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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
2.嫉妬の蒼き弾丸
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第一章 3

 祝詞を上げるのと同時に、三善は駆け出した。紅い双眸はまっすぐに宙を舞う蛾へと向けられている。大分高いところを飛んでいるが、瓦礫を踏み台にしていけば近づくことはできるだろう。三善の『釈義』は基本的に近接向きであるが故、できるだけ間合いを詰めていくことが重要になる。

 まるでステップを踏むように隆起したコンクリートの山を乗り越えてゆく。あと少しで手が届くくらいには近づける――そう思ったが。

 刹那、再び蛾が大きく羽ばたき、強烈な突風が三善に襲い掛かる。

 三善の細い体躯はバランスを崩し、石化した樹木へと真っ逆さまに落下していく。視界を掠めるのは、あの鱗粉だ。風に煽られた際に付着したのだろう、パーカーの袖口が微かに硬化していることに気が付いた。

 まずは鱗粉が先か。

 三善は奥歯を噛みしめ、小さく祝詞を唱える。

「『逆解析リバース』」

 三善の全身が『最強の鎧』へと変換されるのと、瓦礫の山に突っ込むのはほぼ同時だった。赤い独特の火花が飛び散る。そのまぶしさに、思わず三善は目を細めた。息が詰まるほどの衝撃ではあったが、鎧の効果だろう、痛みは全く感じられない。すぐに受け身をとり、三善は身体を起こした。ついでに石化が進んだパーカーは脱ぎ捨てた。その下に着ていた黒いシャツ姿となり、再び地上から蛾を仰ぎ見る。

 真正面から斬りかかるのは無理があるのかもしれない。

 なにか別の手段はないだろうかと考えていると、頭上から声が聞こえた。

「ヒメ、聞こえるか!」

 声の主は、背に塩の翼を背負い、聖十字の剣を握りしめたケファである。どうやら空中から攻めようとしたらしいが、あの強風と鱗粉により妨害され近づくことすら叶わないといった様子だ。

 三善が返事すると、ケファは指示を出すため、左手を口にかざし大声を出した。彼の翼がはためくたび、空から塩のかけらと灰が降ってくる。

「まずは鱗粉が先だ! 聖フランチェスコ学院でやってみせたアレ、できるか? 盾が欲しい!」

「やってみる!」

 三善はあたりを見回し、なにかを探し始めた。――それはすぐに見つかったが、少々良心が痛む。

 三善が探していたのは対価となる鉄の塊だ。この鱗粉のせいで、あらゆるものが石化してしまった。そのせいで、通常時ならばそれほど無理をせずとも手に入る三善の対価が見つからなかったのである。ようやく見つけた対価というのが、自分たちがつい数十分前まで乗っていた車である。三善が見つけた段階でスクラップ状態になっていたが、なんとか石化は免れていたというある意味奇跡の代物だった。

 ここで対価として使用したとして、ケファの廃車記録が減るわけでもない。それであれば、ありがたく使わせてもらおう。三善はボンネットに手を当て、精神を集中させた。

「『装填(eisegesis)開始』」

 ケファ一人分の盾にするくらいであれば、この一台分で十分に足りるはずだ。

 頭の先からつま先まで、ゆっくりと『釈義』特有の熱が流れてゆくのを感じる。すべてを消化し切るまでにはかなりの時間がかかる。それまではどうにかしてもらえないだろうかと、三善はちらりとケファの様子を追った。

 ――だが、彼の姿を捉える前に蛾の動きが目に飛び込む。こちらは三善の行動に既に気づいていたようだ。すぐに邪魔しようと身体を三善のいる方角へ向きなおし、はばたきを一層強くしようとする。

 一瞬の凪を、彼が見逃すはずがない。

「邪魔すんじゃねえよ」

 ケファが小さく祝詞を上げると、雷にも似た光の矢を数本放つ。蛾の眼前に到達した刹那、それらは唐突に爆発した。白のフラッシュが視界を奪い、蛾の動きがぴたりと止まった。苦悶する雄叫びが鼓膜を劈き、その痛みにケファは微かに顔をしかめる。

