第三章 1
外に出ると、じっとりと湿った空気が肺に溜まってゆくような感覚を覚えた。小雨になったとはいえ、まだぐずついた天気だ。三善は曇天を仰ぎながら短く息をつく。
「じゃあ、俺は校舎側からあたってみる」
ケファが寮母から拝借したビニール傘を差しながら言った。「ヒメは……」
「僕は逆回り。庭園経由で校舎に向かうよ」
「了解。じゃあ、もしも何かあった時は」
なにかあったときは? と三善が首を傾げると、ケファはいつもの茶化した素振りでニヤリと一言。
「自分の身は自分で守ること」
こうして、学生寮の前で二人は別れることとなった。
先程突き抜けてきた庭園は、向かって右側にある。三善は数歩そちらに足を進め、ふと思いついたかのように振り返った。ケファの後ろ姿は、既に小さくなっていた。
「――」
そのまましばらく彼の後ろ姿を眺めていた三善だったが、後に前へ向き直り、庭園へと駆け出したのだった。
しばらく傘を差したまま走っていたが、次第に傘が邪魔になってきたようで、途中から潔く閉じてしまった。肩に振りかかる細やかな雨粒は、徐々に三善の聖職衣を重たく湿らせてゆく。喘鳴がかった息を吐き出すと、熱気を帯びたそれは白く変質し宙へと立ち昇っていった。
彼の脳裏には、少女の横顔が過っている。
「あの子――」
あの時、泣いていたんじゃないか。
空から降り注ぐ雨水が上手に隠してくれていたけれど、本当は、辛くて悲しくてたまらなかったんじゃないか。
そういう時、己の師ならばきっとこのように言うだろう。放っておく優しさも必要なのだ、と。優しい彼ならばきっとそう説いてくれるはずだ。もちろん、三善は放っておくことも大切だということは知っているし理解もしているつもりだ。それでも三善には、彼女が今「一人の時間」を必要としているようには思えなかった。明確な根拠はない。だが、あの横顔にはなんとなく覚えがあった。少し前の自分自身だ。
今はもうそんなことはないのだが、三善はかつて外に出ることを許されていない期間があった。己の身の上があまりに特殊すぎるためだと後々ホセから聞かされたが、あの時はただ一人で地下の密室に閉じ込められているだけで、中途半端に生かされているにすぎなかった。今のように多少元気に過ごすことができるようになったのは、あの時暗い地下から連れ出してくれた二人の聖職者がいたからだ。
あの子も、今いる場所から引っ張り上げてくれる「誰か」が欲しいのかもしれない。
そう思ったところで、庭園に辿り着いた。三善は一旦立ち止まり、すっかり上がってしまった息を飲み込んだ。
――まだ、ここにいるだろうか。
三善はその赤い瞳を一度だけぎゅっと固く閉じ、大きく深呼吸した。拍動が徐々に落ち着いていく。吐き出した白い息は天に昇る。風は、ない。
「……うん、」
行こう。
再び目を開けた三善は、庭園へとゆっくり足を踏み入れた。石畳の上を、一歩一歩踏み込んでゆく。蒸した空気が、まるで全身にまとわりつくようだ。一瞬顔をしかめ、三善は額の汗を袖口で拭った。
彼女が先程いた木陰は――あそこだ。三善は目を向けるも、そこには既に誰もいなかった。あれから相当時間が経っているから仕方ない。移動してしまったのだろう。
三善はふむ、と首を傾げ、とりあえず庭園をそのまま突っ切って行くことにした。どちらにしろこの道を通った方が早そうだ。
苔に滑らぬよう歩調をかなり緩やかにし歩いていると、突然かさり、と木の葉が揺れ動く音がした。
そちらを仰ぎ見る三善だったが、特に異変はなかった。ただ、二三枚の葉がはらりと散っているだけだ。
「なんだ……」
風か。ほっと胸をなで下ろす三善。だが、すぐにその安心は恐怖へと転じた。
睨めつけるような強烈な殺気。身を翻し釈義を展開しようとするも、遅い。
熱風。
あ、と思う暇もなく彼の細い体躯は宙に舞い、石畳の地面に叩きつけられた。後頭部に走る鈍い痛みとぐらぐら回る視界。頭をしたたかに打ったため、身体を起こすのに時間がかかってしまった。
「っ!」
何者かによって頭を踏みつけられた。容赦なくぐりぐりと踏みつける靴底が強い摩擦を引き起こし、髪の毛を引っ張られているかのような激痛が走った。そのたびに湿った砂が靴底からこぼれ落ち、三善の睫毛に降りかかる。
「――あれ? 肩帯の色が黄色だ。なんだ、間違えちゃったのか」
その声は男のものだった。柔らかなテノール・ヴォイスで、その美声はこのような状況でなければずっと聞いていたいと思う程だ。男の声をかき消すかのように、己の頭蓋骨が石畳にくい込んで妙な音を立てた。
三善はあまりの激痛に瞳に涙を浮かべながら、彼の姿を見上げようと身じろぎする。
「動くと首、折れちゃうよ」
だが、その忠告に思わずビクッと身体を震わせた。そしてそれっきり、何かを理解したらしい三善は決して身体を動かそうとはしなかった。代わりに口を動かす努力をする。
「あ……、んっ、」
まだまだ喃語に近いが、よかった。辛うじて声は出るらしい。
再び靴底が弄るように頭を踏みつけ、ひゅ、と口から鋭い空気が洩れた。
「うっわ、まだ子供なのに助祭か。よほど人手不足なのかなぁ、エクレシアの皆様は」
