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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
1.傲慢の紅き鎧
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第五章 1

 “傲慢(Superbia)”が大鎌をふりかぶると、それと同時にぎらりと三善が目を輝かせた。

 そのまま三善の小さな体は高く跳ね、“傲慢”が握る鎌の柄に左手をつく。息をもつかせぬ速さだ。そのまま遠心力をも味方につけた三善は、思い切り身体をひねった。

 凄まじい蹴りが“傲慢”の後頭部に直撃――しそうになるが、些か彼の方が上手だった。彼はその蹴りを予め予測していたらしく、その身を瞬時にかがめることでリーチを急激に変えたのだ。おかげで三善の渾身の蹴りは“傲慢”の頭上を微かに掠める程度に留まり、勢いのまま体を地面に叩きつける結果となった。

 三善が哮る。

「『深層(significance)・発動』!」

 刹那、周囲の空気がうごめき薄い膜を張った。まるで巨大なシャボン玉のようである。それがクッションとなり、彼の身体に襲いかかる衝撃を上手く吸収してくれた。弾力のある膜が三善の身体を跳ね上げると、苦しげに三善はきゅっと赤い目を細める。

 その視線の先に“傲慢”の姿はない。体を起こす動作に移る直前に、黒い影が三善の頭上を過る。

 “傲慢”の唇が、ばーか、と微かに動いた気がした。

 鋭い鎌が三善の左胸を狙い振り下ろされる。空を切る音が耳を劈くも、その音は派手な金属音によって強制的に停止させられた。

 三善が握る剣が鎌の動きを止めたのだ。本来ならば、大人と子供の体格で力の差が歴然となるところだが、三善はそれを軽々と受け止めている。否、むしろ“傲慢”の方が押されているようにも見えた。

「ほう、今の“傲慢(Superbia)”はあまり剣が得意ではないのかな。先代の方がまだ上手だったが……」

 その発言に、ぴくりと“傲慢”が眉間に皺を寄せる。

「先代の頃には貴様はすでに死んでいただろう」

「ああ、本物の身体はなかったな。しかし」

 三善はそのまま剣を大きく振り、鎌を思い切り遠くに弾き飛ばした。体のバランスを崩した“傲慢”が後ろに大きく身体をのけぞらせたのを、彼は見逃さない。そのまま”傲慢“の身体を突き飛ばし、上半身に馬乗りになるように跨った。

「身体を『交換』できるのがお前たちだけだと思うな。思い上がると碌なことにならないぞ」

「それは――」

 どういうことだ、という詰問を遮るように、三善が祝詞を口にした。

「“Fiat eu stita et pirate mundus.(正義を行うべし、たとえ世界が滅ぶとも)”」

 その祝詞はどこまでも澄んでいて、そしてどこまでも冷たい。例えるならば、鋭く尖らせた氷の破片のようだ。一言、また一言と祝詞が唱えられるたびに周りに漂う聖気の濃度が上がっていく。

 その祝詞に“傲慢”は覚えがあった。大きく見開いた瞳には動揺の色がありありと浮かんでいる。

「やめろ!」

 “傲慢”が哮る。「それを言うな! それを口にすれば、“終末の日”が――!」

 ぴくんと三善の肩が震えた。しかし、光を失ったうつろな瞳は、すぐに“傲慢”の喉元へ向けられる。

「もう遅い。我々は『それ』を受け入れなければならない。私にはその責任がある。もちろん、お前にも。共に罪を背負うのだ」

 時代の先駆者としての義務を果たすのだ。

 言葉にはしなかったが、三善はそう言いたげに瞼を閉じた。

「“Fiat justitia,ruat caelum.(正義を行うべし、たとえ天が崩壊するとも)”」

 ちりちりと激しい聖気が肌を刺激する。ぼろりと土で固めた“傲慢”の右腕が崩れ落ちた。

 “傲慢”が声にならない声で叫ぶ。

 しかし、三善はためらいなく最後の一言を口にした。

「『秘蹟(Sacramentum)展開』」

 どこまでも、侵食してくる。身体にまとう聖気が、頭の先からつま先まで、どろどろと流れるように。

 殺されるよりも残酷な光景。

 “七つの大罪”と対峙したことのある者ならば誰しもがそう考えるだろう。肉体はおろか、その魂すらも一度壊され、再構築させられる。それがこの言葉が抱える罪である。道徳的な悪、そして宗教的感覚からくる悪。どちらも抱えて、この少年は目の前の男と向き合っていた。

「さぁ。お前の罪を見せてくれ」

 三善はまるで宗教画に描かれる天使のように、にこりと微笑んだ。

 しかしその瞳に優しさなどない。あるとしたらそれはただの憐れみだ。裏側に透けて見える怜悧なまなざしが、“傲慢”の赤い瞳を見つめている。

 “傲慢”の額から汗がぽたりと頬を流れ、落ちる。

「“Date et dabitur vobis.”」

 三善の一言と同時に、白金の炎が“傲慢”を包んだ。

「っ……たかが、人間風情、がッ」

 最期の力を振りしぼり、“傲慢”の腕が三善の細い首へと伸びる。両手で掴むと、そのまま尋常でない力が込められた。三善の目が大きく見開かれ、妙な喘鳴が唇から洩れる。

「“教皇”!」

 ケファが猛る。今までなるべく手出ししないようにしていたが、これはだめだ。その手に握りしめた杖をそのまま力任せに投げつけようと振りかぶった、その時。

 背後から聞き覚えのある声がした。

「――“第二使徒が命じる。主より与えられし十字、救世主の許へ還れ”」

 波動が大地を揺らした。砂礫が立ち上り、何も見えなくなった。しばらくしてただ一つ分かったのは、その衝撃により三善も“傲慢”も吹き飛ばされ、数メートル先に落下したというそれだけだ。

