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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
2.嫉妬の蒼き弾丸
30/80

第一章 1

 エクレシア本部の朝は早い。

 午前三時半に起床し、二〇分後には読書課を行う。六時から朝の礼拝があり、それが終わってからようやく朝食をとる。そして休む暇なく各々の仕事を始めるのだ。業務内容により多少の時間の前後はするものの、エクレシアの日常はおおむねこのような流れになっている。

 そんな訳で規則正しい生活を行うことを余儀なくされている彼らだが、中にはやはり朝が苦手な者もいる訳で。

 ――姫良三善助祭も、そのうちの一人である。

 布団は、あったかい。いっそのこと布団になりたい。

 意味不明な言葉を呟きつつ、三善は寝がえりをうつ。ちなみに彼は寝相も半端なく悪い。ぐちゃぐちゃになった白い布団からはみ出た細い身体は、やはり乱れた衣服に包まれている。腹が出ているのはまあ、言わずと知れたことである。

 そんなあられもない姿を真上から見下ろしている彼、ケファ・ストルメントは、これはどうしたものかと微かに唸り声を上げている。確か昨日、寝る前に「明日は休暇扱いにしているけど、絶対に寝坊するなよ!」とあれほど口酸っぱく言っておいたはずなのだが。

 ふと枕元に置いてあるデジタル時計に目を向けると、なんと、目覚ましタイマーの設定が十二時間ずれていた。

 この馬鹿、と言いたかったが、それは敢えて言わないでおいた。

「おーい、ヒメちゃーん。おっきしてくださーい」

 とりあえずぐりぐりと足で踏みつけながら呼びかけてみると、「むぅぅうぅ」と奇声を上げ、三善は再び寝返りをうつ。数秒後、規則正しい寝息が聞こえてくる。

「だから起きろって。み、よ、し! 今日は早起きしろって言っただろうが!」

 耳元で怒鳴りつけると、彼はようやく瞼をのろのろとこじ開けた。深紅の瞳は初め焦点が合わずにぼうっと宙をさまよっていたが、次第に目が覚めてきたのか、突然ぱっちりと開く。

 そんな彼の第一声は、

「……けふぁ? どうしたの?」

「どうしたの、じゃねえよ! 今何時だと思っているんだ。時計の文字は読めるかなぁ?」

 促されるままに枕元の時計を見やり、三善は思わず「わあ……」と驚きの声を上げた。完全に寝坊したことに、今やっと気づいたらしい。

「アラームが十二時間ずれてる!」

「俺はそんな古典的なボケをされるとは思ってなかったぞ。三善、飯は外で食うぞ。十分で支度しろ」

「外?」

 よくよく見ると、ケファの服装はいつもの聖職衣でなかった。

 黒のジャケットに灰色のジーンズ。白のインナーシャツの首元は多少開けられ、その下に細い鎖が見える。

 なんだその格好は、と聞く前に、三善の顔面に何かが叩きつけられた。もふっ、とこれまた珍妙な声をあげると、それが何なのか把握するために恐る恐る広げてみる。

「――服?」

「今からお忍びデートしようぜ。ヒメちゃん」


***


 何を隠そうこの三善、仕事以外で外に出ることが滅多にない。

 彼に課せられた特殊な都合を省いたとしても、日用品などは本部内の施設で十分揃うし、そもそも仕事が休みになることの方が珍しい。免許を持っていればもう少し気軽に出歩けるかもしれないが、あいにく三善の年齢ではそれも叶わず。

 そういう理由もあり、少なからず三善はわくわくしていた。

 彼らがいつも乗っている公用車ではなく、ケファの私物である車に乗り込むと、ゆっくりと発進する。空は快晴、極端に暑い訳でもなく、とにかくお出かけ日和なのは間違いない。

 助手席で三善はぼんやりと窓の外を見ていた。ケファから投げつけられた灰色のパーカーと青みが効いたジーンズ、靴は仕方ないので普段使いのものをそのまま履いてきた。「途中でなんか買ってやるから」とは言われたが、正直なところ今後それを使うかどうかは不明である。

