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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
1.傲慢の紅き鎧
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第四章 4

 その気配は、寮内で過ごしていたケファやホセですら容易に察知できるほど凄まじいものだった。

 一切の穢れがなく、それでいて微かに毒々しさも兼ね揃えた独特の“聖気”。それはあたかも、『神聖』という一言をそのまま体現したかのようだった。

 同じ聖職者であっても、これほどまでに強い聖気をばら撒くことなどあり得ない。“聖気”は、その聖職者の持つ徳と同義である。この濃度の“聖気”を放出する聖職者は、全世界を探し歩いてもおそらく片手に数えられる程度しか存在しないだろう。まして、この学院内にいるとは到底思えない。

 一部の例外を覗いては。

「あの馬鹿……! やってくれるよ、本当」

 その「一部例外」をすぐに連想した二人は、ついつい驚き半分呆れ半分で溜息をついた。

 ケファは席を立つと同時に己の釈義を展開し、寮の窓を大きく開けた。桟に足をかけると、ふと思い出したように振り返る。

「クソ狸は土岐野の嬢ちゃんを保護してくれ」

 ホセはゆっくりと頷いた。

「承知しました。“教皇”をよろしくお願いします」

「ああ。あの馬鹿を一発殴ってくる」

 そしてケファの身体は宙に放り出される。刹那に展開される塩の大翼が力強く羽ばたくと、青空の中へと消えて行く。まるで大きな鳥が風を切っているようにも見えた。

 そんな彼の姿をしばらく見つめていたホセは、突然、ふ、と息をつく。

「……本当、ろくなことをしませんね。“七つの大罪あれら”は」

 まぁ、ケファがあの“聖気”が放出されている先へ向かったのだから、特に心配はないだろう。

 さて、土岐野を探しに行かなくては。

 まずホセは携帯を取り出し、女子寮に電話を入れた。土岐野がいるかどうかを確認するためである。もしも彼女が女子寮にいるのなら、そこから動かないよう指示を入れればよい。むしろ寮にいてくれればありがたいのだが。

 そう思っていたのだが、残念なことに、土岐野は寮にいなかった。寮母曰く、どうやら少し前に荷物を持たずに寮を出たらしい。

 ホセは礼を述べ、終話ボタンを押した。

「ここでないとすると……」

 考えられるのは、例の庭園だろうか。三善やケファから、彼女はよくあの場所にいるということを聞いていた。

 そうと決まれば話は早い。ホセは寮を出ると、庭園へ向かうべく足を進めた。

 やはり、外は強い“聖気”で満ちていた。強烈、というほどではないけれど、慣れない者が長時間この中にいれば、間違いなく気分を悪くするだろうな、という程度の強さである。そういえば、この学院内は現在ケファによる釈義の守が施されていた。その守のせいで、この釈義は外に霧散することもできず、ただただ学院内に淀むしかなかったのだ。

 ホセは微かに眉間に皺を寄せながら、庭園へと足を進める。たどりついた先には、四辻がいた。脚立に乗った状態で、高枝切り鋏を携えている。

「精が出ますね」

 そっと声をかけると、四辻は眼下でこちらを見上げているホセにようやく気が付いた。

「ああ、ブラザー。こんなところでお会いするとは」

「いえ……あの、こちらに土岐野さんがいらっしゃいませんでしたか」

 尋ねると、四辻はふむ、とさも不思議そうな顔をする。

「さっきまで、手伝いをしてもらっていましたが」

「それで、どこに?」

「さすがにそこまでは分かりませんが――」

 しまった、行き違いか。

 ホセは四辻に礼を言い、すぐにその場を後にした。

 さて、ここの他に彼女が行きそうな場所はどこだろうか。三善が『あの状態』ならば、確実に彼女も危険にさらされているはずなのだ。否、むしろ既に危険にさらされているから行方不明なのか?

「……あり得なくはない」

 あの“傲慢”は随分土岐野にご執心のようだったし、自分たちが彼女の前に現れたことで強硬手段に出た、ということも充分に考えられる。

 なにもなければ、それでいい。だが、最悪の事態を想定しておかなくてはならない。

 そう考えながら角を右へ曲がり、高等部一号館と二号館の間に伸びる細道に入る。数歩走ってから、何を思ったか、ホセは突然ぴたりと立ち止まった。アイボリーの瞳だけを動かし、周囲の様子に気を配る。己の左手首にそっと触れた。

「――まったく、」

 そしてぽつりと呟く。「あなたたちは。学習能力がないですねぇ」

 刹那。

 頭上から黒い巨大な塊が高速落下し、コンクリートの地面をいとも容易く打ち砕いた。ばらばらと破片が放射状に飛び散り、砂礫が空気を汚した。ホセ自身はと言うと、左腕のワイヤを一時的に校舎に引っ掛け、それよりも高い所に避難していたため、ほとんど実害はなかった。