 些か乱暴な気がしないでもないが、結果として“傲慢”の手が離れたことには変わりない。

「……遅くなりました。申し訳ございません、“教皇”。力ずくで離れてもらいました」

 そこにいたのはホセであった。

 右手にはケファのものと同じ、乳白色の色をした身長ほどもある十字のアトリビュートをあしらった杖が握られている。力が抜けそうなのか、その手は微かに震えていた。

 そしてその背後には、肩で息をしている土岐野がいる。ずいぶん苦しそうな表情を浮かべており、時折乱れた呼吸をぐっと飲み込んでいる。

「それっ……!」

 ケファが瞠目している。「なんで、ありえない」

 そう、ありえない。

 ホセはすでに釈義を失った『喪失者』である。彼らが今手にしている杖はどちらも釈義なのだから、今ここでホセがこの杖を手にしていることなど考えられない事態だ。

 肩で息をするホセはふ、と笑い、それから吐き捨てるように言った。

「だから言ったでしょう、”傲慢”。私なんか足元にも及ばない、最高のプロフェットがいる、と」

「――ヤコブ?」

 のろのろと三善が顔をあげ、右腕で土に汚れた顔をぬぐう。「ゼベダイの子ヤコブなのか?」

「ええ。有線ですけれど」

 にこりと笑いホセはその左手を上げる。彼の手は土岐野の右手とつながれていた。その手から感じるのは、相当な量の聖気だ。

「彼女の釈義は『聖火』だけでなく、むしろこちらの能力の方が珍しい。自分の釈義を他人へ分け与えることができる能力――だから彼女を狙ったのですね」

 のろのろと起き上がる”傲慢”が、小さく舌打ちをした。

「おや、誰が起き上がっていいと言いました?」

 ホセが軽く杖を振ると、“傲慢”は再び強烈な波動を受け、地面に再び叩き付けられた。間髪入れずもう一回、と杖を振りかぶる。

「……やめてあげて」

 その時、土岐野が口を開いた。驚きホセは振り上げた腕を止める。

「私、ちゃんと言うから。これ以上はやめてください」

 その一言に、三善も、ケファも、ホセも小さく笑みをこぼした。すべてを理解したかのように、それぞれが手にしていたものを下ろす。

 相当な傷を負い、震えながら立ち上がろうとする“傲慢”へ土岐野がそっと目を向けた。“傲慢”の口が彼女の名を呟いた気がした。

「……必要としてくれて、ありがとう。嬉しかった」

 だけど、と彼女は続ける。「だけど、私、やっぱりこれじゃあいけないと思うの。だから、私はあなたから自立する」

 ホセの手を握る力が強まり、ぶるぶると震える。

 彼女は今にも泣きそうな表情だ。しかし、彼女は決して泣かなかった。己を奮い立たせるために頭を振り、そしてはっきりと言った。

「私は私自身の手で変わるの。邪魔しないで!」

 刹那、土岐野の身体から黄色の炎が噴き出し、“傲慢”めがけて飛んでいく。

 その炎は、なんと感情的なことだろう。美しいのにどこか脆く、勢いはあるのにどこか儚い。彼女の揺れ動いている気持ち、そのものだった。

 土岐野の顔が青ざめている。こんなことをするはずではなかったと言わんばかりに、大きく目を見開いている。

「やだっ、やめて……!」

「大丈夫」

 そっと三善が右手をかざした。それと同時に、勢いよく噴出した炎はみるみるうちに弱まり、灰となって風に流れていく。彼女の聖火が打ち消されたのだ。

「……そうか、聖アガタ。征服されざる娘……か。“火炎の守護聖女”にふさわしい」

 三善がうっすらと微笑む。「でもここからは私の仕事だ」

 彼の両腕が“傲慢”を抱きしめた。

 その行為は先程のような乱暴なものではなかった。どこまでも慈悲深い、どこまでもあたたかいものだった。

「あなたの罪を、引き受ける」

 “傲慢”はもはや抵抗すらしていない。ただぼんやりと虚空を見つめ、そっと瞳を閉じる。

 ――何十年、何百年と身体を交換するうち、彼の脳に焼き付いて離れない声があった。

 何度も繰り返す、何度も何度も何度も繰り返す声。男のものもある。女のものも、子供のものも老人のものもある。それらは決まって、彼に同じ言葉を投げかける。

 今も耳元で、繰り返し囁かれている。

 体を返してくれ。

 体を。

 体を。

 解き放ってくれるのだろうか? この少年は。

 一瞬、この少年に託してみようか、と思った。信じてみようかと思ってしまった。

 ああ、と思う。

 これが、“教皇”なのか。到底敵うはずもない。

「――なぁ、この声が、聞こえなくなるかい?」

 “傲慢”が呟いた。

 三善は数拍おいてから、噛みしめるように言う。

「さあ、それはどうでしょうか。ペトロの鍵で門を開いた後に、聞いてみてください」


 男の身体は、紅い花弁となり消えていった。

 花弁の中に埋もれるようにして、三善はそっと瞳を閉じる。


「『釈義完了』――Amen.」


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