第三章 4
イヤー・カフの十字は巨大な剣となり、曲線を描く黒の鎌を阻止する。刹那の波動。妙な紅き火花が飛び散り、左腕に独特の衝撃が伝わる。プラズマのまぶしさが目を焼いた。ゆっくりと瞼を降ろしその目を細めると、同時にみしみしと骨の軋みが聞こえた。
ケファは力任せに鎌を薙ぎ払った。一段と派手な閃光が散る。
「“傲慢”の特性は“鎧”――なるほど、この火花はその強靭さの象徴、ってか」
鼻で笑いながらケファは“傲慢”を睨めつける。精悍さを強調するその表情は、背後で立ちすくむ土岐野を震え上がらせ、ホセを満足げに笑わせた。
短く息をつき、片手でゆっくりと背負っていた三善を降ろす。それをホセが両手で受け止め、そっと彼から引き離した。彼の剣が放つ聖気に耐えきれず、建物が微かに軋んだ音を立てている。壊れることはないだろうが、さすがにそちらの防御までは手に負えない。
剣を両手で構え直すと、ケファは短く告げた。
「ヒメを頼む」
その一言に、ホセは穏やかに微笑む。
「頑張ってください。聖ペテロ」
「その名で呼ぶな、ゼベダイの子ヤコブ」
ケファはそれを言い切るのと同時に、その大剣を勢いよく振り回した。
空を切る鋭い音が耳を劈く。予備動作が余計にかかる大ぶりな動きにより、一瞬だがケファの前方に隙ができた。
「もらった!」
その隙を見逃す“傲慢”ではない。機敏な動作で彼は鎌を振りかざした。ケファは動揺した表情を浮かべ、短く舌打ちする。ひゅ、と軽やかな風音。黒き鎌があと少しで聖職者の肩を切り裂く――その時だった。
ケファの空いている右手が鎌の刃を捉えた。『釈義』で作り上げた塩をわざとその刃にぶち当て、数秒の猶予を得ることに成功する。砕け散る塩の破片の中、“傲慢”にはケファがニヤリと嗤う様が見て取れた。
彼は遠心力により背後に回った大剣を、勢いよく真正面に引き戻す。無防備に開いた“傲慢”の腹部にそれがぶち当たり、視界が赤の閃光に染まった。
だが、独特のプラズマに包まれながらも、“傲慢”は笑みを絶やさない。楽しくてしょうがない、とでも言いたげな表情に対し、ケファは露骨に顔をしかめている。
「痛いなぁ。今、君のせいで腕が一本ないんだよ。上半身まで持っていく気?」
「知るか、んなもん。どうせおまえらはすぐに復活するんだ。人間が“七つの大罪”を背負い続ける限り――」
ケファはぽつりと呟いた。「お前ら“大罪”は、消滅しない」
ランダムな動きを見せるその鎌は、予測がつかない。だからケファは、然るべきその瞬間まではかわす方向で考えた。もう先程のような騙しが通用するとは思えない。相手が莫迦ではないということを、彼はきちんと理解していた。
バックステップを何度か繰り返し、唐突に剣を地面に突き立てる。それを軸にケファが回し蹴りを決めるも、“傲慢”はひらりと軽やかに避け、ケファの肩に深く鎌を突き刺した。
じわり、と血が広がり、聖職衣の白い部分が赤黒く変色していく。痛みに顔を引きつらせるが、ケファはこれ幸いと右手で肩に触れた。ぬらりとした血液をその手に滲ませると、塩で傷口を硬化した。己の血液は、対価の支払いに使う。
そっとそれを舐めとると、舌先に電流のような刺激を覚える。
「『装填開始』」
その様子に、“傲慢”は思わず苦笑した。
「君たちは大変だよね。そんな馬鹿げた対価を払わないと、何もできないんだもん」
「俺たちは人間だからな。神様じゃあ、ない」
す、とケファの左手が男に向けられる。「お前らも聖典のひとつやふたつ、勉強したらどうだ。例えば、こんな話はどうだ。『深層(significance)発動』」
左手から発せられた光の矢は卒然と“傲慢”を追撃し始める。何本かはかわされてしまったが、三本くらいは命中したと思われる。
矢がぶち当たった際に発生した煙が立ち上ってゆく。焦げたようなざらざらした匂いが鼻をつく。“傲慢”の周りには、蜘蛛の巣のようにあちこちを走る赤いプラズマ。反撃しようと身体を動かした刹那、彼は悟った。
それは叶わない、と。
ケファが“傲慢”の耳元でなにかを囁いた。背後から立ち回り、その剣を“傲慢”の喉元に突きつけている。ちょっとでも動けば薄く皮が裂けるのではないかという、本当にギリギリの位置にその切っ先はある。
彼が囁いた言葉の正体を、“傲慢”が知らないはずがなかった。それは聖典の一節だった。
“傲慢”は横目でケファを睨み、しかし動きはぴたりと止まった状態でそこにいる。最早校庭に敷かれたコンクリートのほとんどが原形を留めておらず、クレーターのようなくぼみがいくつもできていた。