 煙が風に流され、ようやくその塊の正体が明らかになる。

 黒い塊は昆虫のような姿の化け物であった。口だと思われる箇所からは黄色い液体が垂れ流されている。そしてそれがかかった地面のコンクリートは、しゅうしゅうと音を立てながら白い煙を噴き出していた。強い酸がコンクリートをも溶かしているのだ。

「ふむ、“傲慢(Superbia)”第三階層、ですか」

 ホセはワイヤを外し、昆虫の脳天に一発蹴りをお見舞いした。ごふっ、と妙な音がした。昆虫が前方へと傾く動作と、ホセがそれの背後に着地するのはほぼ同時。

 着地するや否や、ホセの右ワイヤが昆虫の長い触角を捉える。そしてリールを起動させワイヤを無理やり回収すると、ぶつっ、と嫌な音を立て触覚が引き抜かれた。頭の頂点からは大量の血漿が溢れだしたが、赤のプラズマが発生するのと同時にそれは収まる。

 自己再生しようとしているのだ。

 ホセは引っこ抜いた触覚を打ち捨て、極めつけに足でそれを踏み潰した。ぐじゃ、と粘性の音がする。

 その音で、ホセの脳裏に突然脳裏にある記憶が蘇った。

 地面は真っ白な灰と塩に覆われていた。空だけは抜けるような青で、眩しさのあまり思わず目を細めてしまうほどだった。己が手にしているのは、細い剣。刃が太陽の光を反射して、きらりと瞬いた。それを見て、きれいだな、と純粋に思った。

 どうして、と呟いた気がする。

 一番に信じていた人が、「己」に対して黙祷を捧げたから。神と聖霊と、そして今から天に召される新たな天使たちに対して。その人は、戦いに赴く際決まって黙祷を捧げていた。その対象がよもや自分になるなどとは、考えたこともなかった。

 黙祷する暇だけは、与えてやった。

 飛び散る血液。真っ白に染まった大地は、その瞬間赤黒く変色してしまった。その手に残るは、肉を斬るぬらぬらとした重みだ。

 抱きしめられた際に感じた体温は、今もその肌に残っている。

 ポケットに、なにかを入れられた。

 己は、わざとそれに気付かないふりをした。それを指摘すれば、きっとこの刃は躊躇ってしまう。殺したくない、という本音を漏らしてしまう。

 もう迷いたくなどなかった。

 さようなら、と己は言葉を吐き出した。

 焦点の合わぬ海色の瞳が、こちらを見つめる。肉を裂く濁音に混じる声。それはまさしく、呪いと同じくらいに禍々しいものだった。

 ――ホセはふ、と息を吐き出す。淀んだ空気が肺を満たしたことで、ようやく現実に戻ることが出来た。

「God damnit……!」

 まただ。

 俗に言うPTSDであることはすぐに理解できた。音の記憶というものは意外と残りやすい。職業柄戦闘に赴くことはよくあるが、こうも毎回音により動きを止められるのでは話にならない。

 ホセは微かに震えた唇を、きゅっと噛みしめた。

 己にとっては、「あの出来事」はまだ消化し切れていないのである。それを改めて突きつけられてしまった。それだけ、心は深く抉られている。

 諦めと開き直りと、それから己に残る使命と。

 それらを順に確認していくことで、ホセはようやく冷静になっていった。

 昆虫の自己再生が終了する少し前、頭の中が突然すっと冷え、思考が明瞭になった。傷の痛みが嘘のように引いたからかもしれない。

 校舎へと飛ばしたワイヤを巻き取り、身体を浮かせる。狙うは、頭部に複数存在する黒い色をした瞳にあたる部分。

 もう片方のワイヤの先には、ナイフがくくりつけられていた。

 いい加減、フラッシュ・バックに振り回されるのをやめなくては。分かっているはずだろう、とホセは自分に言い聞かせる。

「あれはもう終わったことだ」

 一瞬の気の迷いが手元を狂わせた。ナイフがぶれ、予想外の方向に飛んでいく。しまった、

と慌てて回収しようとするが、それを回復した昆虫が見逃すはずがない。

 強烈な体当たり。

 ホセの身体が宙を舞った。受け身を取ろうと手を伸ばし、地面に触れようとする。しかし寸でのところで手を引いた。そこには昆虫が吐き出した強い酸が撒かれ、妙な煙が立ち上っていたのである。代わりにワイヤーを伸ばそうとするが、それはどうしても間に合わない。

 終わった、と思った。

 その時だった。

「伏せてください!」

 ぼぅ、と何かが爆ぜる音がした。どうじに熱風が通路を満たす。その勢いはとどまることを知らない。ホセの聖職衣の裾はその勢いと熱に負け、少し焦げた。

 しかしながら、その爆風のおかげでホセの体躯は酸の直撃を免れることとなった。その代わり、強い風圧によりものの見事に吹っ飛ばされ、少し離れたところに転げ落ちる羽目となったが。

