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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
1.傲慢の紅き鎧
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第三章 2

 雨の中走り去る土岐野を、ホセはついに引き止めることができなかった。

 本来的には立場上引き止めなければならなかった。そもそも、今彼がこの学院に滞在しているのは、教皇庁より釈義調査を任されているからだ。ならば尚更引き止めなければならなかったはずだ。自分でも分かっている。だが、あの背中を見ていたらどうしても声をかけられなかった。

 少なくとも、今から己が言う言葉は、未来に沢山の可能性を秘めている若者に対してつきつけるものではない。次の世代にはそれなりに道を選ばせてやりたい。現に周りの大人たちによって可能性を極端に狭められた子供がひとり、身近にいる。彼に対する償いではないが、どうしても強制するなんてできなかった。

 土岐野雨の「あれ」は、間違いなく『釈義』だ。

 『聖火』を放たれた時、咄嗟にとあるすべを用いて『釈義』を相殺させた。おかげで火傷こそしなかったが、正直なところ非常に危なかった。それくらいの脅威をあの子は持っているのだ。随分苦しい思いをしてきたに違いない。

 早く見つけてあげられなくて申し訳ない。そして、そのまま逃がしてあげられなくて申し訳ない。なぜなら、己があの令状を持つ限り、彼女の存在を教会に報告しなければならないからだ。せめて、ただの聖職者として派遣されていたのなら、まだいくらか道があったものを。

 そこでふと、ホセは彼女の言葉を思い出した。

 ――あの人は、確かに言ったのよ、確かに。

「……『あの人』、ねぇ」

 思い当たる節はある。

 そう考えながら、彼は実にのんびりとした足取りで歩き始めた。いずれ彼女にはまた会うことになるのだから、焦らなくてもいいかという見解に至ったのだ。それよりも、彼女が洩らした『あの人』とやらを検証しに行った方がいい。おそらく、頭に浮かんでいるとある人物で大方間違いはないだろうが。

 しばらく歩いて、ホセはある一か所でぴたりと立ち止まった。

 その場所は、昨夜ケファが『あの人』と対峙した場所であった。先日燃えたという納屋のすぐそば。それなりに大乱闘だったようで、開けた校庭はところどころ液状化現象を起こしている。幸い他に建物が存在しない土地だったので、校舎などには一切影響がないようだが。よほど強い聖気がぶつかり合ったのだなぁ、とついつい不謹慎にも感心してしまうホセだった。

 そして傘越しに宙を仰ぐ。近くの建物は、体育館と連絡棟か。

 ホセは自ら歩いて建物を観察し、いかなる被害を受けたのか細かく確認し始めた。

 建物の陥没はないが、ケファが使用した『聖十字の剣』の影響で多少壁に亀裂が入っている。あの剣は強力な神器故に、加減しないとこういう事故が度々発生するのである。気になるのは、壁に走る亀裂から微かに感じる例の残滓か。この感じは嫌と言うほどよく知っている。

 ケファが言うには、『聖十字の剣』で斬りかかったときに紅い妙な火花が散ったらしい。彼が扱うかの剣は大抵のものを斬ることができるはずだし、それにケファの優れた動体視力を以て「動きが追えない」ということは滅多にない。もしあるのだとしたら、よほど高位な“七つの大罪(DeadlySins)”くらいだろう。

 総じて考えると、やはり『あの人』とは――

「――」

 刹那、ホセは振り向きざまに手刀を繰り出した。握っていたはずの傘はふわりと曇天の空を舞い、数秒の間の後地面に落下。身を翻したのと同時に、己が身に纏う白色の聖職衣も軽やかに揺れた。

 繰り出した手刀は空を切り、代わりにもう一方の腕を何者かに強く掴まれた。しかしホセは一切動じない。瞬時に肘で相手の急所を突く。今度ははっきりとした手ごたえがあった。

「躊躇わずにまっすぐ狙ってきたか。さすがだねぇ、司教ファーザー

 ホセの片腕を封じるその男は、血のように真っ赤な短髪を持ち合わせていた。聖職衣を思わせる漆黒の上着は勢いでふわりと翻り、それに伴い首元の鎖がじゃらりと乾いた音を立てる。

