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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
1.傲慢の紅き鎧
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第五章 4

 土岐野が部屋に備え付けられた浴室から戻ると、こんこん、と小さく何かを叩く音が聞こえた。それはどうやら南側に面した広い窓から聞こえるようだ。土岐野は不審に思いしばらく黙っていたが、あまりにそのノックが続くので、渋々カーテンを開けることにした。

「あっ」

 カーテンを開けた先にいたのは三善だった。いつもの裾の長い聖職衣は着ておらず、白のボートネックのインナーと黒いズボンという出で立ちで、彼女の部屋の前に植えられている大木の上に腰掛けている。土岐野が目を瞠る姿に、彼は微笑み小さく手を振った。

 土岐野が慌てて窓を開け、

「どうして……!」

「しーっ。静かに」

 三善は口元の前に人差し指を立てた。「僕、今脱走中なんだ。このままでごめんね」

「え、ええと。こっち来る……?」

 その言葉に、三善がぱっと表情を明るくしたかと思うと、彼はすぐに釈義を展開し塩の翼を背に生やした。そのまま大きく羽ばたくと、大きく開け放たれた窓から土岐野の部屋へ入り込む。

 青白い月の光に照らされ、蝋のような肌をした彼のことを、土岐野はまるで天使のようだと思った。はっと息をのむほどに美しく、目が覚めるようだった。

 三善は翼を解除すると、静かに窓を閉める。窓の外で、微かに灰が舞っていた。

「ごめんね、急に押しかけちゃって」

「ううん、それより身体はもういいのですか?」

「平気だよ。そのー、ええと」

 三善は言葉を濁し、それから、ばつが悪そうに言った。「僕の方が年下だから、敬語はやめてね。呼び方も名前でいいから。だめ、かな」

 そう言った三善の姿が、土岐野の目には何やら可愛らしい生き物に見えた。例えばそう、子犬のようだ。そんなお願い、聞けない訳がないじゃないか。

「えっ、ええと。じゃあ、そうするね。三善くん」

「うん」

 嬉しそうに三善はうなずいた。

 それにしても、彼は本当に変わった外見をしていると土岐野は思う。

 灰色のくせ毛はほんのりと赤みが混ざっている。顔立ちは日本人がベースのようで、特段彫りが深い訳ではないが、その赤い独特の光彩が人をひきつけてやまない。

 その赤い瞳が、サイドボード脇に置いていた一枚の紙をとらえた。土岐野の釈義に関する調査結果だ。

「土岐野さんは」

「私のことも、名前でいいよ」

「そう? ええと、雨ちゃんは、プロフェットになるの?」

「うん」

 すぐ返事があったことに、三善はひどく驚いた様子だった。彼としては、土岐野はまだ悩んでいるのではないかと考えていたのだろう。

 土岐野は、先ほどホセに聞かれた時よりもなお一層胸を張り、はっきりと言った。

「もう決めたの」

「そっか」

「フランスに行くんだって。三善君は行ったことある?」

「ううん、僕はこの本部から他の場所に行ったことはないんだ。それどころか、外出したこと自体ほとんどない」

 え、と土岐野は声を詰まらせた。そして思い出す。先ほどホセが「彼は特別なのだ」と表現していたことを。

 彼が『聖戦』の抑止だと言われた真の理由が、頭をよぎった。

 彼はその特殊な生い立ち故に、あらゆる自由が奪われているのではないか。年相応に外出することもままならず、この施設にいることを余儀なくされているのではないだろうか。

 わたしの罪の償いのため、です。わたしの、三善君に対する。

 土岐野は唐突に理解した。ホセのあの一言は、おそらく「これ」を意味しているのだと。あれだけ土岐野から一般的な自由を奪うだろうことに難色を示し続けたホセだ、三善のこの状況を何とも思わない訳がなかった。

「だから、僕は今回のお仕事がかなり楽しみだったんだよね。僕、学校も行っていないからね。でも、共用ではあるけれど一応本もテレビも見られるから、同じ年代の子供が通う学校にちょっとした憧れがあって」

 だからね、と三善は笑った。「雨ちゃんが知っていること、教えてほしいな。だめかな」

「どんなことでもいいの?」

 土岐野の問いに、三善は大きく頷いた。


***


「――そうか、あの子、プロフェットになるって決めちゃったのか」

 ケファの言葉に、ホセは小さく頷く。

 ホセが執務室に戻ったところで、ちょうどケファが別件の報告書を提出しに来たのだ。そこでいくつか情報共有をしておくために、二人はこそこそと内輪話を繰り広げることとなった。幸いホセの執務室は施錠可能なので、一度錠降ろしてしまえば他人が入り込むことはまずない。