 隣でハンドルを切るケファは機嫌がいいのか鼻歌を歌っていたが、――しかし表情は無表情だったので、理由が分からず三善は小さく首をかしげた。

 本部を離れ少し経った頃、赤信号で車が停車したのを見計らい、やっと三善は口を開いた。

「ねえ、ケファ。どこに行くの? というか、でーとって何」

「んー? ちょっと社会科見学に行こうかと。デートは言葉のあやだ。気にするな」

「しゃかいかけんがく?」

「まあ、研修とでも思えばいいさ。俺も日本に来てから長い方だと思うけど、観光なんてしたことないし。ちょっと遊んでいこう」

 ふうん、と三善は生返事をし、それから再び窓の外へ目をやる。外の景色がよほど珍しいのかとも思ったが、三善がぽつりと一言。

「おなかすいた」

「……はい」

 車はそのまま高速道路に入り、一定の速度で景色が流れていく。さすがにこの光景は面白かったようで、へばりつくように三善は窓ガラス越しに外を眺めている。

「平日なのに車がいっぱいだね」

「高速道路(autoroute)だもん」

「おと、ると?」

「えーと、日本語で何て言うんだっけ。こうそくどうろ、か? なんだ、高速道路知らねえの?」

 三善が首を縦に振ったので、そうか知らねえのか、と呟く。一般常識をもう少しきちんと教えてやるべきだった、とケファは少しだけ後悔した。

「高速道路っつーのは、ええと、自動車専用道路のことだな。自動車が安全快適に高速運転するための道路で、人間が侵入したら捕まる」

「ふーん。そうなんだ」

 車を途中のパーキングエリアに停め、遅い朝食を購入した。基本的に二人は四本足の動物は食べないので、それ以外のものを探した結果、無難にオニギリとなった。それから、なぜかプリン。

 パーキングエリア内に設置されているベンチに腰かけ、それらをもしゃもしゃと食べながら、三善はのんびりと言った。

「きれいだね」

「ん? 何が」

「空があんなに遠いところにある。車の音がうるさいけれど、自然にあふれている。本部も山の中にあるけど、こことはまた違うよね。こっちのほうが好きだなぁ」

「あー、そういうこと」

 そうね、とケファは頷いた。

 やや反応が淡泊だったためさほど外に興味がなかったのかと思っていたが、まったくそんなことはなかったという訳だ。確かに、あの山奥からでは外に出辛いのは本当のことだ。もう少し移動手段があれば、ひとりでも出歩けるのだが……。

 そこでふと、ケファは思いついたことを尋ねた。

「三善、お前自転車って乗れるっけ?」

「自転車? まぁ、一応」

 ケファが赴任する直前に、少しでも体力をつけようとホセが練習させたのだ。意外と呑み込みが早かったらしく、ケファが正式に本部勤務になった頃にはスムーズに乗れるようになったが、いかんせん本部内の限られた場所でしか乗らない上三善の行動範囲が妙に狭かったため、完全に宝の持ち腐れとなったのである。

 なんでそんなことを? と三善が首を傾げたので、ケファは続ける。

「いや……、買えばいいんじゃねぇの。自転車」

「え?」

「今よりは行動範囲が広まるだろ。帰りに荷台に余裕があれば買ってやるけど、どうする」

「ほ、本当?」

 予想外に三善が食いついてきたので、ケファはつい苦笑する。こうしていれば、普通の少年なのだ。鳥かごに閉じ込めておいても、いいことなんか何一つない。だからもう少し、せめて三善の傍にいてやれる間だけは、もっともっと普通のことを教えてやりたい。

「ただし、危ないところに行くのはだめだ。それと、体調が悪い時も。それが約束できるならいいよ」

「約束する」

「了解。じゃあ、帰りに見て行こう」

 やったー、と盛り上がる三善を尻目に、ケファはペットボトルの緑茶を口にする。

 少しだけ、昔のことを思い出したのだ。

 初めて三善にあった日のこと。それから正式に本部勤務になり、三善に付いて洗礼の儀に向け準備したこと。プロフェットとして訓練に付き合い、共に“七つの大罪”と戦ったこと。昔はこんな風に笑うことも少なかったように思うし、口数だって相当少なかった。多少自分にべったりしすぎている気もするが、今の方が断然いいと思う。