優しい声色で、ケファは己の信じる神の教えを淡々と紡いでいる。
それを耳にしたホセはぽつりと呟いた。
「……『出エジプト記』三十章十一節から十六節、“命の代償”、ですね」
「え?」
土岐野が聞き返す。その問いにやんわりと頷きながら、ホセは未だ目を覚まさない三善を背負った。三善自身が小柄であるので、こういうときは非常に助かる。本人は小さいことをとても気にしているようだが、いかんせん彼は外で倒れることが多い。ならば、不謹慎ではあるがもうこのまま成長が止まればいいのにとも思う。
「ここの生徒なら、あなたも聖典の一つや二つ覚えているでしょう?」
雨がやっと上がったようで、空を見上げるとうっすらと白んで見えた。もうじき晴れるだろう。よかった、とホセは胸をなで下ろした。
「あの箇所は、私達の『対価』という概念の原点なのですよ。それぞれに見合った対価を、神の御前で自分自身を覚えていてもらうために支払うのです。つまり、プロフェットは生きている間、その能力を持ち続ける限りずっと神に捧げものをしているのです」
ホセは破顔して言った。相変わらず顔は泥で汚れていたが、土岐野も実は似たようなものなので、もう気にしてはいないようだった。その代わり、彼が言ったその言葉に含まれていた僅かな違和感に興味を示した。
ためらいがちに、彼女は尋ねる。
「……あなた、は」
「私ですか? 私はもう、とっくにその全てを支払い終わっていますよ。五年前に勃発した我ら教会と“七つの大罪”による聖戦――俗に言う『十字軍遠征』の時に、ね」
今もそれを思い出すたびに、胸に刻まれた傷痕が疼き出す。
そう、あの日に――自分のプロフェットとしての能力は、完全に失われたのだ。
聖都で彼の者に対して断罪を遂行した、あの日に。
***
ホセに包帯を巻いて貰いながら、ケファは目を剥いていた。
「三善の存在が“七つの大罪”に知られた……?」
背後でホセは短く頷く。
あの後、例によって“傲慢”を取り逃がしたケファは、彼らとともに医務室にいた。保険医に相談したところ、三善は今のところ眠っているだけだと言う。このままでは分からないことも多いので、目が覚めてから再度診察ということで落ち着いた。ケファ自身も怪我はしていたが、「自分たちでやるから」と敢えて保険医には退室してもらうこととした。――そして現在に至る。
「“傲慢”が言うからには、そうでしょうね。私はそれとなく、不自然にならない程度に隠していたつもりです。帯刀家の力も借りて」
「なるほど……うっかりあいつと接触してしまったから、三善は排除されそうになったんだな」
ケファは短く頷き、目線をちらりとベッドへ移した。
三善は相変わらずよく眠っている。彼は、体力がない割に身体自体は頑丈なのだ。
それよりも、問題は彼の隣だ。彼が眠るベッドの隣に位置する合皮のソファに、学校指定のジャージを身に纏った土岐野が俯いて座っていた。濡れた制服は天井を走る銀のカーテン・レールにかけられている。
「寒くないですか?」
ホセが声をかけると、土岐野は短く頷いた。ぎゅっと己を抱くように両腕に触れ、今にも泣きそうな顔をしている。――この少女は、本当によく泣くなぁ。大人二人は意外にものんびりと構えていた。
突然、土岐野が口を開いた。
「あの、神父様……」
「ホセ、です」
彼女が顔を上げると、いつもの穏やかな調子でホセは言った。「ホセ・カークランド。司教の位階を叙されています。こちらの怖い顔をしている方が、ケファ。位階は司祭で、“釈義”の能力者です」
彼の横で借り物のシャツに袖を通しているケファは、その大雑把な紹介に眉をひそめたが、あながち間違いではないのでそれについては何も言わなかった。
「そして、ベッドで眠っているのが姫良三善助祭。彼は非常に若いですが、優秀なプロフェットです」
できれば名前で、と控えめにホセは微笑むと、土岐野はおずおずと、声を小さくしながら言った。
「それじゃあ、ホセ神父。私……ごめんなさい」
きょとんと二人は目を丸くした。一体、何に対して謝ったのか。首を傾げると、
「私のせいで、みんな、こんなに怪我をして……」
土岐野の声が震えている。その他にもなにか言おうとしているけれど、うまく言葉にできなかった。その様子に、ホセはふっと眉を下げる。
「今までよく、頑張りましたね」
責めるでもなく、『あの人』と全く同じ言葉を。