「そう呼ぶのはやめてください、たかが“七つの大罪(DeadlySins)”風情が」

 ホセは珍しく冷たい声色で吐き捨てるように言い、強く掴まれていたその手を振り払った。そして、湿り気を帯びる己の短髪を乱暴に掻き上げる。

 赤毛の男は愉しげに嗤いつつ、ほんの僅かに肩を竦めた。

「まさかこんなところで会うとはねぇ。『十字軍遠征』最大戦力保持者――孤高のプロフェット、ホセ・カークランド。てっきりくたばったかと思ったぜ」

「あなたのその身体は、一体何代目ですか。私は前の『あなた』なら知っていますけど、ね。“傲慢(Superbia)”第一階層」

 赤毛の男はニヤリと気味の悪い笑いを浮かべ、それから右手をひらひらと動かした。その腕は刹那、まるで風化したかのように地面に零れ落ちた。それは砂の城が崩れ落ちる様と非常によく似ている。

 それを目の当たりにし、ホセは露骨に不快な表情を見せた。

「ああ、崩れちゃった。君の部下がね、昨日俺の腕をぶった切ってくれたものだから。復活するまで適当に補っていたんだけど、この湿気じゃあ駄目だったか。嫌だねぇ、日本は雨が多くて。そうは思わない?」

「あいにく、私の祖国は雨と霧ばかりでしたので。……戦うおつもりで?」

 ホセが問うと、“傲慢(Superbia)”はうん、と首を縦に動かした。

「あの子がそのように御所望だからね。お前たち聖職者が怖いんだってさ。恐怖を感じるものは全て悪だ。悪は退治してやらなきゃ」

 あの子とは、とホセは一瞬考えたが、答えはすぐに出た。はっと顔を上げ、問い質すような口調で“傲慢”に尋ねた。

「まさか、土岐野さん……」

「君には関係ないでしょ。それよりさぁ、自分の身の回りの心配をしたら? 君、『前の俺』に会ったときはDoubting Thomasの野郎を連れていたでしょ。あれが造反したから別の生き物に乗り換えたの? 随分可愛らしい犬っころだこと。役に立つの、あれ」

「犬っころ?」

「真っ赤なお目目の子犬ちゃんだよ」

 男のその発言に、ホセは思わず目を瞠った。

 おそらくそれは――犬っころで連想するのもどうかと思うが――三善のことだ。なぜ“傲慢”がそれを知っているのか。否、知るはずがないのである。そもそも三善は“七つの大罪”に知られぬよう隔離して育てられたはずで、プロフェットとして活動するようになってからもなるべく目立たぬよう位階を調整した。この事実を知っているのは、ホセと、専属教師であるケファ、それから大司教補佐のジェームズ・シェーファーくらいである。

 三善の存在を、“七つの大罪(DeadlySins)”の核である“第一階層”にこのような形で知られてはならなかった。まだその時は来るべきでなかったし、然るべきと判断するには、彼はまだ若すぎる。だからあらゆる手段を用いて徹底的に隠蔽し続けていたのに。

 となると考えられるのはただ一つ。彼は既に何らかの形で三善本人と接触してしまったのだ。

 全くもって嫌な予感しかしない。

「……彼を、どうした?」

「殺しちゃったかも。だって『解析トレース』してきたんだもん」

 頭に血が昇るのが自分でも分かった。しかし今にも溢れ出しそうなドロドロとした気持ちを垂れ流してしまっては元も子もない。張り付いた笑みを浮かべたまま、ホセは首を傾けた。そうですか、困りましたね。そのように呟きながら。

 その様子を見て、“傲慢(Superbia)”は嘲笑った。

「お前の弱点は、感情を上手く隠せないことだ」

 瞬間、男の姿が忽然と消えた。ホセは斜め上を見上げ、左腕に巻かれた器械から何かを繰り出した。乾いた摩擦音が響き、それが止まると同時に彼は地面を蹴り上げた。

 ホセが宙に浮かんだのと、彼が先程まで立っていた場所に炎の雨が降り注いだのはほぼ同時だった。激しい爆風はホセの聴覚を侵してゆく。熱がこちらにまで這いあがってくる。火の粉が舞い、熱で目が焼けそうだった。

「っ、痛……」

 彼は自分の左腕から真っすぐに伸びる『何か』――ワイヤーを横目で見つめ、ふ、と息をついた。こんなこともあろうかと、両腕に常に仕込んでいるものだ。とはいえ、腕に相当な負担がかかるのであまり使いたくない代物なのだが。

 ホセはリールでそれを巻き取り、すとんと連絡棟の屋根の上に降り立つ。地上を見下ろし、流れてゆく白い煙をじっと見つめた。こうしてみると、まるで地上が全て真っ白に染まってしまったかのようだ。例えば、新雪がすっぽりと地上を覆い隠したかのような。

