第四章 5
三善が嗤うと同時に、その手は“傲慢”の腕へと伸びる。そしてそれを引っ掴んだのち、鳩尾めがけて容赦なく蹴りを入れた。
“鎧”を発動していたとはいえ、半分壊れた鎧では全てを防ぎきれなかった。一瞬ひるんだ隙に、三善は一発頭突きをお見舞いしてやった。
げほげほとせき込みながら、三善は肺に空気を送り込む。微かに洩れる喘鳴。ノイズ混じりに、彼はそっと独特の祝詞を上げた。
「……“Gloria Patri,et Filio,et Spiritui Sancto.(願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを)”」
刹那、三善の左手が白く発光した。瞬く指先がその胸元で十字を切ると、その軌跡がはっきりと宙に浮かび上がるではないか。そしてそれは次第に背丈ほどもある十字となり、“傲慢”の姿をはっきりと照らし出す。
白い炎が生み出す十字は、何度か目にしたことがある。そしてその炎が、また“傲慢”の疑念を核心へと変えてゆく。
炎はいつしか一振りの剣となり、三善の手に握られる。細やかな金の細工に、嵌められた彼の瞳と同色の紅玉。まるで、その剣そのものがひとつの十字架であるかのようだ。
「Sicut erat in principio,et nunc,et simper,et in saecura saeculorum,Amen.(初めにありしごとく今もいつも世々に至るまで)」
彼の真っ赤な瞳が鮮烈な印象を“傲慢”に見せつけていた。火の粉を纏いひたすらに勢いをあげる烈火の炎と紛う程、その瞳は独特の熱を孕んで止まない。その熱に射抜かれた、と言っても過言ではなかった。
三善の剣は真っすぐに“傲慢(Superbia)”の顎下を突いた。つい、と動かすと、薄く皮膚が裂け、うっすらと血が滲んだ。
「……この匂い、そうか――ははっ」
嗤う“傲慢”の口から洩れた声は、すっかり乾いていた。三善はそれを耳障りに感じたらしく、きゅっと眉間に皺を寄せる。
「やっぱり、お前は“教皇(Pope)”なのか」
三善は口を閉ざしたまま、その炎が宿る瞳で彼を見下ろした。冷たい色をした炎が、同時に憐憫を含んで揺れる。
「教皇は死んだ」
冷たい声色で吐き捨てるように言い、三善は剣をさらに深く突きたてようと動かした。 しかしながら、それは適わなかった。“傲慢”が二本の指でその切っ先をつまみあげたのだ。
「なるほど。ならば、次期、ということなんだろう」
余計な芽は摘んでおくに限る。
そう呟いた“傲慢”の姿が忽然と消えた。
三善は、咄嗟に剣を軸に身体を回転させる。ほんの僅かの差で男の鋭い鎌が脇腹めがけて突き出し、一拍遅れて三善の肩帯を裂いた。短くなった布切れが地面に落ちる前に、三善は己の剣を彼に向けて振りかざす。空を切る音が耳を劈く。
「外した」
三善がぽつりと呟く。狙ったはずの場所には男の残像すら残されていない。
横だ、と三善の脳内で信号が発せられた。
「“逆解析(Reverse)”!」
“傲慢”の大鎌がランダムな動きで迫る。刃が三善の身体を貫く寸でのところで、彼は鋭さを孕んだ白の閃光に包まれた。鎌が弾かれることはない。そのまま突き進むだけだ。
鎌が三善に触れた瞬間、真っ赤な色をした独特の火花が派手に飛び散った。
それを目の当たりにし、“傲慢”は小さく舌打ちする。
「完全に読まれていたか、俺の“鎧”――」
しかし、三善が現在同時に使用している能力はこれで三つ。どんなに能力の高いプロフェットであっても、これ以上は身体が限界を訴える。したがって、これ以上の能力の発動はできないはずだ。
赤のプラズマに身を包んだ三善が、そっと“傲慢”に目を向けた。ゆらりと歪む真紅の瞳。ぞわり、と彼の背筋に猛烈な寒気が襲う。