土岐野の脳裏には、『あの人』――“傲慢”の姿が蘇った。どちらが正しいか、もう判断が出来なかった。つい先程まで『あの人』だけが正しいと、そう思っていたはずなのに。今ベッドで眠っている三善や、大怪我を負ったケファを見たら決心が揺らいでしまった。『あの人』は、容赦なく人を傷つけた。久しぶりに見た彼は、自分に向けた優しい笑みとは比べ物にならないくらい残酷な表情を浮かべ、あの鎌を振るっていたではないか。
本当に、それは己が望んだことなのか――
そう思ったら、また土岐野は泣けてきてしまった。ぼろぼろとこぼれ落ちる大粒の涙は、青いジャージの膝元を濡らしてゆく。
「遅くなってしまってすみませんでした。もっと早くに迎えに行きたかった」
どうしてこのひとたちは、己を責めないのだろう。嗚咽を洩らしながら彼女が問うと、それについてはケファが答えた。
「頑張った子をわざわざ責める理由なんかないだろ」
その通り、とホセは一度頷き、手持ちの荷物から一通の封書を取り出た。そしてそれをきょとんとしている土岐野に手渡した。
「あなたには、これを」
私の本題はこれなんです、と彼は実にのんびりとした口調で続けた。「私は教皇庁特務機関より派遣されました、釈義調査官です。人事の総括が本職なんですが、奈何せん人手が足りなくて」
「釈義、調査官……?」
聞き慣れない単語に、土岐野はただただぽかんとするばかりだ。誰でも、初めはそうだ。ずっと昔の話だからすっかり忘れているが、きっとホセもケファも同じように呆けた顔をしたはずだ。
「率直に申し上げます。土岐野さん、あなたのその発火作用は、間違いなく『釈義』によるものです。昔からそうだったのですか?」
「い、いえ。今年の春から……です」
それならば合点がいく。幼い頃に発覚していれば、すぐに教会側に保護されるはずだからだ。ふむ、とホセは首を傾げ、次に家族に能力者がいるかどうかを尋ねた。しかし、土岐野は首を横に振るばかりだ。
「というか、本当の両親は知らないので……。私、幼い頃に両親を亡くしていて、今は弟と共に叔母夫婦の元でお世話になっているんです。だから、両親のことは分かりません。ごめんなさい」
彼女の家庭事情は予想外に複雑だったらしい。ホセは非礼を詫び、彼女に渡した封書を開くように指示した。そこには、見たこともない申請書が五枚綴りで入っている。書類の名前は、なんだか見たこともない言語で書かれているが……これは何語だ。土岐野はついつい目を瞠っている。
「事情は分かりました。ここからは事務的なお話をさせて頂きます。『釈義』が発覚した以上、……あなたには本当に辛い選択だと思いますが、普通の生活に戻るのはおそらく無理だと思います」
土岐野が目を見開き、がばりとホセを見上げた。彼の表情は、先程までの穏やかなものなんかではなかった。感情という感情が削ぎ落された、ほとんど無表情といって差し支えない表情。それを目の当たりにし、彼女は「どういうこと?」と不安をより一層露にする。
「『釈義』のコントロールができるよう訓練してもらわなければならないのです。あなたが聖職者にあるかどうか、という次元の話ではなく。今後普通に生活していくにしても、その能力を放置すれば、いずれ今回と同じように誰かを傷つけるだけの凶器になる。それを防ぐために、一度こちらで使い方を学んで頂く必要があります」
「それって……」
彼は短く頷いた。つまりは、隔離されるということ。日常から引き離されることを、彼は無言で伝えていた。
「――ここからは、私の独り言ですから適当に聞き流してください。私は、あなたについて上層部に報告する義務があります。でも、正直なところ迷っています。報告すべきかどうか」
その一言に、ケファがぎょっと目を剥いた。それはつまり、契約違反。しかも教会側において特に重要視されている『釈義』に関連する内容での隠匿はかなり重大な罪に当たる。それを、この男は容易く「悩んでいる」と表現したのだ。驚かないわけがない。
「あなたがこの一七年間、いろんな人に支えられ、大事にされてきたというのは見れば分かります。やりたいことも、好きだと思うことも沢山あるでしょう。私は、そんな未来ある子供に『Yes』としか言いようのない選択をつきつけたくはない。あなたはどうか自由に生きて欲しい。人の痛みが分かる子は、籠の中で飼われているべきじゃないんです。だから、あなたがそのように望むなら、私は喜んで事実を隠蔽しましょう」