「まぁ、ノアが珍しくやる気を出したようだし、いいんじゃない? 俺たちがどうこう言う問題じゃないだろ」

「ええ。そうですね」

 苦笑交じりにホセが言う。「彼女が一緒なら大丈夫でしょう」

「日程はどうするんだ?」

「ちょうど来月頭に私がドイツへ行く予定があるので、そのついでに送っていこうかと思います。ひと月もあればパスポートの申請は降りますし、諸々の準備も必要でしょう」

 それを聞いたケファが怪訝そうな顔をした。

「お前、しばらくこっちじゃないのか」

「一時的に帰ってきただけです。まぁ、次はすぐ戻りますよ。そのあとはしばらく本部勤務になります」

「ということは――」

 ホセは頷く。

「とうとう『彼女』のお目見えです」

 かわいいですよ、というホセの言葉に、ケファはさも興味なさげにあくびをひとつ噛みしめた。

「かわいいかどうかはあんまり興味ないけど。でもまぁ、上手くいくといいな。あんたがずっと頑張ってきたプロジェクトだろ」

「おや、まさかあなたの口からそんな言葉が聞けるとは思っていませんでした」

「はいはい。じゃあそれ、渡したからな」

「ええ」

 ホセはケファから受け取った書類――研修報告をちらつかせながら見送った。

 ぱたん、と扉が閉まったのを確認すると、ホセは穏やかな表情とは一変、険しい顔を浮かべながらその報告書へ目を落とす。

 一応ケファは司教見習いなので、本当は三善の面倒を見ている場合ではなく、どこかの司教付となり修行する必要がある。ケファの場合直属上司はホセにあたるのだが、ホセ自身が世界中を飛び回っているため個人の修行など見てやれる余裕がない。そういう訳で彼の場合は別の司教に依頼し課題を与えてもらい、その結果のみをホセに報告するよう指示していた。

 さすが元学者だけあり、基本的には好成績を収めているケファだが、なぜかとある課題だけなかなかクリアできないでいる。今回も例外でなく、彼から渡された書類には再試のマークがついていた。

 ホセ自身も“それ”は得意ではないため人のことは言えないが、さすがに二十回目の再試となると何かあったのかと勘繰りたくもなるものだ。

「まさか『悪魔祓い』が壊滅的に下手くそだとは思いませんでした……あの子まさかサボっているんじゃないでしょうね」

 全くありえない話ではない。ホセはまたしても頭を抱えることとなった。

 ――そのときだった。

 閉じられていたはずの窓が突如開き、強い風が吹きつけた。机に積まれていた紙束が音を立てて飛び散り、視界が悪くなる。強すぎる痛いほどの風に瞳を開けることすらままならなかった。

 微かに感じるのは釈義の気配だ。

「誰だ!」

 叫ぶと途端に風は収まり、散らばった書類が床を真っ白に埋め尽くしていた。先ほどまで手にしていたケファからの報告書も、今の風に飛ばされてこの書類の波に混ざってしまった。それ以外にも重要書類も混ざっていたので一瞬ためらったが、ホセは腹を括りそれらを踏みつけ、窓に駆け寄る。

 月明かりに照らされて、反対側の建物の屋根に人影があるのがぼんやりと見えた。裾の長い外套でも身にまとっているのだろうか。体躯がどうとか、そのようなことは一切判断がつかない。

 ホセはその姿に見覚えがあった。

 しかし、脳裏に浮かんだその人物はこんなところにいるはずがなかった。

 黒い外套から覗くその手には、長い杖のようなものが握られている。

 彼がいるのはありえない、しかし彼しかありえない。頭が混乱していた。

「……トマス……?」

 ぽつりと呟く。

 なぜ彼が。ここにいるはずない。何故彼が。

 ホセは動揺を隠しきれず、とうとう外に向かい哮る。ひたすらにその正体が誰であるのか確かめたかった。乾いた唾が喉に張り付き、思うように声が出ない。しかし躊躇いはなかった。

「トマスなのですか!」

 その声と同時に人影は霧散した。どんなに身を乗り出し、探してもそれらしい者は誰ひとりいない。

 ただそこにあるのは、うるさい位に鳴り響く己の拍動と記憶の中の『彼』の残像のみだ。


 いるはずがない。彼が、こんな所にいるはずがない。

 なぜなら、


「……確かにこの手で、殺したのに」

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