三善が動いた。鋼の切っ先はその巨大さからは想像もつかない速さで身体を突いてくる。そのたびに、“鎧”の効果である真紅の火花が走る。
赤い瞳の弱点がここにあった。元々光に弱い色ではあるのだが、ここでそれが顕著に出るとは本人も想定していなかったらしい。
顔をしかめた三善が、一瞬隙を見せた。それを狙い、“傲慢”の刃が聖職衣を裂いた。遠心力の働くまま男の鎌は起動を走り、残光ののち襲いかかる。
三善の身体に、再び赤い火花が走る。今度は完全に守り切れなかったらしく、苦しげな吐息を微かに洩らし、苦悶の表情を浮かべた。
「……お前たちの好きにはさせない」
神威を纏う少年の声。それを耳にし、一瞬“傲慢”は動きを止めた。
例え祝詞を唱えることそれ自体が『傲慢』でしかなかろうとも。この少年はその一言に力を込め、噛みしめるように口にする。
それを人は慈愛と呼ぶのである。
『あなたたちはそれを知っているのね』
――かつて、欲に身を任せ人々の命を奪い続けた“傲慢”に対し、このように言った人物がいる。
彼女は、“七つの大罪”を統べる王だった。ただ無意味な殺戮を繰り返す“傲慢”は、そのときはまだ生まれたばかりで、抑制という能力を知らなかった。しかしながら、彼女はそれを叱る訳でもなく、ただそのように言ったのだ。
その言葉を聞いたら、なんだか“傲慢”は虚しくなって、自然とその術を身につけていったのだが。
ふとそんなことを思い出し、“傲慢”は苦笑した。
この少年を見ていたら、どうも『彼女』のことを思い出さずにはいられないのである。
しかしながら、この少年は、かの『教皇』にしては釈義の質が非常に不安定だ。力に振り回されている、といった印象が拭えないのも事実。かといって、幾度も男の中で連想されている『あの女』とも正直似つかない。あいつはもっと性質が悪かった。自身が振り回されるどころか、周りを振り回す方が得意だった。何度思い返しても、あの女はひどい。ひどすぎた。
しかし、だ。
いくら否定しても尚『教皇』と『彼女』を連想させるのは、何故なのだろう。全くの別物だと理解しているのに。
その紅蓮の炎を纏う瞳がいけないのか。
厄介なものを見つけてしまった、と少々後悔し始めた、そのとき。
「――この匂い、」
ふと三善が空を仰いだ。
塩の破片がふわりと視界を掠めていった。“傲慢”もはっとして空を見上げると、そこには塩の大翼を背負った聖職者がいた。
かつての「聖戦」で殉教した聖人に次いで『岩』の名を得たプロフェット。
「おいたが過ぎるぞ、“教皇”」
彼――ケファ・ストルメントは確かに、三善に向かってそう言い放った。
すとん、と地上に降り立つや否や、三善が口にしたのは、
「ペテロのくせに遅い!」
という、なんとも理不尽な台詞だった。これは間違いなく、いつもの三善ではない。ケファは小さくため息をつき、やれやれと言わんばかりに肩を竦める。
「半分覚醒してやがるな。あいつのせいか――」
ケファがそう呟くと、ぎろり、と鋭い瞳を男に向ける。
鬼のような形相だった。同時に「なんてことしてくれるんだこの野郎」と音のない声を吐き出す。
「どうも、こんにちは。一応コレの保護者です。うちの子がお世話になったようで――」
「誤解だね。別に俺はなんもしていないさ、むしろ先に手を出したのはそっち」
「あぁ?」
「ペテロ」
いがみ合いそうになったケファと“傲慢(Superbia)”を遮るように、三善の冷たい言葉が飛んだ。声色はナイフの切っ先のように鋭い。しかしながら、振り返ったケファに対し「ふん」と鼻で笑ったかと思えば、
「保護者を名乗るなら、もっと早く迎えに来い。この首に痣が出来たら困るのは『三善』なんだからな」
