『アレ』を渡しただろ。アレはどうした?」
「『アレ』……?」
「『契約の箱』だよ。処分してくれたか」
ぴくりとホセの眉が動いた。そのまましばし口を閉ざし、じっと言葉を選んでいる。トマスの目には、彼が何やら迷っている風にも見えた。ようやく結論が出たのか、ためらいがちにホセが口を開く。
「……、なぜ今その話になる」
「再確認。ただそれだけだ」
トマスはため息交じりに言う。「どうも、うちの“嫉妬(Invidia)”がアレについて嗅ぎ回っているらしい。だから念のため」
「分からない」
ホセがきっぱりと言い放ったので、トマスは思わず「はっ?」と目を剥いた。そして、お前は何を言っているんだとばかりにホセに詰め寄る。その剣幕に、さすがのホセも狼狽する。
「どういうことだ」
「私はあの後、アレが確実に誰の手にも触れぬよう『ある人物』に託した。その後の所在は分からない」
「その人物とは」
「お前に言うことではない。少なくとも枢機卿ではないことは確かだ」
そこまで聞くと、トマスはホセの目の前で脱力した。その場にへたり込むと、何やらぶつぶつと呟き、必死に考えをまとめている。
「OK、おーけー。お前がヘマをやらかしたことはよく分かった。まぁ、想定範囲内だけど」
そう言われるのは心外である。ホセは内心苛立っていたが、少しだけ我慢し、「どういう意味だ」と尋ねる。
「あの時は俺もお前に刺されていたから、確実に処分しろだなんて言ってる場合じゃなかったもんなぁ。仕方ないかぁ。お前なら分かってくれると思ったんだけど、やっぱり人間は本当の意味で分かり合えないものだね。全く」
トマスは大きな独り言を言い、それじゃあ、とようやく立ち上がる。
「次のアクションの決まりだ」
深海にも似た瞳は、ホセを見つめて穏やかに揺れている。この表情に、ホセは何となく彼が言わんとしていることを理解した。
「……姫良助祭がどうした」
勘が良すぎるのも考えものだね、とトマスが言う。そして肩をすくめるオーバーな動きの後、手にしていた銃の安全装置を再び解除した。
カチリ、と重たい音が静けさの中ではっきりと響いた。
ホセはその音をただじっと押し黙って聞いていた。あの音は大分前に何度も耳にしていた。心のどこかで「ああ、懐かしいな」と考えている自分がいる。彼が白い髪の隙間から笑みを浮かべ、まっすぐにそれを構える姿が容易に想像できる。
彼は銃を扱う際、一度だけ、黙祷を捧げるのである。
神と聖霊と、そして今から天に召される新たな天使たちに対して。
その癖すら熟知している自分が愚かだと思う。そもそも、彼が本物の“トマス”であるはずがないのだ。それなのに、どうして否定しきれないのだろう。
いつまでも引きずるのはよくない、と思い直しているうちに、彼の銃口は再びホセの、今度は胸部の中央に当てられていた。逃げようがない。今度撃たれたら、確実に当たる。
「これは保険だ。俺が相当の覚悟でこの場に臨んでいるということ、どうか分かってほしい」
彼が次に何を言い出すか、ホセは何となく予想がついていた。それが三善のこととなれば尚更だ。
「事が落ち着くまで、姫良真夜の子供を預からせてほしい」
「何故」
「そうする必要があるとたった今判断した。あの子供はもうエクレシアにも“七つの大罪”にも関わらせてはいけない」
「それは忠告か」
「警告だ」
ホセは一度瞳を閉じ、右手を彼のバレルにゆっくりと置いた。そして左手も、右手に重ねる。そのしんとした聖気をまとう姿はまるで祈りの姿であった。トマスもまた、彼の戦場での姿を思い出したのだろう。一瞬だけ動揺した表情を見せた。
「――『第一釈義(exegesis)展開・発動』」
その時だった。突如トマスによる“封印”が外側から打ち砕かれた。途端に溢れんばかりの音が二人を包み込み、衝撃にも似た風圧が全身を叩きつけた。そのまぶしさに思わず目を閉じると、ぱちぱちと頬に何かが当たる感触が伝わる。
両手で確認してみると、それは塩のかけらだった。
「マリア!」
ホセが猛る。
塩のかけらが舞う中、マリアの小さな身体がトマスに向けて突進する。
トマスに彼女の両手がぶちあたる刹那、彼女の口から洩れた言葉。
「私の主人をいじめないで」
マリアの釈義が発動する。それは、彼女――否、ホセが持つ釈義の中で最も危険視されてきた、そして今も凍結されていなければならないはずのあの釈義である。
その名は――第一釈義『灰化』。
慌ててトマスが己の「釈義」を展開し、それを無効化した。何とか自分の身体は守れたようだが、銃は全て灰に転換され、塩のかけらと共に空に舞い上がった。今のトマスは完全に丸腰だ。ちっ、とトマスが小さく舌打ちする。
受け身を取り起き上がったが、その背後には既にナイフを握るホセの姿があった。頸動脈に鋭い刃が添えられており、金属独特の冷たさが肌を伝う。
「エクレシアを裏切ったお前のことを誰が信じるか」
「お前の言い分はもっともだが、ちょっとは冷静になれよ。少なくとも俺に預けてくれれば、今の状況より悪いことにはならないぜ」
降参の意を示すため、両手を挙げながらトマスは横目でホセを見る。「随分と可愛らしいお嬢さんじゃないか。戦闘人形にしておくのはもったいない」
「彼女は戦闘人形なんかじゃない」
「どう違うの?」
トマスが茶化すような口調で尋ねた。「お前とほとんど同じ能力を使うようじゃないか」
「彼女には自我がある」
「ふぅん」
自我か、とトマスが呟くと、続いてこちらを睨めつけているマリアの、真っ赤なルビーの瞳を見つめる。そして、小さく何かを呟いた。
「……こちらの苦労も知らないで」
「え?」
今のは忘れてくれ、とトマスの声がホセの耳に届くのと、一筋の風がトマスを包み込んだのはほぼ同時だった。驚きホセが一歩後ずさると、その風は彼の全身をすっかり覆い隠してしまう。そして、ひゅうっ、と甲高い風の悲鳴が鳴り止んだ頃には、トマスは完全に行方をくらましていた。
意味を成さなくなったナイフを握ったまま、ホセはぼんやりとその場に突っ立っていた。展開させていた『釈義』を完了させることすら忘れてしまっていた。
ただ、今までのやり取りが延々と頭の中を駆け巡っている。彼に言われるまで、すっかりと忘れてしまっていたことだ。むしろ、今後の人生のうちでもうお目にかかることなんかないと思っていた。
「なんで今更、『契約の箱』なんか……」