第五章 3
「姫良三善の件については、薄々気が付いているかもしれませんが、境遇が少々特殊でして」
ホセは小さく息を吸い、そして吐いた。それくらい気合を入れなければ、この話は到底できそうになかった。
「彼は大司教の御子息で、同時に大司教の肩替りをしています」
土岐野はきょとんとして、その妙に遠まわしな言い方がどういうことかを考えた。肩替りという言い回しから想像するのは、どちらかというと業務的なところを代行しているような印象なのだが、おそらくそれは違うのだろう。
しかし、それでは説明がつかない。じっと土岐野は考え、それから先日の三善の様子を思い浮かべた。
「とても平たく言うと、ひとつの身体にふたりの人間が同居しているような状態、という感じでしょうか。先日あなたも目撃したでしょう。いつもと違う話し方をしている彼を」
土岐野はこくりと頷いた。
ホセは続ける。
大司教が行使できる力のひとつに、『釈義で対象の者の行動を制限し大司教の意のままに操る』というものが存在する。その能力のことをエクレシアでは『楔を打つ』と呼んでおり、通常は戒律に背いた者への処罰として使用している。これを大司教は姫良三善に意図的に施し、必要なときだけ三善の身体を介して公務を行っていた。
大司教逝去以降新たに大司教を選任せずとも公務が滞らなかったのは、このためである。しかし、三善に楔を打ったのはただ大司教が自由に動き回る身体が欲しかったからではない。
「最大の理由は、あの子が――姫良三善が“七つの大罪”の能力を持って生まれたためです。“七つの大罪”の能力は保持するだけでも“釈義”を使用する以上に体力を削ります。あの子の身体はもう限界です。二年持てばいい方だと思います」
「そんなっ……」
土岐野はとてもじゃないが信じられなかった。彼はあれだけ元気そうにしていたのだ。彼女がホセに問いただす前に、ホセは口を開いた。
「だから楔を打ち、大司教の釈義で“七つの大罪”の影響を抑えています。真の目的はそれです」
人の理を無視したことをしてでも、姫良三善には生きていてもらわないといけない。それはホセにとって、大司教にとって重要な命題だった。
教皇は確かに死んだ。しかしその次が決まっていない。今大司教の最有力候補と呼ばれる男は確かに存在するが、彼の思考は些か保守的過ぎた。彼がもしも大司教の地位に就いたとしたならば、おそらくもう一度『聖戦』が行われることになる。厳密に教義を守ろうとするあまり、他の存在を全て否定するのである。
ホセはふ、と息を吐き、瞳を閉じた。
「あの子はその抑止です。今のところ、彼が前教皇の結縁者であることはごく一部の人間にしか知りません。しかし、いつかはその秘密も暴かれてしまうでしょうね。そのときに、あなたがもしも“火炎の守護聖女”としてエクレシアに所属していたならば、確実に選択を迫られるはずです」
なぜ釈義に関して素人の彼女に対して『守護聖女』の名を与えることを検討したのか。
単に席に空きがあったからではない。プロフェットはあくまで教皇の自由に使える手駒で、自由な選択肢など与えられない。もちろん『聖戦』へ赴くよう命じられればその通りにしなければならない。そして、もしも現在の『大司教の最有力候補』なる人物が選任された場合、三善の秘密を知る者を徹底的に排除することになるだろう。
ホセはゆっくり目を細めた。なにかに思いを馳せるような、祈りにも似た張りつめた表情である。
「私もね、今はこんなに偉そうな司教服なんか着ていますけれど、エクレシアに入団したときから、この身体も釈義も、すべて実験として捧げています。それは今も変わりありません。今後も変わることはないでしょう」
土岐野はじっとホセを見つめた。穏やかな表情ではあるが、その奥で何かがあふれださないように必死につなぎとめているように見える。
「……司教」
絞り出すように、土岐野が口を開く。「そこまでして、どうしてそこに居るのですか」
「それは……、」
ホセは一瞬口ごもり、それから意を決したように顔を上げる。
「わたしの罪の償いのため、です。わたしの、三善君に対する」
だから壊れてもこの場所に居続けるのです、とホセはそのように締めた。
「そういう訳で、私の見解としては、プロフェットはあまりおすすめしません。それは前にもお伝えしたかと思います。特にあなたの場合はとても変わった釈義をお持ちですから、『聖戦』云々の前に、間違いなくあらゆる実験の対象になるでしょう」
ただ、とホセは言う。「もしもそれでもプロフェットになると決意なさるなら、あなたにいい先生を紹介できます。その方の庇護にあるうちなら、まだ実験対象になる確率も下がるでしょうし、何より他に類を見ない程のいいプロフェットです」
「わたしは、」
土岐野はホセの声を遮り、唐突に声を上げた。驚き目を瞠るホセに、土岐野は続けて言う。
「それでも私は、選びたいです。プロフェットにしてください」
「そう言うと思っていました」
ホセは短く言うと、簡単にこれから行う必要があることを説明した。
まずは正式に洗礼を受ける必要があるため、その準備を行う必要があること。次に、プロフェットとして登録するための手続きが少々。最後に、これからプロフェットになるための勉強をするために、海外へ滞在する手続きが必要だということ。
それを聞き、土岐野の目が点になる。
「……海外?」
「ええ、海外です。フランスに行ってもらいます」
「日本では?」
「日本ではないですねぇ」
ええと、とホセは言葉を濁した。「プロフェットの養成校が実はフランスにありまして。日本国内にもないわけではありませんが、そのー、あんまり質がいいとは言えないのです。あとは、その紹介したい先生というのがそこの責任者なので、渡仏してもらうのがベストです」
「フランス語話せません! あとパスポート持ってません!」
「パスポートは作りましょう。フランス語は最低限お勉強しましょうか。大体『Qu'est-ce que c'est?(これ何?)』と『C'est combien ça ?(これいくら?)』が言えればどうにかなりますけど、私もケファも母国語はそっちなので、分からなければ聞いてください。教えます」
まるで初めての海外旅行マニュアルかのようなコメントののち、ホセは一つ付け加える。
「ノア……ええと、その先生というのが、『ノア・オッフェンバック』という修道女なのですが、一応彼女は日本語が話せるので、それほど気にしなくても大丈夫です」
「そうなんですか?」
「ええ。彼女はケファの学生時代の先輩にあたりまして、日本への留学経験があります。ですから、初めのうちは彼女に通訳をお願いするのがよいでしょう」
そっか、と土岐野がほっと肩をなでおろしたのを見て、ホセは小さく微笑んだ。
「よかった」
「え?」
「てっきり海外は嫌だって言われるかと思ったので。でも、安心しました」
「それは……」
土岐野はしばし考え、それから小さく頷いて見せた。「まだ、不安ですが。それを拒んでいたら、私は変われないんじゃないかと思ったの」
「そうですね。私はまだ土岐野さんに出会って間もないですけれど、今の土岐野さんのことをとても素敵だと思いますよ。ですが、ひとつだけ覚えていてください。今の変わり始めたあなたの前に、変わる前のあなたがいたでしょう。どうか今までのあなた自身も、嫌いにならないでくださいね。あなたはとても心優しく、強い方だと思います。それはこの先どんなにあなたが変わろうとも、決して揺るがない本質だと言ってよいでしょう」
恥ずかしそうにはにかんだ土岐野に、ホセはもう一言付け加える。
「プロフェットは、物事の本質を理解し、考証することが本当のお仕事です。それは釈義に対する本質だけではなく、自分自身ときちんと向き合い、自分の本質を見極めることも含まれています。だからあなたはどうか、そのままで。あなたはもともと、すばらしい方なのですよ」