既に鬱血痕の残る首筋を見せつけられ、ケファの眉間の皺がさらに深くなった。それは確かに自分の落ち度ではあるが、いつでも一緒にいろという方が無理に決まっているのである。しかしながら、それを一から説明するのは心底面倒だ。
「ったく、どうしたもんかなぁ」
ケファは首を一度ごきりと鳴らしたのち、左耳のイヤー・カフを外した。そっと何かを呟くと、イヤー・カフは純度の高い聖気を纏いながら長く形を変えてゆく。
いつもの十字を模した剣ではない。鍵のアトリビュートをあしらった、彼の身長ほどもある長さの杖だった。大理石のように滑らかな乳白色のそれは、明らかに通常の“釈義”とは性質が異なる。
「なるほど、『岩』の名も伊達じゃねぇってことか」
面白い、と“傲慢”が口角を吊り上げた。その大鎌を再び構え直したところで、ケファも表情ひとつ変えずに杖を真正面へと向ける。受けて立つ、とそのアメジストの瞳が訴えていた。
「“教皇”、ここは俺が。あんたは早く『三善』と代われ。あまり他に見られると困る」
そっとケファが囁くと、三善がきょとんとして小首を傾げてくる。
「なぜお前が戦う?」
――なんだか今、とんでもないことを言ったぞ。
ケファは一瞬己の耳を疑い、そのままの体勢で思わず問い質した。三善は再び、同じように答える。
「これは私が仕掛けた喧嘩だ。私が落とし前をつけなくてどうする」
それはその通りだが、それではケファがここに来た意味がまるでなくなるではないか。本当に、このひとを相手にするのは疲れる。どうして、三善のような可愛げがないのだろう。一応血縁者なのに。
ケファはそのまま数秒考え、“傲慢”へと目を向けた。その視線に、思わず彼は噴き出した。
「いいよ、俺はそちらの小さな教皇様と戦う」
そう言うのなら、黙って身を引こう。
その前に、とケファは三善の肩を叩く。
「その身体はいろいろと不完全なんだから、加減してやれよ」
ケファの言葉に、三善は無表情で頷くだけだった。そして、ふとケファを仰いだ。その唇からこぼれ落ちたのは、
「“それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか”」
三善でありながらそうではない、『誰か』の祝詞である。この問いかけにどう答えるべきか、『岩の子』であるケファは大変よく熟知していた。そして、彼が一体なにを求めているのかも。
ケファはその右手で、とん、と三善の背中を叩いてやった。
「――『神からのメシアです』」
三善の表情が変わったのは、誰が見ても分かることだった。
今までは、枷か何かに捕らわれていたのだろうか。そう考えてしまうほど、今の三善が纏う聖気は濃密で清浄だった。正直なところ、「きれいすぎた」。
先程も「その気配が濃すぎて、慣れていなければ具合を悪くしそうだ」と思ったが、あれはまだまだ序の口だったのだ。それを思い知らされ、“傲慢”は思わずぽかんと口を開け広げてしまった。
「おまえ、何を……」
ケファに声を投げかけようとしたところで、“傲慢”は唐突に理解した。
この男――ケファ・ストルメントが関する名は、ペテロ。主の最初の弟子である。神から託されたとされる『天国の鍵』は、彼のアトリビュート。もしも少年・三善の潜在能力を引き出す『鍵』が、先程の『口頭試問』だとしたら?
それならば、全ての辻褄が合う。
“あの男”が三善の存在を一言も告げなかったことも。この禍々しいほどの聖気により、己の核が崩壊しそうなことも。
全てはやはり、八年前の「大司教逝去」に繋がっていた。これ以上の収穫はあるまい。
「……やっと楽になった」
三善がぽつりと呟いた。手にしていた巨大十字を全て灰に変え、彼はただひとり、なにも武装することなく“傲慢”の正面に立つ。
その瞳は、傲岸不遜な口調とは裏腹に、恐ろしいほど慈悲深く優しいものであった。
「手加減はしない。あの娘を賭けて決着を」