第四章 1
「ええと……、『復活という出来事が私たちの周りに起きたら信じよう』、という言い分の問題点は何かと言うと……」
教壇の上で黒板にチョークを走らせる三善の姿を見つめながら、土岐野はぼうっと二日前の出来事を回想していた。
あの雨の日。目の前で“傲慢”と対峙したこの聖職者たちは、自分にひとつだけ課題を出した。
――おそらく、あなたは“傲慢”と何らかの契約を結んだのでしょう? それが何とは聞きません。ですが、それがある限り教団は公に手を貸すことができないのです。だから、できるだけ早いうちに、どちらを選ぶか決めていただきたい。“大聖教”か、“七つの大罪”か。
ホセは厳しい面持ちでそのように言い切った。
――もちろん、あなたが“傲慢”を選んだとしても、私たちは一切文句を言いません。ただ、強制的に奪取する可能性は無きにしも非ず、ですが。
どちらを選べばいいのだろう。
土岐野は愛用するルーズリーフに、薄い筆圧で「七つの大罪」と書き記した。
そういえば、“傲慢”の正式な名称を、彼女は一連の出来事で初めて知った。初めて会った時、あの男は爽やかな笑みを浮かべながら「ダグラス・ネブラスカ」だと名乗ったのだ。だから“七つの大罪”にも人間のように名前があるのだと思っていたが、どうやらそういう訳ではなかったらしい。
隣に、もうひとつ「エクレシア」と書いてみた。これが、今講義をしている「大聖教」系列の宗教法人。自分が持つ特異体質も、彼ら曰くこちら側にあるべき能力なのだと言う。本来的には、大聖教についていくことが自然なのだろう。だが、今の土岐野には「どちらが正しいか」なんてことは正直なところよく分からなかった。
大聖教と“七つの大罪”――同じ概念から派生した二つの考え。信じるものはほとんど同じなのに、手段が違うだけでこんなにもいがみ合う必要があるのか、と彼女は思ったのだ。まるでボタンをかけ違えてしまったかのようなちぐはぐさを、彼女は肌で感じていた。
――どちらも、私に優しくしてくれたじゃない。どちらも、炎を放つことしかできなかった私を否定しなかった。認めてくれた。
そう思ったとき、握っていたシャープペンシルの芯が折れた。その音で彼女ははっと我に返った。折れた芯が、ルーズリーフの上をゆっくりと転がっている。たまたま書いた「七つの大罪」と「エクレシア」の間を行ったり来たりしているその芯は、なんだか今の自分みたいに宙ぶらりんに見えた。
一方、教壇に立っている三善は、案の定冷や汗の大盤振る舞いだった。
柔らかな日の光が窓から燦々と降り注ぎ、穏やかな時間がゆるゆると流れている。昼食後の授業というのは、どうしてこうも気持ちがいいのだろう。主に、眠気という意味で。
三善は静かに教室を一瞥し、やっぱり眠たいよね、と肩を落とした。
前列に座る比較的やる気のありそうな生徒は、それはもう目をキラキラさせてこちらを見ている訳だが、……生徒の大半は身体がこくりと前後に揺れている。気持ちはよく分かる。午後一番の講義なんて、眠い以外の何者でもない。それが分かっているからこそ、なんと言うか……否定できない。
ちらり、と教室の後ろ端で腕組みしているケファに目線を向けた。神学の授業をやれ、と命じたのは彼だから、そろそろレッドカードを出してくれるのではないかと期待したのだ。この続きは俺がやる。そう言ってくれることを信じて。
だがその視線に気づいたケファは無言で、ただ顎を使い合図を出すだけだった。要するに、ゴーサイン。
だってほとんど誰も聞いていないじゃない、と半分泣きそうになりながら三善が首を横に振ると、凄味のある睨みが飛んできた。……ケファのスパルタモードが発動した瞬間である。
ええと、と口ごもりながら三善はテキストに目を落とした。洗礼を受ける前に習ったような初歩中の初歩しか書いていないけれど、これを一般の子供が理解できるとは到底思えない、が三善の正直な感想である。どう噛み砕こう。うーん、と三善は思わず唸ってしまった。
「『復活』という出来事は歴史的に一度しか起こらない出来事であるので、科学的証明が困難だということ――これが問題点にあたります。私たちの世界は、科学的方法で立証される事柄ばかりで成立している訳ではありません。法律的方法によって吟味されなければ、正当な方法を用いているとは言えないのです。つまり、」
