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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
1.傲慢の紅き鎧
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第四章 2

 授業を終えた土岐野は、その足で寮の自室へと戻ってきた。

 鞄を足元に置くと、制服のままベッドの上に飛び込んだ。ぼふん、と真綿が彼女の全身を受け止めてくれる。しばらく彼女はうつぶせのままじっと目を閉じていた。

 一体どうすればいいのか、なんて。

「分からないよ……」

 できることなら、何もかもを捨ててこの場所から逃げ出してしまいたかった。逃げ出しても現状はなにも変わらないと分かっている。それでも、心のどこかで選択することを怖がっている自分がいた。

 目を閉じれば、ホセが厳しい面持ちで己に語りかけてくる。

 ――どちらを選ぶか決めていただきたい。“大聖教”か、“七つの大罪”か。

 結局部屋にいてもどうしようもなかったので、土岐野はふらっと外に出歩くことにした。愛用のローファーを履き、ブレザーのポケットに携帯電話だけを入れて。

 昨日はあれだけ天気が悪かったのに、今日は驚くほどの快晴である。遊歩道をのんびりと歩きながら、ふと宙を見上げる。等間隔に植えられた街路樹は、つい最近までは若葉が青々と茂っていたはずなのに、今はほんの少しだけ夏の色を帯びている。気付かないところで、着々と季節は移り変わっているのだ。

 そんな変化すら、土岐野にとっては心苦しいもののひとつでしかない。

「こんな風に、」

 自然に変われたらいいのに。

 そう思ったときだった。

「土岐野さん」

 背後から、突然声をかけられた。振り返るや否や、土岐野は思わず目を丸くする。

「が、学長?」

 彼女の後ろにいた四辻は、何故か珍しくジャージ姿で、且つリヤカーを引いている。いつものぱりっとしたスーツではなく。こんな出で立ちで突然現れるなんて考えても見なかったので、土岐野はしばらくぽかんとしたまま固まってしまった。

「これから庭園の整備に行くのですが、もし手が空いていたら手伝ってくれませんかな」

 ああなるほど、だからリヤカーなのか。

 土岐野は一瞬躊躇ったが、すぐに首を縦に動かした。なんとなく、それが必要なことだと思ったからだった。


***


「この庭園、学長が手入れしているんですね」

 庭園に辿りつくと、木々の剪定のために四辻は脚立に昇った。土岐野は、倒れないようそれを下で支えている。

 彼女の問いに、四辻はゆっくりと首を縦に動かす。

「どうしても手が空かないときは業者に任せますがね。この庭だけは、できれば自分で手入れしたいのです」

 高枝切り鋏を動かしながら、彼は優しく語りかけた。風もなくしんと静まり返る中、鋏を動かす音だけが響いている。見事に剪定されてゆく木を仰ぎながら、土岐野はぽつりと呟いた。

「私、この庭がとても好きなんです」

「そうか、それは嬉しいです。兄も喜んでいることでしょう」

 兄? と土岐野が尋ねると、四辻は一旦鋏を動かす手を止めた。

「先代の学長が、私の兄でした。一応、パンフレットやホームページにも載せてあるんですけどね」

 まぁ、普通はそこまで見ないでしょうからと四辻が苦笑すると、土岐野は恥ずかしさのあまり思わず赤面してしまった。ごめんなさい、と謝ると、四辻は首を横に振る。

「いいんですよ。こうして、兄の作った庭を好きでいてくれるなら。それでいいんです」

「……ここ、前学長が作ったんですか」

 四辻は歪な木の幹に触れ、愛おしげに撫でる。その姿を見ていたら、土岐野はなんだか不思議な気持ちになった。まるで、四辻がその木を通して別の次元を見つめているようにも思えたのである。

「私の兄はもともと大聖教の司祭で、同時に高名な神学者・教育学者でもありました。そういう経緯もあり、この学院の学長に推薦されたのです。兄がこの場所にやってきてまず思ったのは、『緑が足りない』ことだったそうです。この東十六夜市は山を切り崩して作った土地です。本来『そのように』あるべきところを、我々人間が形態をねじ曲げてしまったと言っても過言ではありませんでした」

「だから、この庭を作ったのですか?」

 四辻は頷いた。

「この樹木は、どれも東十六夜市が原産とされている希少種です。せめてこれだけは守らなくては、となんとか集めたのだそうです」

 そうなんだ、と土岐野は改めて茂る木々を仰いだ。そう言われると、なんだかこの木々がはるか昔から東十六夜市を見つめ続けてきたように思えて、感慨深かった。今の自分のようにこの木の前で沈んだ表情を浮かべている人もいただろう。それとは対照的に、この木の下で愉しげに笑う人もいただろう。