 しかし、好機は見えた。手にした聖十字の剣を振りかぶると、己の身長ほどもある翼に切りかかった。片翼だけでも落とすことができれば、と思ったのだ。思いのほか切り落とす感触が重たい。三回に分けて力を込めると、ようやく一枚そぎ落とすことができた。

 しかし、その頃にはすでに奪ったはずの視覚が戻ったらしい。

 羽を一枚落としたにも拘らず、そのはばたきの強さは変わらない。むしろ強くなっている気がする。羽をもいだことで相当怒らせたらしく、より一層強まるはばたきが、とうとう巨大な竜巻を生み出した。

「しまっ……」

 この勢いで鱗粉を撒かれたらひとたまりもない。自分だけではなく、このあたり一帯が廃墟と化してしまう。三善は、とケファが足元に目を落としたが、こちらはまだ『釈義』の装填が完了していない。

 判断を誤ったか、と考えたその時、聞き覚えのある男の声が耳に飛び込んできた。

「『HIC EST ENIM CALIX SANGUINIS MEI,ET AETERNI TESTAMENTI』!」

 彼の声と同時に、少女がゆらりと姿を現す。

 少女の髪は緩いウェーブがかった亜麻色で、ふわふわの長いスカートがその風に揺れる。首から下げた銀十字が、熱を帯びたように赤銅に変色し始めた。

 少女――マリアの口から発せられた鈴の音のような可愛らしい声が、その祝詞に呼応する。三善の瞳は紅蓮の炎のようだと表現したが、彼女のそれは夕焼けの色にとてもよく似ていた。じわりと滲む朱色のグラデーションが、感情という感情をそぎ落とした彼女の声と連動する。

「『主人マスター・承認。これよりホセ・カークランドに全権を委ねる』」

 彼女が瓦礫の上を駆け上り蛾に近づくのと、蛾が竜巻をこちらに放つのはほとんど同時だったように思う。濁った茶色の鱗粉が、宙を舞うケファはおろか彼女自身にも降りかかろうとしていた。

 ホセの鋭い声が飛ぶ。

「『第二釈義(exegesis)展開・発動』!」

 マリアの眼光がきらりと光る。

 その掲げられた細い両腕から、激しく燃え盛る聖火が噴き出した。竜のようにうねるそれは、火の粉をまき散らしながら竜巻へとぶつけられる。数秒ののち、地を震わすほどの大爆発が起こった。

 この少女がこれほどのことをやってのけるとは、誰が想像できたろう。これにはケファも三善もぽかんと口を開け広げ、続いて地上にいるはずのホセに目をやる。彼は彼で、やりすぎたと言わんばかりの顔で灰が飛び散る空を仰いでいた。

 爆発ついでに鱗粉をも焼き払ってしまった彼女は静かに両腕を下ろし、

「前、見て」

 呆けたまま動きが止まったケファに鋭い一言を浴びせた。

 我に返ったケファは一度旋回し、剣を構える。蛾は先ほどの大爆発の際に発生した強い閃光に再び目がくらんだらしく、もがきながら奇声を上げていた。

 まずは、あれか。

 彼の切っ先は真っすぐに、蛾の瞳へと向けられる。こんなに近くにいるのに、蛾はまだ気が付いていないようである。握る柄に力を込め、ケファは一思いに突いた。

 まるで間欠泉のように噴き出した蛾の体液。生暖かいそれを全身に浴びたケファは思わず顔をしかめた。水分を吸って身体が重いし、それにひどい悪臭がした。

「このジャケット、気に入ってたのに」

 ひとまず顔をシャツの裾で拭い、剣を引っこ抜いた。先ほど羽を落とした時のように力が必要かと思いきや、ずるり、とあっさり抜けた。まもなく、トマトの皮のように角膜らしきものが剥けた。

「ケファ!」

 ようやく三善の装填が終わったらしい。その声を合図に、ケファは一度蛾から離れた。

「やれ! 俺じゃなく、そっちだ!」

「『深層(significance)発動』!」

 三善が哮ると、彼の左腕が白く瞬いた。それを蛾に向けて翳し、力の限り『釈義』を込める。以前聖フランチェスコ学院の講堂でやって見せた壁の生成を、蛾に向けて発動させようとしているのだ。先ほどはケファの盾として実行しようとしたが、問題の鱗粉がマリアの手によって燃やされてしまったため、方針を変えざるを得なかったのである。