身体の芯が冷える思いをしながら三善は言葉を紡ぎ出す。「目撃者の証言や本人の証言が収載されている聖書の記事を有力な証拠として検証が必要になります。だから、復活の証言には、聴く者の主体的な判断、即ち、信じるか否かの判断が求められます。話す側ではなく、聴く者に判断の最終権限が託されているのです」
やっとのことでその項目を言い切ると、丁度よく、まるで示し合わせたかのように授業終了のチャイムが鳴る。教室中が喧騒に包まれた。
三善はふー、と長い息を吐き出して、教壇に突っ伏した。この長い長い一時間で、自分の魂が半分くらい削られるような思いをした。今度からは、きちんと授業を聞こう。そう念じながら、己のやわらかい灰色の髪をぐしゃりと押える。
「お疲れさん、ヒメ」
ふと頭上から声が聞こえた。三善はそのままの体勢で「むぅ」と奇声を上げる。
突っ伏しているがために表情は分からないが、どうやらケファは苦笑しているらしかった。気配でなんとなく分かる。
「こんな時間に神学なんか入れたら、普通は眠くなるっつうの。まあ、ヒメちゃんの講義自体が理屈っぽくて、それに拍車をかけたってのもあるけどさ。こういうのはもっと楽にやっていいんだ。特に、今日は普通科の授業だし」
どういうこと? と三善はのろのろと顔を上げた。
「全力で神学を刷り込まなくてもいいって話。国語や数学と違って、神学は『生きるための考え方のひとつ』を提示しているにすぎないの。そもそも、宗教ってそういうものだろ」
「……ああ、そっか。直接人の生き死にに関係することだから、基本的に『何を信じるか』っていう部分は本人に任せていいのか」
そう、とケファは頷く。
「そして、直接生死に関わることだからこそ、俺たちは真面目に教えを説かなくてはいけない。真摯に向き合わなければ、俺たちを生み出した神様とやらに示しがつかん」
まぁ、それをきっかけに信者が増えれば万々歳だけど、とケファは茶化しながら笑った。
これくらいあっけらかんとしていれば楽だが、そうもいかないのがエクレシアの内情である。そもそもエクレシアは大聖教内で分裂した宗派を無理やり束ねたよろず宗教法人である。ケファが「本人に任せる」発言をしてもあまり怒られないのは、彼が大聖教にとって有益となるような研究成果を十数単位で発表してきたからであって、普通は例外なく叩かれるに決まっている。
そのあたりの兼ね合いが奇妙に絶妙だということを三善は知っているため、敢えてその辺りは深く追求しないことにした。
「じゃーねー、ヒメ先生」
「またねー」
声をかけながら講義室を出ていく生徒たちに三善はにこにこと笑いながら軽く手を振ってやる。それを見て、ケファは思わずきょとんとしていた。
「なに、お友達になったの?」
「ううん。さっき廊下を歩いていたら、突然飴を握らされた」
三善ののほほんオーラに絆されたのか、はたまた単位のために――聖フランチェスコ学院は単位制だ――買収されたのか。真意は明らかでないが、特に悪いことではなかろう。まあいいか、とケファもそのあたりには納得してくれた。贈り物はあまり受らないほうがいい、と軽く釘をさした程度で、それ以外には細かく口出ししなかった。
「そうだ。三善、これ」
「ん?」
急に名前を呼ばれ、テキストをまとめていた三善はついつい瞠目してしまった。彼に渡されたのは、結構な厚みのある紙束である。
本文は英数字の羅列のみで構成されており、ぱっと見ただけではそれが何を意味するのか見当がつかない。だが三善はそれをちらりと見ただけで、「ああ」とすぐに納得したようだった。
「書いてくれたの? ありがとう」
それは、一昨日三善があの男から『解析』した暗号文であった。とりあえずケファに全部を話し無理やり記憶させた、というのは覚えていたが、その後それをどうしたかは全く覚えていなかった。ものにもよるが、三善は記憶を断片的にしか留めておくことができない。記憶分野のキャパシティが極端に狭いのだ。だからこそ、外部に記録できるものはきちんと書き留めておく必要があるのだが。
