第五章 2
三善がふと目を覚ますと、そこは今まで滞在していた聖フランチェスコ学院ではなかった。
見慣れた生成りの天井と、その身を横たえる冷たく固いベッド。無駄なものがなにひとつなく、強いて言えば机の上に聖書と小さな熊のぬいぐるみがある程度だ。
そこがエクレシア内の自室であると気づいてから、三善の思考は徐々に鮮明になる。
確か、先ほどまで学院にいたはずなのだ。授業の準備をするために図書館へ行き、それから突如姿を現した“傲慢”と対峙することになった。何故か途中から記憶が曖昧だが、なんだかとても無理をした気がする。全く覚えていない訳ではないが、少なくとも自らの意志で行動はしていなかったと思う。
のろのろと身体を起こし、はねた灰色のくせ毛を左手で掻き上げる。倦怠感がひどい。三善は絞り出すような声色でぽつりと呟いた。
「今、何時だろ……」
枕元に置いていた時計を手繰り寄せ、視線を落とす。
三善の時計はカレンダー付きのデジタル式である。しばしば記憶が曖昧になることがあり、己がどれくらい眠っていたかを確認するために必要不可欠なものであった。
その文字盤を見つめ、ほぼ丸一日眠っていたことに気が付いた三善は、呆れたようにふっと息を吐いた。
その時部屋の戸が開き、ケファが顔を覗かせた。
「ああ、ようやく起きたか」
「ケファ」
三善はその赤い瞳をきゅっと細め、ベッド脇まで近付いてくるケファに尋ねる。「僕、またやっちゃった?」
「ん? あー、まあな。体の調子はどうだ?」
「うん、大丈夫そう」
そうか、とケファはほっとしたような表情を浮かべた。そして三善の首元をそっと撫ぜ、かわいそうに、と呟く。彼に触られるたびにぴりぴりと鈍い痛みが走るので、おそらく首元に何らかの怪我をしたのだと三善は思う。
「あれからどうなった?」
三善はもうひとつ、ケファに訊ねた。その問いに、ケファは困惑したような表情を浮かべる。
「まず、あの子は無事だ。“傲慢”は浄化されて、今はいない」
いずれまた復活するだろうが、とケファは補足する。
“七つの大罪”はいわば人の業のようなものなので、一度浄化してもいつかは復活する。それが何年後の話なのか、何十年後の話なのかは分からないが、その場しのぎには違いないのだ。
ケファは机に備え付けられている簡素な椅子をベッド脇まで動かし、そこに腰掛けた。
そういえば、珍しくケファは白色の聖職衣を身にまとっている。司教見習いが身にまとうそれは、ケファが「できれば着たくない」と難色を示す衣類の最上位に君臨するものである。
これを着ているということは。三善は考える。
「……土岐野さんのことで、なにかあった? それか“傲慢”のこと?」
「ん、あー、嬢ちゃんの方だな」
ケファ曰く。
あの後、土岐野は念のためその身の釈義が何かを調べるためにエクレシアまでやってきた。能力保持者が久しぶりに現れたということもあるが、件の聖フランチェスコ学院の放火事件に関係があるということで、科学研では緊急かつ慎重にその調査が行われた。
その報告会がつい二時間前に行われていたのである。
「それがちょっと前例のない結果でなぁ。上層部で判断ができなくて、関係者と今本部に残っているプロフェット一同が召集される事態に発展しました。いやー、結構めんどくさいことになったなぁと」
「前例がないって?」
「あの子、『火炎の守護聖女』の資格がある」
どきりとして、三善が動きを止めた。
***
その頃、ホセは自分の仕事場でとある書類を眺めていた。
土岐野の『釈義』についての検査結果だ。先ほどまで科学研による報告会議に出席していたのだが、その議題が「これ」であった。
結論から言うと、彼女の釈義は三つあった。そのうちの一つはまだ目覚めておらず、何が出るかは分からないという状態らしい。そのため今判明しているものだけで判断することになったのだが、その残りの他の能力があまりに個性的だった。
その最たるものとなったのが、釈義を有する他者に触れることにより発動する「釈義」の譲渡だ。
ホセは自身もプロフェットであったし、長いことあらゆるプロフェットと関わりを持ち続けた身であるが、この内容の能力は初めて見た。下手したらかつて己が保持していた釈義と同じくらいに貴重かもしれない。使い方によっては、かなり強力な兵器となることも予想される。
ホセは恐ろしく長いため息をついた。
「困りましたねぇ……」
彼女がきちんと検査を受けたいと望んだから、半ば渋々引き受けたものの。
ホセの本心としては、以前彼女にも伝えた通り、何とか上手く誤魔化して事実を隠蔽しておきたかったのだ。