 こんなことをしんみりと考えるくらいには、自分も年を食ったものだ。ケファは「我ながら親ばか……」と思いつつ、長時間の運転で凝り固まった首をごきりと鳴らす。

「ほら、そろそろ行くぞ」

 三善はまだプリンに手を付けていなかったが、それは社内で食べてもらうことにした。再び車に乗り込み、アクセルを踏む。

 しばらく似たような景色の中を走ると、高速道路を下りた。ここからは街中を走っていく。

 途中で約束通り、靴を買ってやった。普通の十五歳の少年が履くような、普通のスニーカーである。自分の持ち物が極端に少ない三善はへにゃんと柔らかく笑い、「ありがとう」と礼を言っていた。彼は嬉しいとき、よくこういう顔をしている。買ってやった甲斐があったとケファも笑う。

 時間が予想外に余ったため、せっかくなので水族館にも寄ってみた。

 魚が泳ぐ姿を、三善はずっと眺めていた。……一つの箇所につき、約二十分。「次!」と言われない限り、そこを動こうとしなかった。「あれは?」「これは?」という質問はよくしていたが、それ以外はずっと黙っていた。特に気に入っていたのはマグロの水槽で、勢いよく流れていく大群をずっと、飽きもせず眺めていた。

「疲れないのかな?」

 ようやく口を開いた三善は、隣であくびをかみ殺していたケファを仰ぐ。

「こいつらは回遊魚だから、ずっと泳がねぇと、生きていけないんだよ。だから止まれない」

「どういうこと?」

「ええと。お前が酸素を取り込むには、息を吸うだろう? マグロは海水を飲み込んで、その中の酸素を得て生きている。だから泳いで、泳ぎまくって水を飲まねえと生きていけない」

「ふうん。なんとなく分かった」

 そしてまた大きなガラスにへばりつく。よくもまあ飽きないな、と呆れを通り越して感心してしまうケファである。大水槽の前にベンチがあったので、そこで座りながら三善の背中を眺めていることにした。

 ふと携帯電話を見やると、そろそろこの場所を出る時間になっていた。

 ボタンを操作し、二日前に届いたメールに目を通す。反芻するようにその内容を読み返すと、ため息交じりに画面を二つ折りにする。

「おい、そろそろ出るぞ」

 名残惜しそうにする三善を半ば強引に引きずり、車に乗り込んだ。

 今度は寄り道せず、まっすぐに目的地に向かう。その間、三善はどこで覚えてきたのか、「さかなさかなさかなー」と、妙な歌を歌っていた。予想外に魚が彼の心を掴んだらしい。

 車はそのうち大きな建物に近づき、駐車場にて停止する。

 車から降りると、三善は風の匂いが今までと違うことに気がついた。塩気が混ざった、少しべたつく風だ。

「海が近いからだ」

 そんな三善の思考を察し、ケファが声をかけた。「見えるだろ? あっち」

 ケファが指した方を見ると、確かに水平線が広がっていた。日の光を浴びプリズムのようにきらきらと瞬いている。海と聞いて先ほど見た水族館の水槽の色を連想したが、今はそのきらめきのせいで白んで見えた。

 三善はしばらくそれを眺め、先に行ってしまったケファの後を追う。

「海って、神様が造ったアレのこと? 第三の日」

「『創聖記』か。そう、それだ。もっとも、本当に神様が造ったかは分からないけどな。俺たちの教えでは、そうだ」

「ところでここはどこ?」

「んー。空港」

 迎えにきたんだよ、あいつらを。

 ケファはそのように言い、おそろしく長いため息をついた。


***


「ああ、待っていましたよブラザー・ケファ。遅かったですね」

 にこりと笑い、そう声をかけてきたのはホセである。黒のスーツを身にまとい、小さなトランクを携えていた。数か月前に土岐野を連れてドイツに向かったのだが、今日ようやく帰国となったのである。