少なくとも、と最後に付け加えた。「私のようには、なってほしくない」
その時、三善がもぞりと身じろぎした。ようやく目を覚ましたらしく、長い睫毛が微かに震える。一拍置いて、瞼がゆっくりと開いた。独特の赤い瞳はぼんやりと白い天井を彷徨っている。
「起きたか、このおばかちん」
よっこいせ、とケファが立ち上がり、彼の枕元までやってきた。
「ケファ」
仰向けに横たわる三善を真上から見下ろすと、彼は今どうして横になっているのか全く理解できていない様子だった。しばらくケファの顔を眺めていたら、ゆっくりとだが思い出してきたようだ。その証拠に、どうすればいいのか分からない、とでも言いたげな表情を浮かべている。自分のキャパを越えた出来事に、奇しくも出くわしてしまったからだろう。
「どこか調子が悪いところはあるか?」
「まだ、お腹が痛い」
それよりも、三善はケファがどうしてそんなにあちこち傷だらけになっているのかが気になっているようだ。ケファの表情が何とも複雑だったので、彼が怒っているのか悲しんでいるのか、それとも笑っているのかはよく分からなかった。しかし、三善はそれでいいと思い直し、ふっと息を吐き出した。
首を傾けると、三善の大きな瞳に土岐野の姿が映り込んだ。ときのさん、と三善の唇が動く。
名を呼ばれたことにとても驚いたようだ。そっと土岐野は三善の元に近づき、優しい声色で尋ねた。
「大丈夫……?」
うん、と三善は頷く。
「意外と平気」
「ごめんなさい、私のせいで……そんな姿に、」
「そんな姿って、どんな姿? 確かに身体のあちこちが痛いけれど、そんなにひどいのかな、僕は」
ひどいよ、かなりひどいと彼女は付け加えた。彼女はきっと嘘は言わないだろうから、その通りなのだろう。頭も腹部も時折鈍痛が走る。困った事態ではあるけれど、ある意味いつも通りだ。そこまで気にすることではない。三善は何とか彼女を安心させようと、にこりと微笑んだ。
「これくらいの怪我ならいつものことだから。でもちょっと、身体を使いすぎた、かな。……いずれにせよ、僕はあなたのせいだとは思っていないよ」
「でも、現にあなたは怪我をしたじゃない」
なかなかに頑固だ。ふ、と三善は思わず息をついた。どう言ったら彼女は理解してくれるだろうか。うまく回らない思考を無理やり巡らせ、思いついたことを口にしてみる。
「土岐野さん。あなたは『ローマの信徒への手紙』、読んだこと、ある? 新約の」
土岐野は静かに首を横に振った。
「じゃあ、一度開いてみるといい。罪の話が載っているから。土岐野さんが言う『私のせい』のは、多分ニュアンスとしては“咎”の方が近いのだと思うけれど。正しい者は誰もいないし、僕自身だって決して正しくはない――だからいいんだよ。気にしないで」
まだ彼女は納得していない表情ではあったが、これ以上三善は何かを言おうという気にはならなかった。それよりも、もっと重大なことを言っておかなければならない。
三善がケファの名を呼んだ。
「『解析』した」
囁くようにそう言うと、ケファの紫の瞳に動揺の色が浮かんだ。まさか、あの“傲慢”の能力を、か? 尋ねると、三善は首を縦に動かした。
「ごめんなさい。でも――」
「ばか。そんなことをしたら、お前が」
「いいんだ。これは僕の判断だから……、でもちょっと、頭の中がパンクしそう。吐き出していい?」
「待て」
おい、とケファがホセを呼んだ。「ちょっとその頭貸せ」
「天才の頭脳を持ってしても無理ですか? そもそも、人の記憶力をまるで物みたいに言わないでくださいな。……まあ、いいでしょう。後半だけ請け負います」
そんな三人の会話を聞き、土岐野はきょとんとした表情でホセを見上げる。
「とれーす?」
「ああ、ブラザー・ミヨシの能力です。彼はプロフェットですので、勿論釈義使いではあります。しかし、その他にも特異能力がいくつかありまして。“解析”とは、その中のひとつ、能力部位で触れたものの本質を分析し、能力者であった場合はその能力をコピーできる能力です。解析した情報は彼自身が取り決めた暗号コードに置き換えられるので、外部にそれを伝えておけば、逆解析していつでも使えるという仕組みです。コードそのものに期限はありませんから」
そのようにホセは説明し、にこりと笑った。
「しかし、困りましたね。これは教会のごくごく限られた人物しか知り得ないことなんですよ。外に洩れたら困るんです。土岐野さん、だからこれは」
そして、唇の前に指を一本立てた。「秘密、ですよ」