三善はその紙束を上から数枚ぺらぺらとめくり内容を確認し、脳内できちんと再生できるかシミュレーションしてみた。頭にいくつか数式が浮かび上がり、そしてそれが正しいことを瞬時に検算しながら。三〇秒ほどゆっくり時間をかけて「正しい」ことを確認すると、三善はそっと紙束を閉じた。
「うん、大丈夫。合ってる」
「ところで、それって本当に“傲慢”の“鎧”なのか?」
三善が肯定したのを受けて、「それじゃあ尚更」とケファは三善の頭に手を乗せる。
***
また、ひどくなった。
ホセは鏡に映った自分の姿を睨めつけながら、短くため息をついた。
聖職衣の上着は肩に掛けたまま、その下に着ている白いシャツのボタンをへそあたりまで大きく開けている。年齢の割に引きしまった筋肉の上、ちょうど胸の中心に赤い十字の傷痕が見える。
一昨日“傲慢”と対峙して以来、どうも身体の調子が悪い。棘で貫いたようなどくどくと脈打つ甘い痛みが、身体を支配している。この痣を中心に。
「やはり、“傲慢”に接触したからでしょうか……」
あの日、かつての“釈義”能力部位の一つである「右手」で彼奴に触れ、そして元々の“釈義”能力部位の「喉」で対価「讃美歌」を歌った。自分がもう『釈義』を展開できない身体だとは言っても、『対価』に全く反応しない訳じゃない。特に後者は、前者とは全く異なる方法で発動していた訳で――。
いずれにせよ、釈義を消費し続けるのはそもそも無理があるのだ。その件については、この胸元の痣が物語っている。
だから、不安なのだ。三善には昨日検査を受けさせ、身体に異常はないとは言われたけれども。あの時三善が発した一言が脳裏に浮かぶ。
――『解析』した……。
あれ自体は釈義ではないものの、使いすぎると後々身体にリバウンドとして跳ね返ってくる可能性がある。この十字の痣――“聖痕”という形で。ただでさえ三善の保有する釈義の全てが後天性なのだ。通常のプロフェットよりもはるかに危険は多い。
「太陽に近づきすぎた者は、蝋の羽根をもがれ地に落とされる、……か」
その時、静かに部屋の扉が開いた。
「ああ、あなたでしたか。ヒメ君は?」
大あくびをしながらケファは扉を閉め、実にのんびりとした足取りで歩いてくる。
「図書館に行ったよ。必要なものができたんだと。……とりあえず、今のところは安定しているみたいだ。体調的にも、釈義的にも」
「そうですか」
それでも安心はできませんね、とホセは言い、自分の荷物から小さな瓶を取り出した。その中身は一般に『聖水』と呼ばれるもので、本来的には土地を清め結界を張るための祭器なのだが、今では医療用に使用されることのほうが圧倒的に多い。ちなみに、一昨日土岐野の放った『聖火』を沈めたのもこれである。
彼はそれをさらしにしみこませ、聖痕に当てる。じゅ、と人間から発せられたとは思えない、まるで焼けた石に水を注いだような音がした。しばらくしてようやく痛みが引いてきたのか、長く息を吐き出し、ホセはそのアイボリーの瞳を閉じた。
「この仕事が終わったら、一度フランスに『コレ』を取りに行かなくてはなりませんね。あなたも来ますか? ブラザー・ジョーのところですが」
そう言って聖水の入った小瓶を振って見せる。
「別にいいよ。どうせあの親父はピンピンしているだろ。連絡はたまに取っているし、今更だ。ああ、でも、孤児院の方には顔出ししたいかな」
そこまで言って、ケファはふと思い出したように、「やっぱやめ。ヒメがいる」ときっぱり断った。
そう言うと思った。ホセは笑いながらシャツのボタンを留め、上着に袖を通す。首には洗礼を受けた証である銀十字を、左腕にはロザリオを。それらは窓から差し込む太陽の光を反射し、きらりと瞬く。
「いいじゃないですか、ヒメ君と一緒でも。彼にも外の世界を教えるべきです。最終的には、『聖都』に行く子ですからね」
「だから嫌なんだよ」
ケファは眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。「まだあいつには早すぎる。少なくとも、あいつが猊下の力なしに生き長らえる方法を手にするまでは外に出せない」
甘いだろうか、と彼が呟いたので、ホセは優しく首を横に振ったのだった。
「――だから、我々は急がねばなりませんね。あの子のために」