 その光景は、彼のそう古くはない記憶と非常によく似ている。あの日はとても寒かった。大豪雪でバギーは立ち往生。食糧車はそもそも途中で撃破されてしまった。疲弊した仲間たちを休ませ、単身前線に向かった。普通ならばあり得ないことだが、この部隊はそれが普通だった。その気になれば、たったひとりでも充分戦える。それが己の部隊だ。讃美歌を口ずさみながら現れると、決まって「彼ら」は発狂する。神に祈る時間くらいなら考慮してやったが、それ以上の猶予は絶対に与えない。そして地上のありとあらゆるものを、灰に

「――っ!」

 ぱしん。

 自ら頬を叩いて、湧き上がる妄想に終止符を打った。身体の震えもそれと共に落ち着きを取り戻し、頭の中もいい具合に冷めた。

 ホセにしては珍しく渋い表情を浮かべ、小さく舌打ちする。

「こんな時に、ケファはどこに行ったんですか。役立たず」

 そう呟いてから、そういえば自分が勝手に出歩いたことを思い出し、少々後悔した。まあ彼がこの爆音に気づかないはずはないから、いずれ駆けつけてくれるだろう。それまで時間をうまく稼げばいい。

 ホセはちらりと背後を見、それから右腕を振りワイヤーを飛ばした。刹那、耳を劈くような激しい金属音を立てフックが弾かれる。

「急に攻撃してくるとは。あなたらしくもない」

 嗤いながら振り返ると、“傲慢(Superbia)”はほぼ真後ろに立っていた。その身体には赤いプラズマを纏っている。それはあたかも、彼自身を守っているようにも見えた。

「ねぇ、司教ファーザー。さっきから気になっていたんだけど、何で釈義を使わないの?お前の第一釈義を使えば一発だろうに」

 それは実に的を射ている問いだ。そして、今のタイミングで気付かれるとかなり厄介。ホセはぎくりと身体をこわばらせるも、それについて何も言及することはなかった。ただ、無言で睨みをきかせているだけだ。

 その様子に、おや、と思ったのは“傲慢”の方である。

「まさかとは思うが――『喪失者ルーウィン』に、成り下がったとか?」

 ホセの反撃より早く、男は行動に出た。

 リールで回収しかけたワイヤーの先端を掴み、手際よくホセの手首に絡ませる。バランスを崩したホセの身体は屋根の上に押し倒され、身じろぎひとつできない体勢になる。

 上に組み敷く男はからからと笑い、それからホセの顎を掴んだ。

「滑稽だね。あの英雄が『喪失者』に、ねえ。そんな身体で俺に対抗しようとしたの? 随分甘く見られたものだ」

 そしてホセのアイボリーの瞳をじっと覗き込む。その表情は、ホセが微かに見せる動揺を楽しんでいるようにも見えた。

「俺は“第一階層”。“七つの大罪(DeadlySins)”の中で唯一肉体を交換できる者。俺の命は永遠だ。生物が最も進化したかたちを、俺は手にしているんだ。一〇〇年そこらで命尽きるお前らなんか、これっぽっちも怖くねぇんだよ」

 その言葉に、ホセはふっと笑みをこぼす。

「さすが“傲慢(Superbia)”ですね。自分が一番だと言いたいのですか?」

「勝手に喋るな、司教ファーザー。プロフェットとしてのお前がいないエクレシアなんか――」

 それを全て聞き終わる前に、ホセは声高らかに笑った。彼らしくもない大きな声で、この男をさも滑稽だと言わんばかりに。

 頬を伝う雨の滴が、べっとりと付着した土を洗い流してゆく。“傲慢”には、それがまるで黒い涙のように見えた。思わず“傲慢”は不快そうに眉間に皺を寄せる。

「だからあなたは傲慢だと言っているのです。ひとつだけいいことを教えてあげましょう。今のエクレシアには、私なんか足元にも及ばない、最高のプロフェットがいますよ。最強の鎧を持つあなたでさえ、太刀打ちできないでしょう」

「そりゃあ誰――」

「もう会ったのでしょう? どうでした、うちの秘蔵っ子は」

 そこで男ははっと目を見開いた。そんな莫迦な、とでも言いたげな表情。彼が思い当たる人物は、ひとりしかいない。

 先程力づくで蹴り飛ばしてきた、あの少年神父。

「まさか」

 ホセは優しく笑い、そっと男の頬に右手を添えた。

「それをどうとるかは、あなた次第です。可哀そうに……、また身体を替えなければいけないのですね。今のうちに、その身体に別れを告げなくては」


 彼の歌声は雨と共に、ゆっくりと降り注いだ。

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