彼女の能力は確かに役に立つだろう。しかし、稀有であるが故に実験体にされてしまう可能性があった。実にタイムリーなことに、現在のエクレシア科学研はこの類の釈義を猛烈に必要としている状況である。この釈義がきちんと解析され、すべての効果が明らかとなった場合、同時に、『例のプロジェクト』の裏付けにも値する威力を発揮するだろう。
しかし。だがしかし。
ホセは思う。
プロフェットになることだけは避けてほしかった。
会議が終わった後にこっそりとケファの意見を仰いだところ、彼もまた悩んでいるようで、
「プロフェットはおすすめしない。あの子に選択肢は与えられないだろうけど」
とコメントしている。彼もまた、自分がプロフェットになることで相当な苦労を強いられた人間のひとりだった。
そして同時にこうも言っている。
「――プロフェットの養成所に行くなら、いい先生を知っている。そちらを紹介できるよう、連絡は取っておくよ」
彼が言うその人物にホセも心当たりがあったので、小さくうなずいてその場を後にした。
そんなこともあり、ほぼ確定事項には違いないが、最後まで悪あがきはしておきたいホセである。考えに考え、最終的に本人の意思を再確認するということで落ち着いた。
彼が向かうは、本部の別棟に位置するゲストルーム。土岐野が現在滞在している部屋である。彼女はその釈義対策として、当面エクレシアの管理下に置かれることになっていた。普段は各方面の要人へ宛がう少々高級めいた場所なのだが、たまたまこれ以外の部屋が空いていなかったのだ。
控えめに部屋の扉を叩くと、少しの間ののち、扉が開いた。
「はい」
顔を覗かせた土岐野が、ホセを見て目を見開いた。
「司教。どうしました?」
「先日の結果が出ましたので、報告をと思いまして」
それを聞くや否や、土岐野の表情が変わった。早く続きを聞きたそうに、その暗い色をした瞳をホセへ向ける。
しかしホセは先述の通りその結果の提示をかなり渋っているので、一瞬ためらったような症状を浮かべてしまった。その表情を土岐野は見逃さない。
「なにかあったんですか」
「いや、そうではなく。これは大人のエゴというやつです」
決めるのは彼女自身だ。そう己に言い聞かせ、ホセは何枚かの書類を彼女に渡した。
書類に目を落とした瞬間、土岐野の顔が引きつった。そして、恐る恐る尋ねる。
「……すみません司教。これ、何語ですか?」
「ラテン語です。公用語はラテン語なのですよ、本部は」
せめて英語ならどんなに楽だろう、とホセはぼやき、その内容を簡単に説明してくれた。
彼女の『釈義』は三つ。能力部位は皮膚。聖痕はなし。それから、『火炎の守護聖女』の称号を後に与えるという条件を付け足した。
「『火炎の守護聖女』?」
それはあの日、三善が土岐野に対して呼びかけた名前だった。
「ちょっと、お勉強しましょうか」
ここではなんですから、とホセは彼女を部屋から連れ出した。
「まず、『火炎の守護聖女』というのは、聖アガタのことを指します。彼女は三世紀ごろ、イタリア・シチリア島に生まれ、あらゆる誘惑や拷問をはねつけ、信仰を貫いたといいます」
エトナ山爆発の際、彼女のヴェールを投げ込むと溶岩が止まったという伝説から、そのように呼ばれているのだ。
「我々エクレシアのプロフェットの中には、何人か特別位の高い者がいます。その理由は様々なので一概には言えませんが、彼らに対する称号として、かつての守護聖人の名を授ける伝統があるのです」
土岐野が小さく首を傾げたので、ホセはさらに補足する。
「例えば、かつての私やケファがそうですね。私は『ゼベダイの子ヤコブ』、ケファは『聖ペテロ』の二つ名を持っています。本来は大司教による任命制ですので、猊下が不在の今、その名を返上しなければなりません。しかし、少々訳ありで現状維持をする必要があり、釈義を失った今でも私はその席を誰にも譲ることができずにいます」
本当は、きちんと別のプロフェットに引き渡したいのですが、とホセは眉を下げた。
土岐野はきょとんとして、ホセを見上げる。
「それって――」
「『火炎の守護聖女』の件もそれとほぼ同等の理由です。かの『聖戦』以降後継者がいないということもありますが、その守護聖女の名を冠する資格がある能力者が現れた時にはその名を授けるよう猊下より言付かっております」
「でも、大司教は既に『聖戦』にて逝去されたはずでは? なぜそのお言葉が優先されるのでしょう?」
「いや、厳密に言うと『逝去していない』んですよねぇ」
は? 土岐野の目が点になったところで、彼らの目的地に辿り着いた。
懺悔室である。本部の中で唯一、外部から一切の干渉を受けない部屋。第三者から盗み聞きされると困ることを、ホセはこれから告白するつもりでいた。
――果たして、本当に大司教は『逝去したのか』。
扉の錠を下ろしたところで、さて、とホセは前置きした。
「大司教のことをお話する前に、ヒメ君……姫良三善助祭のことをお話しますね」