 そんな街の歴史を、この木々はどのように見つめてきたのだろうか。

「学長。その、お兄様は?」

 尋ねると、ぴくん、と四辻の肩が震えた。先程と大分様子が異なるので、土岐野はおや、と思いながら小首を傾げてしまった。

「あまり表立って話すことではないのかもしれませんが――先の『聖戦』に召集され、聖都にて殉教しました」

 それを聞き、土岐野の表情は瞬時に凍りついた。

 そんな表情の変化をすぐに察知し、四辻は一旦脚立から降りてきた。そして、土岐野の顔を覗きこんだ。

「あなたが気にすることではありませんよ」

「ごめんなさい……でも」

 きっと、聞いてはいけないことだったのだ。誰でも触れられたくないものというのはある。

 土岐野の脳内はパニックに陥っており、このあとなんと言葉を返せばよいのか分からずにいた。

「あなたは優しいひとですね」

 四辻の言葉が、ぽつんと土岐野の耳に飛び込んできた。

 はっとして顔を上げると、そこにはいつもと変わらない四辻の姿がある。彼はまた、にこりと微笑むと、まるで子供に対してそうするように土岐野の頭に手を置いた。

「その優しい気持ち、どうか他の人にもおすそ分けしてあげてください」

 その言葉を聞いたら、なんだか心の中がすうっと軽くなったような気がした。

 それでいいんだ、と思った。

 自分がどうすればいいのか、なんて、まだ分からない。分からないけれど、自分にしかできないことがあるならば、なにか他の人のためにできないだろうか、と思ったのだ。

 例えば、兄に代わって庭園を守り続ける四辻のように。

 そうしているうちに、自分がどうすればいいのか分かるのではないかと思った。

「――学長、ありがとうございます」

「うん?」

「すっきりしました」

 それはよかった、と四辻が微笑む。

「それじゃあ、もう行きなさい。おすそ分けしたい人がいるんでしょう?」

 土岐野は頷いた。そして、四辻に背を向けて走り出す。

 ブレザーに突っ込んだままにしていた携帯電話を取り出し、アドレス帳を開いた。一番に聞きたい声があったのである。彼女はその中から「た」の項目を検索し、通話ボタンを押した。

 数コールののち、電話越しに少年の声が飛び込んでくる。

「あっ、橘? 私よ、お姉ちゃん」

『姉ちゃん? どうしたんだよ、わざわざ電話してきて。それに、姉ちゃんの学校、今大変なんだろ。大丈夫?』

 数か月ぶりに聞く我が弟の声だ。

 弟は御陵市の公立小学校に通っているため、年に数回しか会えない。電話をかけるたびに少しずつ大人びてゆく彼に、寂しさを覚えるが、今はそんなことを言っている場合ではない。

「橘、相談なんだけど」

『相談?』

「うん、あのね」

 土岐野は一旦立ち止まり、おもむろに振り返った。彼女の目線の先に見えるのは、学院随一の礼拝堂だ。頂点に掲げられている十字のシンボルが、太陽に照らされてより一層瞬いて見える。

 ――その十字が、自分の背中を押してくれているようにも見えた。

「お姉ちゃんが遠くに行ったら、寂しい?」

 我ながら変な質問だと思った。それは電話の向こうでもそう感じたらしく、間髪いれず鼻で笑われた。

『もう充分遠くにいますけど』

「ああ、うん。その通りだけど、それとはちょっと違う」

『うーん、そりゃあ寂しいよ。でも、』

 ためらいがちに、電話越しの弟はぼそぼそと言葉を紡ぎ出す。『姉ちゃんがそうしたいなら、そうすればいいんじゃないの? 姉ちゃん、そういう我儘言ったことないじゃん。一回くらい言ってみれば?』

 思いの外肯定されてしまったことに驚きながら、土岐野は「うん、うん」と返事をする。なんだかまた涙がこぼれ落ちそうになったが、今度こそ我慢した。最近、泣きすぎだ。ちょっとくらい我慢しなくては、と無理やり涙を堪えたら、言葉の語尾が微かに震えてしまった。

「ありがとう。じゃあ、切るね」

『おう』

 終話ボタンを押し、土岐野は長く息を吐き出した。徹底的に吐き出して、限界がきたところで思いっきり息を吸い込んだ。それだけで、頭の中がすっきりと冴えわたるような気がした。

 決めた。

 土岐野はひとつ頷くと、一歩、足を踏み出した。

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