それはそれで大変だなぁ、と憐れみを含んだ声が微かに聞こえてくる。憐れむ暇があったらその足をどけてくれ、めちゃくちゃ痛いんだが。三善はこぼれ落ちる涙をぐっと堪え、そのタイミングを見計らっている。
男はふむ、と暫し考え込み、再び角度を変えて三善の頭を踏みつけた。
「子供を殺す趣味はないんだが、あの子が恐がるなら仕方ないか」
「離せ」
刹那、投げ出されたままになっていた三善の左手から炎が噴き出した。まるで火柱のようにスピードと威力を上げた黄色の炎は、噴き出すそのままの勢いで男へと直撃する。
釈義の無意識の発動に三善は自分で驚いていたが、生憎、男は全くひるんでいなかった。むしろそのせいで何か妙なところのスイッチが入ってしまったらしく、
「悪い子にはお仕置き」
鈍い、音。
同時に鳩尾に激痛が走り、三善の身体はそのまま地面を転がった。仰向けになった状態で動きは止まり、痛みを我慢するために肩だけで荒い息を吐き出す。急所を強く蹴られたせいで、吐き気と妙な寒気が全身を支配していた。
しかし、そのおかげで相手の姿をようやく把握できた。
聖職衣を思わせる漆黒の上着に、血のように真っ赤な短髪。かなりの長身である。胸元にはかなり太い鎖がかけられていて、動くたびにそれがじゃらじゃらと重い音を立てていた。
痛みに喘いでいると、彼の革靴が三善の腹部を強く踏みつけた。一瞬息が詰まる。
「ふぅん、『聖火』か。俺の前髪を焦がすとは大したもんだ。だが相手が悪い、六〇点」
のろのろと赤い瞳を動かしながら、三善はこの男の正体を延々と考えていた。こんな人物は今までに見たことがない。だが、正直なところ彼からは生きている人間の気配が全くと言っていいほど感じられないのだ。
そこで三善は、昨夜のケファの言葉を思い出した。
――どうやら、この学校に“傲慢”の第一階層がうろついているらしい。
その言葉の真意を確かめるべく、三善はゆっくりと声を絞り出す。
「……ごー、まん……?」
「うん? ああ、そうそう。お前らが言うところの“傲慢”だなぁ、俺は」
正確にはスペルビア、と随分優しい声で注釈をつけてくれた。だがその声色とは裏腹に、今もその脚は三善の鳩尾を踏み続けている。いい加減痛みもよく分からなくなってきた。ぼんやりとしたまま、三善は数回に分けて息を吐き出した。釈義を使った後の、なんとも言えない脱力感が残っている。やはり先程の炎は『釈義』だったか。
「あぁ、可愛いなぁ! 俺、そういう苦痛に悶える顔大好き」
そして霞む視界の中、彼はにこりと頬に笑みを湛えた。その表情は、まるでケファが普段意図的に纏っている「いい子の仮面」のようだ。つまりは、中身が伴っていない。笑いたくなければ笑わなければいいのに――次に受けた一撃で、三善の思考はそこで止まった。唇から胃液がこぼれ落ちる。
「さて、そろそろ気絶してもらわないと困るな。人間はどこが弱いんだっけ。左胸……は駄目か、殺しちまう」
そこで突然男の口が止まった。男の脚を、三善の左腕が捉えたからである。
この時点で三善の視界は完全にブラック・アウトしていた。ほぼ無意識でなにかを捉えたが、それがまさか彼の脚だとは彼の知る由もない。ただ、どこかで己の師を呼んだだけ。三善の中で、あの師は困ったような表情を浮かべている。『あれ』はあまり余所で使うな、と、彼の唇が動く。
ごめんなさい。三善は短く呟いた。
そんな突拍子もない三善の行動に、驚きのあまり“傲慢”は目を剥いている。だが、所詮は無意識のあがきだ。彼はそう判断し、振りほどこうとした。
――三善の赤い瞳が、まるで黄昏の空のように滲んだ朱に変色するまでは。
彼はつい動揺し、瞬きを二回ほど、かなり意図的に行った。その間に三善の瞳は元の紅に戻ったが、それでも男は焦燥感に駆られている。なにせ、この反応には見覚えがあった。“七つの大罪”の中では特に珍しくない、とある能力と酷似しているのだ。
そんなはずはない、と“傲慢”は足元で伸びている三善を睨めつけた。
「おい、お前。今何しやがった?」
「……『解析』、」
その返答を聞くや否や、彼は三善を容赦なく蹴り飛ばした。細い体躯はうつ伏せの状態でどさりと地面に滑り落ちる。初めは右手の人差し指が痙攣していたが、……とうとうぴくりとも動かなくなった。
小さく舌打ちした彼は沈黙した三善を見下ろすと、白い息を吐き出した。
「――まずは一人目、か。うっかり殺しちゃったか?」
加減が出来なくて困る、と彼はぼそりと呟いた。
それにしても、だ。先程のあの能力は一体何だ。足元で伸びたまま動かない少年神父を見下ろしながら、“傲慢”は静かに思考を巡らせる。
“七つの大罪”のみが持ちうる四つの能力。その中のひとつを、たかが大聖教の神父が行使するなどとは聞いたこともない。しかし、あれは間違いなく本物だった。
その名は『解析』――他人の能力をそっくりそのままコピーする能力。
俺はあいつに一体なにを「盗まれた」のか?
「まぁ、何にせよたかがプロフェットに扱える訳ない、か」
彼はそのように呟き、その場を後にした。
残る神父は二人。あの子のために、徹底的に排除する。