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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
1.傲慢の紅き鎧
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終章

 大聖堂の扉が開くと、土岐野がのろのろとした足取りで姿を現した。その身にまとうのは、修道女用の黒く裾の長い聖職衣である。首には傷一つない銀の十字架がきらめき、左腕にはシンプルな造りのロザリオが巻かれている。黒髪が微かに濡れているのは、清めの水がかけられたためだろう。

 三善は長らく大聖堂の前にあるベンチにて儀式が終わるのを待っていた。途中うたた寝をしていたようだが、扉が開いたことに気が付きがばりと顔を上げた。

「雨ちゃん、お疲れさま」

「本当に」

 にこにこと笑いながら話しかけると、土岐野も穏やかな様子で微笑む。疲れているようではあったが、彼女は気を遣ってかそのような素振りは微塵も見せない。やはり彼女はすごいな、と三善は思う。ついでに、神聖な場所でうたた寝をする自分なんかより、よっぽど聖職者に向いていると妙なことを考えた。

「ねぇ、三善君もこれ、やったの?」

 土岐野が濡れた頭を指して言った。洗礼の儀にはお決まりとも言うべき行為が、土岐野にはひどく珍しかったらしい。三善に聞いて多少は勉強して言ったけれど、百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。

 そして驚くことに、その問いを投げかけた少年はけろりとした様子でこう言い放ったのだ。

「やったよ。僕の時は、全身水に浸かったけれど」

 全身とは何だ。世の中、まだまだ知らないことが多すぎる。

 ひと月前に土岐野がエクレシアを訪れてから、毎日のように三善は土岐野の元を訪れた。たいていは皆が寝静まった夜遅くの時間であったため、ほんの十五分くらいではあったが、それでも彼らの距離を縮めるのには十分な時間だった。かつては名を呼ぶことすらためらっていたのに、今ではすっかり仲良しになっていた。

 彼女・土岐野雨は今日フランスへ旅立つ。もともと決まっていたことではあったが、三善はほんの少しだけさみしく感じていた。

 エクレシアを発つにはまだほんの少し時間があったため、彼らは土岐野のリクエストにより中庭を訪れていた。

「学校も、留学扱いしてくれるんだって。やめなくちゃいけないのかなって思っていたから安心しちゃった。高校くらいは卒業したかったし……」

 英国調の庭園の石畳を歩きながら、土岐野は言った。その後に続くように、三善も歩く。

 彼の黄色い肩帯がふわりとなびく。空は見事なまでのコバルト・ブルーで、旅立ちには絶好の日であった。

 空までも彼女の門出を送ろうとしているのだろう。

 三善は先を行く土岐野の背をしばらく見つめた後、ぽつりと呟いた。

「雨ちゃん。さみしくない?」

「え?」

 振り返り、彼女の瞳が三善のそれを射る。その問いに、少なからず戸惑いを覚えたようだ。

「全く知らない場所に独りで行くの、さみしくない?」

 もう一度、今度ははっきりとした口調で三善が尋ねた。

 土岐野は初め悩んだように目を伏せたが、それからゆっくりと首を横に振った。

「さみしくないと言ったら嘘になるよね。だけど、私が選んだの。ここに私の思い出を少しだけ置いていって、帰って来た時にゆっくりと浸るの。そうしたら、きっと私は頑張れる。私は私が望んで、変わろうと思ったの。あの時の言葉は、嘘じゃないよ」

 彼女が“傲慢”に向かって言った、あの言葉を思い出す。


『私は私自身の手で変わるの。邪魔しないで!』


 風がぶわりと吹き、桃色の花弁を巻き上げていく。それが緩むと同時に舞い上がった花弁が雨のように優しく降り注ぎ、甘い匂いが鼻をくすぐる。見上げた空に細やかな輝きが泳いでいた。