 銀の津波が蛾を飲み込み、どんどん収縮してゆく。まるで繭のようだ。巨大な繭の中に蛾を回帰させているような、とても奇妙な光景だった。

 数秒ののち、その繭は完成した。鉄の繭の中に収められた蛾の鳴き声は、もう聞こえなかった。鈍色に輝くその塊は日の光を反射しながら、ゆっくりと地上に落下する。三善が軌道をコントロールしているのだ。なるべくゆっくりと地上に下ろすと、ようやく彼は一息ついた。

「お疲れ様です」

 ホセが三善に声をかけた。「ここまでやれば、多分大丈夫でしょう」

「そうだね。いつかは繭の中の酸素がなくなるだろうから、そのうち窒息するんじゃないかな」

 三善はさて、と鉄の繭を眺め、小さく唸り声を上げている。

 彼が言いたいことはとてもよく分かる。これの処分についてだ。いつまでもこんなところに置いておくわけにもいかないし、何より結構邪魔だ。だからといって、この大きさ――大型トラック並みの巨大さである――のものを運ぶのは少々骨が折れる仕事になりそうである。

 対価切れにより地上に降りてきたケファが、三善の下へ駆け寄る。彼はその場で着ていた皮のジャケットを脱ぐと、三善と全く同じことを考えたらしい。暫し難しい顔をして考えごとをした結果、

「これ、どうしたらいいと思う」

 考えがまとまらなかったようで、とりあえず質問を投げかけることにしたようだ。

 ホセは左腕の時計を確認し、

「もうじきこちらに担当者がやってきますが」

とだけ言った。どうやら事前に連絡だけは入れておいたらしい。

 なるほど、とケファは頷き、はっきりと言った。

「担当者に任せよう」

 これには三善が反論した。さすがにこの大きさのものを丸投げするのは気が引ける。せめて何か対処すべきでは、とケファを引き止めた。

「例えば、マリアにもう一度さっきの聖火で燃やしてもらうとか――」

「却下。あれを燃やすとなると相当な火力が必要だ。今、この場所でやることじゃない。それにこのクソ狸は一度加減を間違えているから、すべてを任せるのはかなり危険だと思う」

 ぐうの音も出ないホセは、このケファの意見に頷くしかできなかった。

 多少訓練してからマリアを連れ出したとはいえ、実戦ではこれが初めてだったのだ。思わず力んでしまい『釈義』を使いすぎたが、今後はもっと考えて使わなくてはなるまい。

 ふと、ホセは自分の横で袖を引くマリアに目線を落とした。彼女へ与えられた『釈義』は、やはり想定外に大きい。気を付けて使う、という程度で済むだろうか。今度は間違えたりしないだろうか。少々不安になったのだ。

「……司教?」

 マリアがきょとんとしてホセを仰ぎ、小さく首を傾げた。

 なんでもありません、とホセは優しく微笑み、彼女の頭をそっと撫でる。彼女は無表情のままだったが、それを嫌がったりせず、大人しく撫でられ続けた。

「ところで、ヒメ。俺の車は?」

 ケファが尋ねると、三善はあっけらかんとした口調で答える。

「あれだよ」

 彼が指した先は、先ほどから話題に上っている鈍色の繭である。ケファは頭にクエスチョン・マークを浮かべ、その言葉の真意を考えているようだった。

 数十秒後、まさか、とケファは青ざめた表情で呟く。

「お前、対価にしちゃったのか……」

「元々スクラップになるところだったし」

「そういう問題じゃねぇよ。お前に自転車買ってやる場合じゃなくなっただろうが」

「えっ」

「あーもう。新車だったのに……」

 その後、ようやく担当者が到着したものの、この場を収めたプロフェットが二人して泣きそうな顔をしているので、かなり不審がられたのは言うまでもない。


 ――案の定、三善の自転車購入は先送りとなった。

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