 ――思い起こせば二日前。ケファの滅多に鳴らない携帯電話がメールの着信を訴えたかと思えば、その相手はホセだった。迎えに来てください、という一言と日本への到着時刻のみが綴られたそのメールに、ケファはつい苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてしまった。とはいえ、一応は自分の上司の言うことではある。ついでだから三善も連れて行こうと外出許可の手続きを二人分とり、溜まった仕事を緊急で片づけるに至った。

 この二日分の苦労をどうしてくれる。

 あからさまにケファは嫌そうな顔をしているが、三善はそれとは対照的に嬉しそうに彼に駆け寄った。

「ああ、ヒメ君。君も一緒でしたか。この服はどうしたんです?」

「ケファがくれた」

「そうですか。よく似合っていますよ」

 ふわふわの灰色の髪を優しく撫で、まるで親子の会話を繰り広げる彼らを見やり、さりげなくケファは視線をそらした。他人のふりをしたかったらしい。

 しかし、そこでホセの背後にもうひとりの影がいることに気がついた。

「おいクソ狸。その子か、『例のプロジェクト』の?」

「ああ、そうでした。紹介します」

 にこりと笑い、ホセの後ろでぎゅっと裾を掴んで離さない『彼女』の肩を叩いた。

 その少女は三善よりも年下だろうか、ずっと幼い顔立ちをしていた。亜麻色の髪、白磁のような肌、そして三善と同じ真っ赤な瞳。黒を基調としたクラシカルなワンピースに身を包んだ彼女は、まるでビスク・ドールのようである。彼女はホセに話しかけられても、終始無表情であった。しかし、口元をきゅっと強く結んでいることから、相当緊張しているように見受けられる。

「彼女はマリアです。可愛いでしょう? 一応十三歳という設定です」

 穏やかに話すホセは、今度は彼女――マリアに向きなおり、声をかける。

「マリア。このでっかくておっかない顔しているのが、ケファです。ケファ・ストルメント。そしてこちらが、姫良三善君ですよ。仲良くしましょうね」

 ホセがそう言うと、こくりとマリアは首を縦に動かし、初めにケファ、次に三善に手を伸ばした。開いた手のひらはとても小さくて、可愛らしい。――どうやらその手は、握手を求めているようだ。

「はじめまして、嬢ちゃん」

 ケファが手を伸ばし、ゆっくりと握手する。三善もにこにこと笑い「よろしくー」と握手を交わした。

 だがその瞬間、彼女は驚くべきことを口にする。

「……聖ペテロ、に、教皇……?」

 マリアがぽつりと呟く。

 その声はまるで鈴の音のようにとても可愛らしいものだったが、内容が内容だけに二人はぎょっとした。いきなり何を言い出したのかと妙な汗をかいてしまうほどだ。

「違うの? 『釈義』は合っているのに……」

 きょとんとして彼女が首を傾げたので、さらに二人は目を丸くする。

「どうして分かるんだ、とでも言いたげな顔ですね」

 彼らの思考を代弁し、ホセが苦笑しつつ言う。マリアの頭を撫でながら、どのように説明すべきか言葉を選んでいる。ようやく適切な言葉ができたのだろう、ゆっくりと言い聞かせるような口調で彼は言った。

「ええと、彼女はその手で触れた人物の『釈義』を感知して個人を特定しています。今のところはかつての『十二使徒』の分と、ヒメ君の分しか登録していませんが」

 さすがにプロフェット全員分は多すぎて手をつけられないのです、とホセは肩を竦める。それがさらに三善の頭を混乱させたようだが、ある程度事情を知っているケファはそれでようやく納得したらしい。

 三善のために分かりやすく、という彼の催促に、ホセは小さく頷く。

「彼女は『人工預言者(artificial-prophet)』、つまりはアンドロイドです。エクレシア科学研が総力を上げて生み出した、私のためのプロフェットですよ」

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