「ねぇ、三善君。きれいだね」

「うん。とても」

「私もこんな風に、きれいになれるかな?」

 そう言って微笑んだ彼女は、とてもきれいだった。無垢な笑みは、初め出会った頃のそれとは全く違う。こちらの方が、ずっといい。彼女らしい。

 そう思ったが、三善は敢えてそれを口にしなかった。かわりに、彼女の言葉を肯定するために、小さく頷いて見せた。

「待っていてね、三善君。私、あなたの力になれるよう、しっかり勉強してくるから」

 その時、向こうからホセとケファが並んで歩いてくるのが見えた。彼らは二人分の、決して大きいとは言えない荷物を携えている。

「探しましたよ。そろそろ空港に向かう時間です」

 ホセはいつもの白い聖職衣ではなく、黒のスーツ姿という出で立ちである。左腕には同じ色をした外套を携え、その隙間からちらりとロザリオが見える。

「土岐野さん。……、いえ、シスター・アメ。最後に確認させていただきます。あなたが今から進もうとしている道は、決して容易ではありません。途中で挫折することは一向に構いませんが、挫折云々の前に命を落とすことも十分に考えられます。……それでも、行きますか?」

 念押しするホセの問いに、土岐野は笑った。

「もう、決めたことだから」

 そうですか、とホセは笑う。

「ならば、私たちは出来る限りの手を尽くしましょう。困ったことがあったらいつでも言って下さい。力になりましょう」

 ありがとうございます、と頭を下げた土岐野。顔を上げるようにホセは促していたが、土岐野はしばらくそのまま顔を背けていた。肩が僅かに震えている。それで何かを察したのだろう、ホセは冷たい手でそっと彼女の肩を叩き、何かを耳元で囁いてやっていた。

 ようやく土岐野が顔を上げる。

「ほら、嬢ちゃんの荷物と上着だ」

 ケファが手にしていたものを彼女に渡し、それから思い出したように一通の封筒を取り出した。

「向こうに着いたら、ノアっていう名前のプロフェットがいるはずだ。そいつにこれを渡してほしい。委任状だ」

「はい」

 少しだけ土岐野の表情が曇った。彼女は人見知りをするらしい。加えて、言語の差がどうとか、そんなことを考えているのだろう。一か月の間にちょっとは勉強したようだが、あくまで付け焼刃でしかないことは事実だ。

「心配するな」

 それをすぐに察したケファが、彼女の優しく頭を撫でた。「あいつはいい奴だから。それに、途中まではこのクソ狸もついて行くらしいし」

「ええ。シスター・ノアのところまで彼女を送り届けたら、私はそのままドイツに行きます。向こうで仕事が待っていますので」

 そういえば彼の帰国も当初は一時的なもので、すぐにドイツに向かうはずだったのだ。その予定を全て無理に先延ばしにしたので、もうこれ以上は待たせることはできないのだと言う。

「ホセも行っちゃうんだ」

 三善が眉を下げて言うと、こちらも声を上げて笑い、三善の柔らかな頭をぽすぽすと撫でる。

「私は二か月後に戻ってきますから。そうしたら、しばらくはこちらに居る予定です。それまでお留守番よろしくお願いします」

「うん」

 さて、とケファが小さくホセを小突いた。

「時間だぞ。パスポートは持ったか? 飛行機のチケットは?」

「全く、おかあさんみたいですねぇあなたは。言われなくても持っていますよ」

「しばしば忘れたとほざく奴はどこのどいつだ」

 非常にくだらないやり取りを目の当たりにし、土岐野は思わず噴き出す。そして、先を行くホセの背中を追いかけた――が、途中で足を止め、振り返った。

 三善がまだそこにいた。まさかこのタイミングで振り返るとは思わなかったようで、随分驚いた様子でいた。

「三善君!」

 土岐野が叫ぶ。「いってきます!」



 ――二人が行ってしまってからも、三善はその場にしばらく立ち尽くしていた。

 赤い瞳の向こうには、青い空と、きれいな花の雨。それは彼女の門出を祝福しているのか。

 それとも。

 彼は瞳を一度閉じ、それから斜め後ろにいるケファの姿を見上げた。

「……ケファ。行っちゃったね」

「ああ。行っちゃったな」

 下がりかけた眼鏡を上げながらケファは言う。「待つことも大事だぞ」

「うん。だからここで、待っている」

 “教皇”の目覚めによる祝福なのか。それはまだ、彼らには分からなかった。

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