 強く打ちつけた身体が軋む。しかし、そんなことに構っていられない。

 ホセは無理やり身体を起こし、昆虫の居場所を探した。……消し炭となった何かは発見したが、その他にそれらしいものは何一つなかった。

 次に視線を別のところへ向けると、見たことのある人物が尻もちをついていた。

 見間違えるはずがない。土岐野雨だった。

 彼女は肩で息をしながら、がたがたと身体を震わせていた。どこで濡らしてきたのだろう、全身びしょ濡れの状態だったため、滑らかな頬に黒髪がぺったりと張り付いていた。寒いのか、歯がぶつかり合いかちかちと音を立てている。

「あなた、が?」

 ホセが尋ねると、土岐野はゆっくりと首を縦に動かした。まだ動揺しているようで、視点がうまく定まっていない。その姿を見て、なんだか昔のケファを見ているようだ、とホセは思った。

 今でこそあの男は釈義を完璧に使いこなしているが、まだ出会いたての頃は全く釈義をコントロールできていなかった。その身体に見合わない釈義を保持していたせいで、彼は随分苦労したらしい。加減を間違えて釈義を暴走させてしまったとき、あんな感じに動揺していたことを思い出す。

 そういう事情もあり、宥めてやろうと半ば癖のようにホセが彼女に近づくと、

「来ないで! ……くだ、さい」

 予想外に、彼女はそれを拒否した。「まだ、爆発するかもしれない」

 一旦ぴたりと動きを止めたホセだったが、数秒ののち、彼は容赦なく土岐野に近づいた。そして彼女の前で足を止め、そっとしゃがみこむ。

「来ないでって言ったのに」

「そういう類のお願いは聞かないことにしているんです」

 そして、ホセは微笑んだ。「助かりました。あなたがいなかったら、私は今頃あの酸によって溶けていたことでしょう」

 そして、彼はその名を呼ぶ。まるでそれが大切な宝物であるかのように、静謐な声色でそっと囁いた。

「土岐野さん。その力、大事にしてください。それは神様から与えられた、人を救うための力ですよ」

 土岐野は、のろのろとホセを見上げた。彼は、優しく、ほんとうに優しく笑っている。

 それが何だか切なくて苦しくて、でも、とても嬉しかった。それを上手く言葉にできず、もたもたしていたら、なんだかまた泣けてきてしまった。

 ぎょっと目を剥いたのはホセの方である。彼女がいきなり泣き出すものだから、どうしたらいいのかまるで分からず、ただおろおろしっぱなしという情けない状況に陥ってしまった。

「泣かないでください、あなたが泣く理由なんか――」

「わっ、わたしっ!」

 ホセは黙り、彼女の声に耳を傾ける。

「私、怖かった。いつかこの炎が、すべてを燃やしてしまうんじゃないかって。呪われているんだって思ってた」

 そう、とホセは頷いた。

「だから、『あのひと』が“その力がほしい”と言ってきたとき、本当は、少しだけ嬉しかった。この力が役に立つって言ってくれるなら、誰でもよかった。でも、私、」

 彼女が言う『あのひと』とは、おそらく“傲慢”第一階層のことだろう。弱みに付け込んできたというのは何となく理解できた。しかし、まだ疑問が残る。

 聖火を発動させるプロフェットなら、残念ながら有り余る程いる。極端な話、ケファだって出来るし過去の自分だってできた。

 “傲慢”のあの男は、一体彼女の何に目をつけたのだろう?

 ふむ、と考えつつ、ホセは彼女に声をかけた。

「寒くありませんか。というか、なんでこんなにずぶ濡れに……」

「それは、その。試そうとしたの」

 きょとんとしてホセが首を傾げると、土岐野は顔を真っ赤にしながら言った。

「ちゃんと、自分の意志で炎が出せるようになればいいんじゃないかって思ったの。だから、練習を」

 そして、その場にたまたまホセと“傲慢”第一階層が現れてしまった、と。

 練習することは悪いことではないが、“釈義”を扱う以上もっと慎重にならなくてはなるまい。というか、練習なら全身濡れる必要はなかったのではないか。思うところは沢山あったが、とにかく彼女が無事でよかった。

 ホセは土岐野の頭を優しく撫でてやった。涙が止まるように、そう願いを込めながら。

 しかし、そこではっと身を固くした。

 異変が起こっている。ホセの身体が、彼女に触れている手を通して熱くなるのが分かった。この反応は『身体が覚えている』。そう、この熱の感覚は。

 釈義を展開しているときのそれと全く同じだった。

「……ホセ神父?」

 土岐野が顔を上げ、小首を傾げている。

「そうか……! どうりで“七つの大罪”が目をつけるはずです」

 土岐野さん、とホセは真面目な面持ちでその名を呼ぶ。

「あなた、かなり特殊な釈義を持っていますよ。聖火の“それ”だけじゃない。あなたが持っている釈義は、ふたつあったんですよ」

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